ヘレン・ケラーの適格
次にわたしと浜川先生が訪れたのは、ひかるちゃんと去場くんが通っていたという大学だった。ひかるちゃんを通して何人かの学生と待ち合わせを予定していたので、そこで去場くんの情報を収集する算段だった。
「去場くん? ああ、ひかるちゃんの彼氏ね。とっても努力家で優しい人だったかな」
「それでいて、几帳面だったよね。ひかるちゃんとの生活は、ずっと日記に綴ってたし」
「手話も完璧だったよな。指文字とかにも精通してたっけ」
「事故のあと、いきなり大学からいなくなっちゃったんだよね。ひかるちゃん、かわいそう」
「別れ話も、介護に疲れたって話も、ぜんぜん聞かなかったよな」
「あんなに仲が良かったのにね。どうしちゃったんだろ」
学生たちから聞けた話はこれくらいで、やはりというか、二人の仲がこじれたような感じは、周りからしても見受けられなかったようだ。
去場くんの人物像も浮き彫りになってきた。人当たりの良い好青年。努力家で、介護を必要とする人のためなら、どんな苦労も顧みない人柄だったようだ。
ゆえか、ついたあだ名は『サリヴァン先生』だったとか。
「大層なあだ名だすけど、実際聞いてみると、本当に良くできた人だったみたいですね」
「でも、正確じゃないよね。アン・サリヴァンの教え子であるヘレン・ケラーは、視覚も聴覚も不全だった。対して、ひかるちゃんが有していないのは聴覚だけ。ま、単純に、人格者であるところから連想されたんだろうけどさ」
わたしと先生は、大学付属の学食で昼食をとっていた。
先ほど、去場くんの移った写メを、学生から送信してもらった。
もしかしたら役に立つかもしれない、という浜川さんの案である。
「奇妙だね」沖縄そばの麺を咀嚼しながら、浜川さん。
「事故の会った日以降、去場くんは、大学へ来ていないと、みなが口をそろえる。しかし、その間、彼はひかるちゃんの介護を日々続けていた。大学の講義を放棄してまで彼女に献身していた、ということなら、やはり、彼女の前から姿を消すのは不自然だ」
「ひかるちゃんは、幼い頃から身体が弱かったそうで。事故後も、危篤の一歩手前だったようです」
「それなら、なおさら講義を放り出してまで、彼女につきっきりで世話を焼くのは充分わかるんだが……なぜだろう。なんで、彼は行方をくらましたんだろうね」
二人がかりで頭をひねっても、学生たちに尋ねても、これ以上の進展は望めそうになく。
今日は、とりあえず、すごすご退散することとなった。
北中城に居を構える先生と、わたしの住所は真逆だった。遠慮するわたしにかまわず、浜川先生は、家まで送ると言ってくれた。その間、わたしは、去場くんの写メをじっと見ていた。
一目でわかる。県民とは違う、本土の血統だ。
柔和な顔立ちで、体系は引き締まっている。介護職の人間は筋力も求められるのだろう。
……いったい、今、貴方はどこにいるの? ひかるちゃんは、貴方がいなくて本当に寂しがっているのに。もう、いい加減、かくれんぼはやめて出てきなよ。
そんなことを写メに対して念じても、何かが変わるわけではないのだけど。
五分ほど走行していると、赤信号にぶつかる。浜川さんは車を停止させた。
横断歩道を渡る人々の姿をぼんやりと眺めていて――衝撃を受けた。
写メへの訴えが天に届いたのか、定かではないが。
わたしの両の目は、歩道を渡る、去場くんの姿をしっかりと収めていた。
「……弟さん、ですか?」
「だから何度もそういってるじゃないか。なんなの、あんたら」
去場くんと思い、強引に近くのマックへ連れ込み白状させた結果が、その言葉だった。
遠目からではよく似ているが、至近で見ると、確かに別人だった。
浜川先生は疲れたように、
「いや、東江くんさ。走行中の車から飛び出して、見ず知らずの人を拉致するとか、本当にやめたほうがいいよ。衝動だけで動いていたら自分も周りも寿命を縮めるから。
……すいませんね、去場さん。ここのお代は、こちらでお支払いしますので」
「どういう事情?」
去場くんの弟さんに、事情の一切を説明する。一通り聞いた彼は、眉間にしわを寄せる。
「なるほどね。悪いけど、分からないとしか俺にはいえないよ」
弟さん――去場明くんは続ける。
「恭二兄さんと俺は、別に、一つ屋根の下で暮らしてるわけじゃないんだ。
兄さんとその彼女のいざこざなんて、我関するところじゃない」
「お兄さんは、県外からここへ派遣されたんだよね。きみもそうなのかい?」
「違うよ」先生の問いに、彼は首を横に振る。
「もともと、俺も兄さんも、生まれは沖縄だ」
どうやら、去場恭二くんが沖縄へ派遣されたのは、沖縄が地元だったことも理由の一つであるらしい。
「大和出身の両親が、ここへ移住したのが始まりってこと。今はもう本土に帰ったけどね。
そもそも、兄さんは、自分のスキルを高めるために県外へ行ってたんだ。
ひかるの介護を、しっかりと勤めることができるように」
「と、いうことは」
うん、と明くんはうなずく。
「幼なじみだよ。友利ひかると、俺たち兄弟は。兄さんとひかるは、周りに内緒にしてたみたいだったけどね。ほら、動機が不純だと思われるだろ?」
「なるほど……」浜川さんは呟いて、更に尋ねる。
「きみも、介護職の人間なのかい」
「そんなことを聞いて、どうするんですか?」
「気になったから尋ねただけだよ。答えると、何かまずいことでも?」
「……俺はガテン系だよ。ジジババや障害者のお守りなんてごめんだ。もういいだろ。急用があるんだ、帰らせてくれ」
席を立った彼は、注文した商品を受け取ることもなく、店内から去った。
マックで早めの晩餐をとったあと、わたしと先生は車に乗り、再び帰路についていた。
……去場恭二くんの弟、明くん。
明くん自身は当事者でないと主張しているが、正直、彼の挙動は怪しく感じた。
何かを知っている。それも、知られたくない何かを。そんな気がした。
「もしかしたら、だけど」ハンドルをにぎりながら、先生。
「ぼくたちは、根本のところで、なにか、大きな思い違いをしているのかもしれない」
「え。そうなんですか、浜川さん」
まだなんともいえない、といった感じで、先生はうなずく。
「病院に行ったとき、きちんと周囲から聞き込みをしなかったね。
一度、振り出しに戻ってみよう。明日、改めて病院へ行ってみようか」
翌日。予定通り、先生とともに、市立の病院へ足を運んだ。
今日は、院内のナースに対して調査をすることとなった。
ひかるちゃんの担当である小太りのおばちゃん看護師に尋ねると、彼女は不憫そうに、
「大きな事故だったみたいだけど、あれは奇跡だよ。
両目を怪我したとはいえ、ひかるちゃんみたいな身体の弱い女の子が生き残れたなんて」
「待ってください。ひかるちゃんは、両目に怪我をされたんですか?」
新たな情報に、わたしは食い入って尋ねる。
「ええ、そうだけど。ガラスの破片で両目を切っちゃったらしくてね。入院してから一週間ほどは、両目を包帯で巻いていたのを見たけど、痛々しい姿だったわ」
もっとも、二週間前には、きれいさっぱり完治してたみたいだけどね、とおばちゃんは続ける。
「……なら、待ってくださいよ。両目も使えない。両耳も使えない。そんな状態で、どうやってひかるちゃんは、お見舞いにきた去場くんと意思疎通を図ったっていうんですか」
「昨日の聞き込みを忘れたのかい、東江くん。
学生の一人が言っていたじゃあないか、去場くんは指文字も使えた、って」
「指文字……ですか?」
浜川先生は、小馬鹿にした風に、
「やれやれ、知らないのかい。前にも言ったけど、ヘレン・ケラーは幼少時、聴覚も視覚も機能していなくてね。その際、サリヴァン先生は、指文字――指で表現する文字を使い、それをヘレンの手で触らせることを繰り返して、意思疎通ができるようにしていったんだ」
「そうそう。ひかるちゃんは、中学生の頃まで弱視だったみたいでね。今でこそ手術のおかげで回復しているけど、あのころは、ほとんど何も見えなかったみたいだよ。たぶん、去場くんは、そのときに指文字を覚えたんだと思うわ。ひかるちゃんと、お話しをするために」
つまり、子供の頃に習得した指文字が、今回の事故になって役に立った……そういうことか。
「なるほど。……ところで、看病に来た去場くんは、どんな格好をしていましたか」
「それが、だれも見てないのよ」
困惑した風に、おばちゃんは首をかしげる。
「ひかるちゃんによると、いつも深夜遅くになって来るらしいの。
そうして、朝になるまでずっと看病してくれるそうだけど。
部屋のなかも暗いから、ほとんど顔は見れなかったし。仕事の都合かしらね」
おばちゃんの言葉に、ふむ、と先生は腕組みをした。
「ちなみに、指文字を去場くんに誰が教えたか、分かります?」
「ひかるちゃんから教えてもらった話だと……近くの福祉施設の職員だったはずよ。ひかるちゃんの関係で、去場くんも顔見知りだったみたいだから。偉いわよねえ、小学生の頃からこんなにも頑張れるなんて」
「タウンページに載ってますかね、その施設の番号」
「だと思うわよ」
ありがとうございます、と頭を下げた浜川先生は、そのまま廊下を取って返す。
慌ててわたしは、先生を呼び止める。
「どこへ行くんですか、浜川さん。調査するんじゃなかったんですか」
「その必要はないよ」先生は、いつも通りの調子でいった。
「もうすでに、答えは出ている」
「またあんたらか。いったい、どういうつもりだよ、こんなところに呼び出して」
О大学図書館地下、ライティングセンター。
そこへ電話で呼び出された去場明くんは、うんざりした顔でいう。
「俺から貴重な休日を奪わないでほしいな。っていうか、どうやって俺の電話番号を入手したんだよ」
「まあ、その辺については後ほど。――なに、ここはライティングセンターだ。
ぼくの業務は文書作成。これから、依頼者のリクエストに応じた報告書を書き上げるんだよ。きみを呼んだのは、文章の信憑性を確保するためだ」
書類にペンを走らせながら、浜川さんは続ける。
「発端は、病院のインターンへ行った本学学生の依頼だった。彼女はこう言った。『友利ひかるちゃんという、聴力のない女の子が、彼氏が行方不明になって悲しんでいる』と。
でも、実際の状況は少し食い違っていた。交通事故の際、両目を怪我したことにより、入院してから一週間ほどは、ひかるちゃんは視力も使えなかった。
このことを本学の学生が言わなかったのは、単に、知らなかったからだろう。彼女がインターンへ臨んでいる頃には、すでに、友利ちゃんの目の怪我は完治していたんだからね」
同様に、ひかるちゃんがこのことについて言及しなかったのは、彼女もまた、本学の学生がそれを知っていて、わたしたちに教えたものと誤解していたことによる。相互に勘違いしていたわけだ。
「で、この相互的な勘違いが、ぼくたちに大きな思い違いをさせた。
――以前、ひかるちゃんはヘレン・ケラーに適格しないと言ったけど、撤回しよう。
入院してから一週間だけ、聴力、視力、発声、これらが使えなかった彼女は、確かに、まごうことなき『ヘレン・ケラー』だった」
「何が、言いたいんですか」
明くんの首元からは、うっすらと冷や汗が流れていた。
その先は、言ってはいけない。けれど、明らかにしなくてはならない。
それを、望んでいる人がいる限り。
「遠回しな言い方はやめよう。ひかるちゃんが入院してから一週間、彼女を支え続けた『アン・サリヴァン』は、きみなんだろう? 去場明くん」