メッセージ
『退屈。数学なんて大嫌い』
僕が机に書かれたその言葉を見つけたのは、移動教室の時だった。
高校2年の夏。
進路先に応じて、必須教科別に分かれて行う移動教室。
これは、クラスに関係なく同じ学年の生徒がいくつかの組に分かれて授業を受けるというシステムだ。
当然、使われる教室は自分たちの教室ではなく、使われていない教室の場合もあった。
現に、今僕が授業を受けている教室は、普段誰も使っていない空き教室だった。
そこで僕がついた席に、そんな愚痴のような言葉が書いてあった。
書いたのは女子のようで、丸っこくてかわいらしい字だった。
僕は、なんの気なしに
『数学なんてつまらないよね』
と書いてみた。
単純に、書かれてあった愚痴に乗っかっただけの落書きだ。
しかし、その二日後、僕の書き残した言葉に返答があった。
『わかる? やった、仲間がいた』
その短い文言に、僕はクスリと笑う。
短いながらも、とても嬉しそうな想いが感じられたからだ。
『数学嫌い仲間だね』
その言葉を書いた次の授業では、また新しいメッセージが残されていた。
『おお! 面白いことを言うね、君は』
僕はまたメッセージを書き残す。
『君だって』
そんな他愛のないやりとりを繰り返すうちに、僕は嫌いだった数学の授業が楽しみになってきた。
お互いに書く内容は一言二言。
けれども、交換日記とは違ったわからない相手との言葉のやりとりが楽しくて仕方なかった。
ただ、お互いにとても大事な、そして最も知りたいであろうことは避け続けていた。
すなわち。
『君はだれ?』
その言葉だ。
相手の素性を知った瞬間、このやりとりは終わってしまうのではないか。
そんな気がしたのだ。
だから、僕は誰にも教えることなく、密かに机の上だけの交流を楽しんだ。
やがて、相手から一風変わったメッセージが書かれていた。
『君は何系に進むつもり?』
何系、つまり大学進学を考慮した上で、文系に進むか理系に進むかの選択だ。
僕はいまだに迷っていた。
数学は嫌いだけど、科学や物理は大好きだ。矛盾しているかもしれないけど、科学者というものに憧れている。工学系の専門学校に通いたいという思いもあった。
『まだ決めていない。君は?』
僕の問いかけにたった一言、相手からのメッセージには『文系』と書かれていた。
『文系かあ。希望するところに行ければいいね』
『ありがとう。君も早く行きたいところが決まればいいね』
とても温かくて優しい言葉だった。
僕はこの相手が誰なのか、すごく気になってきた。
他の移動教室の時間でこの席に座っている生徒。
根気よく調べればわかりそうだけど、なんとなくしちゃいけないような気がしていた。
相手はどう思っているのだろうか。
同じように、僕が誰なのか気になっているのだろうか。
モヤモヤしながら、僕はその夏を過ごして行った。
そのうち秋になり、メッセージの内容は勉強のことだけでなくお互いの趣味やテレビ番組の内容にまで及んでいた。
『君は将来、何になりたいの?』
その問いかけに、僕は迷ってしまった。
今はまだ、なりたいものはない。
『特に決めてない。君は?』
僕の問いかけに、相手はとても小さな字でこう答えた。
『小説家』
小説家。
僕には思いもつかなかった職業だった。
小説家、目指してもなれるものでもない。
僕は思わず興奮してしまった。
『すごい、すごいよ! 小説家だなんて!』
『そ、そう?』
『心から応援するよ! デビューしたらファン第一号になってもいいかな?』
『うん、なれたらね!』
その文字は、いつにも増して力強く、そして嬉しそうだった。
実体験をもとにしたフィクションです(笑)