スタート
※本作品には視覚障がいをもつキャラクターが登場します。
多くの方に楽しんで頂きたく、ライトな作風にしています。
障がいを持つ方を揶揄する意図は全くありません。
ブラインドマラソンという競技を少しでも多くの方に知っていただければと考えています。
唇を合わせると、ふっとオレンジの香りがした。
彼女がさっきまで飲んでいたカシスオレンジだろうか。唇を離すと紅潮した彼女の顔が目の前にあった。ヒールを脱いだ彼女は少し背が低い。彼女はとろんとした目をして俺を見上げ、それから耳元に唇を寄せてきた。吐息が耳にかかってゾクゾクした。
「ベッド……行く?」
ピンクに彩られた部屋。キングサイズのベッド。そこに彼女は服のまま仰向けに倒れ込んだ。洋服越しでも胸の形が良くわかる。俺は彼女へ覆いかぶさるように膝をついた。初めてだらけの経験に、鼻から漏れる息が妙に熱い。
すげえ。すげえ。俺、すげえことしている。脳をめぐる血液が沸騰しているみたいだ。
「急にふたりで抜けようって、こういうことよくするの?」
「するわけないじゃん。いいなって思う人だけ」
彼女は俺のシャツのボタンに手をかけた。ひとつ、またひとつと外されていく。
「震えているよ。可愛いなあ」
そう言って、彼女はくすくす笑った。
……合コンの数合わせで呼ばれた俺にまさかこんなことが待っているとは。
彼女は確か俺の三つ上。俺にはもったいないくらい美人で、ちょっと気が強いけど人懐っこくて明るい性格をしている。きっとこのまま一線を越えても、彼女とならこれからも付き合っていける、そう思った。
「俺なんかで、いいの?」
急に彼女の表情が固まる。ちょうど俺のボタンは全て外され上半身が露わになったときだった。何を見ているんだろう……彼女の目線は俺の上半身に釘づけなわけで。
すると彼女は俺の腹の肉を掴んだ。爪が俺の腹におもっくそ食い込んでいる。
「え、ちょ、爪……痛ッ!」
「黙ってッ!」
キッと彼女は俺を睨んだ。思わず体がすくむ。そして彼女の握力はリンゴでも握り潰しそうなほど強くなっていった。
「痛たた! ちょ、それ以上は血が出ます! 血がでる! お血血が出ますってッ!」
俺の腹からはぴゅーぴゅーお血血が出始めて彼女は返り血で真っ赤っか。俺の腹からは漫画みたいに血が出ている。
一方、アイアンクロウを俺の腹に食い込ませたままの彼女は、ありえない、ありえない、とご乱心。
「こんなんでよく女の子を持ち帰ろうと思ったわよねッ!」
「えええ! ごめんなさぁああああああああああああああああああい!」
必死で謝っても彼女はアイアンクロウを解除しない。一方の俺は血が足りないのか視界が霞んで天に召されそうになっている。このままだとまずいのは確かだ。
「死んじゃう死んじゃう! 腹のお肉引きちぎられて召されちゃう!」
暴れる俺を「うっさいわね!」と彼女は制した。
……そして。
すっと、彼女は息を吸って、思いっきり叫んだ。耳がキーンとなるほど大きな声だった。
「痩せて出直せ! このッ!」
デブ野郎ォオオオオオオオオオオオオオ!
デブ野郎――
デブ野郎――――
その台詞がピピピ……と目覚ましアラームの電子音に変わっていった。
「がっははははははははは、ぶひ。ごほっごほっ、ごほっ、がっはははは」
閉店後のしんとした店内に店長の野太い声が反響する。
「笑わないって約束したじゃないですか! 店長も見ましたよね? 昨日の合コン集団! あいつら王様ゲームで、ポッキーゲームっすよ。ポッキーゲーム!」
「それで合コンからお持ち帰りの夢を見るとか、早淵、お前って可哀想なんだな」
「ちょっと、なんでそんな悲しそうに俺を見るんですか!」
俺がバイトしている居酒屋は全室個室&大学から近い店ためか合コン利用が多い。店じまい後の清掃中に、「早淵、合コン行ったことあんの?」といった会話の流れで今日見た夢の話をしてみると、案の定、捧腹絶倒されているわけである。
「やっぱりもうちょい痩せないとダメですかね」
ここの制服は、上は黒シャツ、黒エプロンを腰に巻く。黒という収縮色の制服をだっぽりと着ているからか、普段はそこまで目立たないが実は腹がやばい。俺は自分の腹の肉をつまんでため息を吐いた。
自分で言うのもあれだが自分のスペックはいたってふつう。
話も上手いわけでもなく、親が金持ちなわけでもない。ファッションセンスについては、正直洋服の良し悪しなんてわからない。唯一努力で自分を良くできるものがあるとすれば体型ぐらいのものだ。
その体型も今は……。
「てんちょー。そんなに笑ったら友ともくんが可愛そうですよ~」
厨房の奥から音葉が顔を出した。
秋梨音葉――前髪ぱっつんのロリ大学生。高校生か中学生に見られることも多いけれど俺のいっこ上。小学までは近所に住んでいた幼馴染だ。中学、高校では離れたけど、この春俺が同じ大学に進学したことによって六年ぶりに再会した。その音葉にバイト先を紹介してもらって、現在同じところで働いている。
「お前、聞いてたの?」
「大丈夫っ! 友くんは全然ぽっちゃりじゃないよ」
ぐっと親指を立てた音葉はキリッとイイ顔をする。
なぜデブトークでこんなイイ顔をするのかというと、音葉は昔から皮下脂肪をこよなく愛しているからだ。言葉を濁さず言うと、極度のデブ専なのである。
俺が小学校のころ、音葉は自分の小遣いを全て費やして、俺に餌付けしていたことがあった。毎日毎日ブラックサンダーを俺に食わせ、自分好みのぽっちゃりに育てていたようだ。音葉が中学のときに引っ越した途端、俺が標準体型まで痩せたということは……そういうことなんだろう。
「もっとぷくぷくして欲しいな~」
片手を頬にやりうっとりと俺を見つめる音葉。
ゾクッと背筋が冷たくなる。
こえ~。絶対太らせにきている~。
「いやいや、俺に比べたらガリガリだろ~」
そんなことをのたまうこの店長……一〇〇キロを余裕で超している。相撲取りでいうと小結ぐらいの巨漢である。調理を担当してるが、調理場が狭くて店長がいるとすれ違えない。迷惑極まりない。本人曰く、痩せたらディカプリオ似らしい。なら痩せろ。
「俺、このバイト始めてから一〇キロは増えてるんですよ。ただ大学行って、バイトしての生活で、どういうわけか太っていくんですよね……」
一六八センチ、七二キロ。これが俺の現状だ。
ちなみにバイトを始めてから三日に一キロペースで太っている。
……何かがおかしいんだよね? うん、何かがおかしいのである。なぜにこんなに太ったんだ? ひとり暮らしを始めたせいだろうか。頭をひねってみても思い当たる節がない。
音葉が寝ている間に高カロリー食品でも俺に食わせているのだろうか。
「その夢で出た子って、昨日の合コンで一番目立っていた子でしょ? あの『カシオレまだ~?』って、お嬢様タイプの人?」
「まあまあそう言うなって。昨日は混んでて実際迷惑かけたの俺たちだし。それにスレンダーだけじゃないぜ。けっこう胸も……」
そう、豊かなお胸様もあった。
そんなことを思い出していると、じとーっとした目をして音葉が俺を見ていた。
「友くんは合コンとかだめなんだからね」
「昨日の雰囲気見ただろ? あんな食うか食われるかのリア充空間、胃に穴が開くって」
「いや違うね! 友くんは憧れてるんだからね。合コンからお持ち帰りのナイトフィーバーを虎視眈々と狙っている豚なんだからね」
「豚て……なんで軽くディスってくんの? 確かにこの腹はまずいよな……」
「音葉はぽっちゃりした友くんがいいのにな~」
自分の腹の肉をつまむと、音葉も自然な動作で俺の腹の肉を摘んできた。
「やめろって。音葉こそそんな男にべたべた触るなよ」
言っている途中で恥ずかしくなって背中を向ける。
後ろから、「えー? えー?」と声がした。きっと全力でにやけた音葉がいるんだろう。振り返らない。見るとムカつくからだ。
すると左肩に重みが加わり、ふっと甘い匂いがした。音葉の匂いだ。視界の端に音葉の顔がある。背伸びして俺の肩に顎を乗っけて来たのだろう。一五〇センチの体で無理をする。
「音葉が心配?」
「重い」
顎を跳ねのけてやると、くすくすと笑い声が聞こえた。
恥ずかしがり屋~とおどける音葉の声色が、急に真剣みをおびた。
「音葉は友くんが心配だよ。大学入ったってのにバイトばかりで何がやりたいとかなくて」
「やりたいことって……俺まだ大学一年だぜ。ふつうないだろ」
「出た~、ふつう。高校卒業したら、その『ふつう』ってないのに」
「音葉はあるのかよ」
「音葉は料理する人になって自分のお店を持つんだよ~。だから経営学科に入ったし、料理は友くんちとお店で修行中。将来、友くんのおばさんみたいなことがしたいかなーって」
そう言い切った音葉は、俺を真っ直ぐ見て微笑んだ。
「そっか」
短く答えて、もくもくとテーブルを拭いて回った。酒でもこぼしたのか妙にべたつくテーブルがあった。拭いても拭いても取れなくて、妙に腹立たしくなってしまった。