息づく矜持
ただでさえ静まっている図書館の空気が、更に凍ったような気がした。
明くんは、わななく唇で、吐き捨てるようにいう。
「ばかな。言っただろ、俺は福祉の人間じゃない。
だいたい、そんなことをして何になるっていうんだ」
「東江くん。確認は済ませたかい?」
わたしは肯定する。
「はい。タウンページにあった福祉施設に問い合わせたところ、確かに、職員の方はこうおっしゃっていました。昔、熱心に指文字を習いにきた兄弟がいた、と」
「そういうことだ。――幼いころ、聴覚も使えない上に弱視だったひかるちゃんを案じたきみたち、去場兄弟は、福祉施設に通ってまで、指文字を習い続けた。聴力も、今回の事故により一時的に視力もなくした彼女と、意志疎通ができたのは、ひとえに、きみの、過去の努力のたまものだったわけだ」
たたえるように、浜川さんは続ける。
「何より周到なのは、きみが看病のために病室へ訪れるタイミングさ。看護師といった人間に顔を見られないように、あえて深夜に行くことをきみは選んだ。ぼくたちのような好奇心にかられた人間が、写真などできみの顔を確認しかねないからね。もっとも、まったく顔を見せないように振る舞ったきみの行動は、そのまま、毎夜病室に通う存在が、本当に去場恭二なのか否かを疑わせてしまったわけだ」
「待てよ」さもばかばかしい、といった風情で、明くんはさえぎる。
「指文字の件は正しいとも。俺たち兄弟は、何も聞こえず、何も視ることができないあいつが憐れだったから、指文字を積極的に学んだ。でも、なんで俺がでてくる? ひかるの彼氏は兄さんだぞ。俺なんかが出張る必要はないじゃないか。兄さんが看病すれば、それでこと足りるんだから――」
「きみは、ぼくたちがまだ知らないとでも思っているのかい」
浜川さんのその言葉に、遅れて、彼は顔を青ざめさせた。
「まさか」
「ああ。一応、きみの質問には答えておこう。
結論からいって、去場恭二くんがひかるちゃんの看病をすることはできない。
だって彼は、すでに、この世にいないんだからね」
大きな事故だったそうだ。突っ込んできたのはハンドル操作を誤った大型トレーラー。
ひかるちゃんのような脆弱な女の子が生き残れたのは、彼女を、身を挺してかばった存在がいたから。
「去場恭二くんが負った怪我は、それこそ、どうしようもないものだったそうだ。
市立病院では対応できるようなものではなかったらしく、別の、手術環境がより整った病院へ搬送された。だが、手術もむなしく彼は、ほどなくして息を引き取った」
「なんで、そのことを……!」
「箝口令を敷いたのはきみだろう。大学が、ああもかたくなに去場恭二くんの情報開示を渋ったのも、市立病院で、彼の死がほとんどの者に知られていないのも。それにも関わらず、なぜぼくが知っているのか、といえばね。あいにくと、ぼくは記者のバイト時代にめぐらせた情報網がある。
その網が、たまたま去場恭二くんの搬送された病院にも仕掛けられていただけのこと」
さらさらと紙にペンを走らせながら、よどみなく先生は続ける。
「なぜきみは、兄の死を、周囲に隠したのか。それは、大学や病院が、きみの要求に応じていることを鑑みるに、一つしか考えられない。――友利ひかるちゃんの容態を案じたからだ」
ひかるちゃんは、事故により、極めて衰弱していた。そんな状態で、去場恭二の死を知らされれば、精神への追い打ちになるであろうことは、想像に難くない。
「それは、なんとしても避けなければならない。決心したきみは、大学や病院に、兄の死の隠蔽を嘆願した。何かの拍子で、看護士や友達が、ひかるちゃんに、去場くんの死を伝えてしまいかねないからね。人の命がかかっているからこそ、公的機関に融通が利いたんだろうけど。更に、きみは、ひかるちゃんが両目を使えなくなったという状況を、うまく利用することにした。かつて弱視だった彼女は、指文字の解読ができるし、きみも習得している。それによってきみは、あたかも去場恭二が生きて、彼女をつきっきりで看護しているかのごとく振る舞った。会話についての整合性は、兄の遺した日記を使ったのだろう。
几帳面な恭二くんは、ひかるちゃんとの思い出を逐一日記に記録していたらしいからね」
ひかるちゃんの証言した人物――明くんが、いつも手袋をしていたのは、手の形から、彼女に自分の正体を見破られないようにするための策だったのだろう。
締めくくるように、浜川先生は告げる。
「去場明くん。きみは、素晴らしい若者だよ。実際、きみの策は功を奏し、ひかるちゃんは驚くほど回復を見せた。だが、それは、同時に、どうしようもなく辛い決心だったはずだ。
きみにとっても、彼女にとっても」
「あ……あんたに何がわかるッ!」
机を叩き、彼は獣のように吠える。
「こうするしかなかったんだ。ひかるは、兄さんを心の底から愛していた。そんなあいつが、兄さんの死を知ったら、生きる気力なんかなくすに決まってるだろうが!
でも、生きて、欲しかったんだよ。だって、だって、俺は――!」
「彼女のことが、好きだったから」
先生の言葉に、彼は頭を抱えて呻く。
「ああ、ああ、そうだよ。例えようもなくみじめだったさ。
昔から、兄さんはなんでもできた。勉強もスポーツも芸術も音楽も、なんだって兄さんの方が上手だった。対して、俺にはなんの取り柄もない。ひかるが俺じゃなくて、兄さんを選んだのは当然のことだったんだ。そう自分に言い聞かせ続けることが、どれだけ辛かったか。あんたらには絶対に分からない!」
自嘲の笑みを浮かべ、明くんは虚ろな視線を床に落とす。
「これはエゴだよ。俺は、永久に恋人を行方不明にさせたまま、ひかるに先の人生を歩ませようとしている。そのツケは取るつもりだ。俺は近いうちに、沖縄から出る。二度と戻ることはない。
俺の両親も本土にいる今、去場恭二の死を知る者は、この県からほぼいなくなる」
「それが、きみなりのけじめってことかい」
そうとも、と彼は吐き捨てる。
「……あんたの言う通りだ。両目が使えなくなったひかるを励ますために、俺は兄さんを演じ続けた。滑稽だったさ。ひかると、ずっとこうして寄り添っていたいと思う度に、あいつが話しかけているのは俺なんかじゃないと気付くんだ。頭がいかれそうだった。心が軋んで、何度も絶叫をあげそうになった。だけど俺はやり遂げた。……やり遂げたんだ」
ここ数分で、表情から多くの生気を失ってしまった明くんは、ゆっくりと立ち上がった。
「探偵ごっこができてよかったな。百点満点だ。
自己陶酔でもなんでもしているといい。だが、絶対にこのことを外部に漏らすなよ。ひかるにだけは知らせるな。あいつの中で、兄さんは永遠に生き続けるんだから」
「そりゃ無理な相談だよ」先生は快活に笑った。「事情は、もう全部話したから」
「な……なんだとぉッ!」
怒髪天を突く勢いで、彼は先生の胸倉をつかみあげる。
「ふざけるな! どういうことか説明しろ!」
「落ち着いて落ち着いて。それにほら、ぼくよりもあの人に訊いた方がいいんじゃない」
浜川さんの指し示す方向にいた人物を見て、去場くんは仰天した。
本棚の裏から姿を現したのは、車椅子に乗ったひかるちゃんだった。
現実を拒むように、彼は頭を振る。
「なんで、こんな、むごいことを」
茫然とした明くんは、膝から床に崩れる。
「……ひかるは、俺を恨んでいるだろう。耐えられない。俺には、耐えられない。俺を憎む、ひかるの視線に晒されるくらいなら、俺は、死んだほうがいい」
「本気でそう思ってるの?」
わたしの言葉に、彼は重々しく返す。
「俺は、兄さんを騙って、ひかると寄り添ったんだぞ。許されるはずがない」
「許されるかどうかは」わたしは、彼を立ち上がらせた。「彼女に直接訊きなさい」
明くんの視線の先、ひかるちゃんは――ただ、安らかに微笑んでいた。
その表情には、怒りも、憂さも、含まれてはいなかった。
『ごめんなさい、明くん。辛い役を、させてしまって』
「なに、言ってんだよ。俺は、お前を騙したんだぞ」
聞こえているはずはないのに。
ひかるちゃんは、彼の言葉に呼応するかのように文章を打っていく。
『わたしは、明くんを恨んでいないよ。……浜川先生から、経緯を教えてもらったとき、目の前が真っ暗になりました。明くんの言う通り、私は、確かに、恭二くんの後追いをしていたかもしれない。わたしにとって、彼は、自分の半身にも等しい人だったから。……でも』
震える指先はおぼつかないながらも、確かに、言葉を刻んでいく。
『深い悲しみと一緒に、深い感謝を、私は感じています。
貴方が救ってくれたこの命を、私は投げ出したりなんかしない。
ありがとう、明くん』
「やめてくれ。俺は、礼を言われるためにあんなことをしたんじゃない!」
悲痛に声を荒げる明くんから、しかし、彼女は目を逸らさない。
『あなたは、自分のことを、価値のない人間と思っているのかもしれない。でも、違うよ。恭二くんも、明くんも、子供の頃から私を助けてくれた。二人とも、私にとってかけがえのない人。
だから――行かないで』
祈るように、願うように。
ひかるちゃんは、切実に、キーを叩いた。
『明くんまで、私からの前から――いなくならないで』
「う……ああああ」
うずくまった明くんは、涙をこぼし、謝り続けた。
ひかるちゃんもまた、笑みを崩し、顔をくしゃくしゃにして嗚咽を挙げ続けた。
それは、去場恭二という、ただ一人の男へ向けた、鎮魂歌だったのかもしれない。
「お久しぶりです、浜川先生。いやあ、何やら大変だったようですね」
居酒屋にて、かつて指導していた文芸部員である比嘉くんと、ぼくは落ち合った。
席に座ったぼくは、あいまいに笑う。
「糸数館長に怒られちゃってね。ちょっと地下でごたついちゃったから」
「ははあ、また東江さんですか。面白い子ですよね。僕もあの子に同行しようかな、いい小説のネタにありつけそうだし」
「はん。現役の作家が、編集者以外の他人を当てにしちゃあいけないよ」
さしみに舌鼓を打ちながら、比嘉くんは続ける。
「でも、東江さんは編集者を目指しているんでしょう。
――だから、ですよね。最近、浜川さんが仕事をしないのは」
「なんのことかな」
とぼけても無駄ですよ、とかつての学生は笑う。
「文章作成やら相談やら、っていうのは、編集者を目指す上で貴重な経験。
だから、通常の上限よりも、多くの業務を彼女に処理させているんでしょう?」
「……きみは昔から深読みが好きだったよね。物書きに向いているわけだ」
ぼくはウーロン茶を呷って、素っ気なくいった。
「もう歳、ってだけの話だよ。ぼくはもうこれ以上働きたくないんだ」
「左様ですか。――あ、ところで今月の新刊なんですが」
以降、文壇話に花を咲かせながら、ぼくと彼は飲み明かした。
いつになっても、ぼくがお酒を飲めるようになる気配はないのだが。
「おはよう、東江くん。って、なんだいそのひどい面構え」
月曜日の出勤時間。浜川先生は呆れたような視線をわたしに浴びせる。
日曜のいざこざで、わたしはすっかりノイローゼになってしまっていた。
「あの件、まだ引きずっているのかい。らしくもない」
「そんなこといっても、先生……」
悲しくてしようがなかった。これから、あの二人はどうやって生きていくのだろう。
あの二人の絆は、どうなってしまうのだろう。
わからない。わたしにはちっともわからない。
「わかることならあるさ」
浜川さんは、コーヒーをすすり、迷うことなくいった。
「去場恭二は生き続ける。友利ひかると、去場明の絆と思い出のなかでね。『死は、生の対極として存在しているのではなく、その一部として存在している』んだよ」
「……」
彼女は、幸せだったのだろうか。
彼らは、幸せだったのだろうか。
そして、そんなことは何の関係もなく、世界は回っていく。
それは、何よりも残酷で。
同時に、優しいことなのかもしれない。
「そうですね。……ここでぐずぐずしてても何も変わらないや」
気合いを入れ直したわたしは、さっそく相談用の資料を集め始める。
「あ、浜川さん。この資料運ぶの手伝ってほしいんですが……って」
いない。裏口から逃げたようだ。良いこといった途端これだった。机には、「今月の『文芸春秋』を買ってきます」の書置きが。
さすがにキレたわたしは、ダッシュして先生を追う。
走って逃亡する先生の背を追いながら、そろそろわたしは、労働基準局へ足を運ぶことを検討するのだった。