秘密の絵
――日直。誰が最初に考えたのかわからない、面倒な仕事。一人でするならまだいい。自分のペースで出来るから。根っからの綺麗好きな私は学校を隈なく掃除したい。でも、いつも一緒になる羽田は掃除したしりからそれを汚していく。当然日誌も私が書いている。羽田はそれを眺めているだけだ。
「おい、羽鳥ー! これなんだと思う?」
「あ、また黒板に落書きして! さっき綺麗にしたのに……」
「だから書きたくなるんじゃん?」
ケラケラと意地が悪そうに笑う羽田に、怒りよりも呆れが生じた私は、「ばっかじゃないの」と聞こえないように小さく捨て台詞をはいた。羽田は何が楽しいのかへらへらしている。黒板には羽の生えた謎の生物が描かれていた。いや、これは生物なのだろうか……とにかく消す! 描かれる。消す!――
こんな日が日直のたびに何度もあった。日直は一週間の間しっかりとこなさなければならない。困り果てた私は、職員室に行って担任の星崎先生に相談をした。すると、先生は「じゃあ今度3人で一緒に掃除をしましょう」と言ってくれた。そして日直の週。不思議な事に星崎先生がいる日、羽田は大人しく黙々と掃除をしていた。綺麗になった黒板には触れもしないで。これじゃあ私が嘘をついたみたいじゃない。
「あらあら綺麗になりましたねー」
先生はそう言うと、私たちの顔を一度ずつ見つめながら、「じゃあ仲良くね」と言って、笑顔で教室から出て行った。シンと静まる教室。気まずい。私が先生に告げ口したみたいになってしまっている。羽田はクラスでは人気者。一方私はどこのグループにも属せなかった転校生。高校2年生でこの学校に来たときには、もう既にグループが出来上がっていた。まずい、羽田が本気になれば私は明日からいじめられっ子かいじられキャラになってしまう。挙句の果てには不登校に――
「なぁなぁ羽鳥ー、これなんだと思う?」
「え? ああ……って! また落書きしてる!」
「はっはっはー、もうチクるなよ」
「もう、やめてよ」
描いては消すの攻防が始まった。羽田は同じ絵を高速で描いていく。しまいには黒板消しが真っ白になってしまった。
「ねぇどうしてこんなことするの? 私なにか悪い事した?」
これは完全ないじめだ。そう思ってその場で泣いてしまった。目の隙間から涙がポロポロあふれ出てくる。その様子を見ていたからなのか、羽田はしばらく黙り込んだあと、頭をかきながら「なんでわからないかなー」と後味悪そうに呟く。
そして、私が泣きながら意味不明な落書きを再び消そうと黒板消しに手を伸ばした瞬間――羽田が私の腕をグイッと引っ張った。条件反射で突き放した私は、鞄を持ってその場から立ち去ってしまった。
次の日。
誰にも相談することができず、いつもより重く感じる鞄を肩にかけながらゆっくりと教室に入っていく。もういじめられてもいいや。きっとまた父の転勤で違う学校へと通うことになるだろうから。それまでの辛抱だ。なんて思って机に着いたら、紙切れのようなものが置いてあった。
――昨日はごめん。――
裏面には例の謎の生物の絵が描かれていた。間違いなく羽田からの手紙だ。賑やかな声がすると思って振り向けば、羽田がグループの中心で、たわいもない話をしながら周囲を笑わせていた。例えば凍り道に滑って転んだ話とか、星崎先生に「母さん」と言ってしまったこととかだ。普通のことなのに、羽田が言うと何故か面白く感じる。
授業中もそうだ。くだらない質問や解答をして周囲を笑わせる。そんな羽田がちょっとだけ羨ましかった――それにしても、この謎の生物の絵は何なのだろう? トーテムポールのような羽にまがだまの出来損ないのような体。爬虫類のようなギョロッとした瞳にはえた長いまつげ。はっきりいって気持ちが悪い。
ふと視線を感じ、紙切れから目を逸らして羽田の方をチラッと見やると、羽田はこっちを向いてニカッと笑った。気のせいかも知れないけれど……。
一応いじめではなかったみたいでホッとした私は、いつものように寝たフリをして休み時間を過ごした。一人で黙々と読書をしていると、「気取っている」とか「インテリぶって」といじめられたことがある。人間は学習するものだ。同じ過ちは二度とおかさない。それが転校生活で学んだ処世術だった。
もちろん今まで少なかったけど友達も出来た。でも、転校すれば「遠くの存在」になってしまう。父は私が学校に慣れた頃に転勤する。それが原因で喧嘩になることも多かった。シングルファザーでここまで育ててくれるのはありがたかったけれど、もうちょっと普通な学校生活を送りたかったものだ。
特に体育の時間は私にとって最悪の時間だった。なにかあれば「二人一組になって!」である。言い方は悪いけれど、いつも私は「残り者」と組まされる。大抵運動神経の悪いふっくらした女子だった。目立ちたくないのに、そのときだけはやけに目立ってしまう。悪気がないのはわかるけれど、「しっかりー!」とか「おもしれーな、あいつら!」という冷やかしはやめて欲しい。心底恥ずかしいから。
そんなこんなで下校中。
私は歩きながら謎の紙切れを鞄のポケットから取り出した。よく見ても見なくても気持ちが悪い生物が描かれている。日直のときにいつも描いてくるこの絵にはどんな意味があるのだろう?
「よっ、羽鳥。まだそれ持ってたのか?」
驚いて後ろを振り返ると羽田が意外そうな表情で立っていた。
「羽田君、帰り道同じ方向なの? それと、この絵には何の意味があるの? 私なにか悪い事した? 私どこかおかしい?」
「まてって、質問多すぎ。まず俺の家は反対方向。単純に謝りに来たんだ、この前のこと」
「この前のこと?」
「あんなに泣いてたのに忘れたのかよ!? 日直の日のことだよ」
「あぁそっか、泣いてたね私」
「……悪かったな」
「気にしてないよ。良かったいじめじゃなくて」
「いじめってお前……俺がそんな陰湿なことするような顔に見えるか?」
まるでフグのように顔を膨らます羽田を見て思わずクスッと笑ってしまった。彼はこうなることを知っていたかのように一緒になってケタケタ笑う。友達になれそうな予感。――でも、きっとまた転校することになるだろう。そうしたら羽田は今までの友達のように「遠くの存在」になってしまう。
「お前さ、何で自分から声かけないの?」
「それは……」
前の学校で友達を作ろうと一生懸命に声がけをしていたら、「うっとおしい」だの「話が合わない」だの「話し方が変」だのと散々だった。だから東京に越してきたとき、真っ先に覚えたのは標準語だった。そのおかげで当たり障りのない会話は出来るようになったけれど、自分から声をかけることは私にとって、「目立つこと」そして「危険なリスクを負うこと」なのだ。
「だってうっとおしいでしょ。もうグループができてる中に無理やり入り込もうとするなんて」
「転校してきてもう何ヶ月目だよ。いい加減馴染めよー」
「馴染んだってまた転校しちゃうし、無駄でしょ」
「……無駄じゃねぇし」
羽田は私が持っている紙切れを指差して言った。「次の日直の週までにこれが何か考えとけよ! 絶対だからな!」。そしてツルッと一回滑って反対方向へと駆け足で帰っていった。
白い息を吐き、紙切れを見つめる。私には化け物にしか見えないそれは、羽田にとっては「意味のあるもの」らしい。考えろといわれても何なのかさっぱりわからない。トーテムポール? 恐竜? おばけ?
家に帰って課題や夕食などを済ませてからも、絵について考えていた。父は仕事で夜遅くにしか帰ってこないため、一人の時間が多かった。いつもは一人でスマホゲームをしたり、動画サイトを観たりしている日々が多かった。だからか、久々に違う刺激に出会えてちょっとだけ嬉しかった。
トーテムポールのような羽にまがだまの出来損ないのような体。爬虫類のようなギョロッとした瞳にはえた長いまつげ――
見れば見るほど謎が深まるばかりだった。一時間ほど考えて、私は暖房で暖められたぬくぬくのベッドに潜り込んだ。もう降参だ。さっぱりわからない。今度の日直のときに聞こう。その日はぐっすりと眠れた。暖かい布団に包まれているせいか、お風呂に入っている夢を見た。とても心地よかった。
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そして、日直の週が来た。また一週間羽田の落書きを見ることになる。でも少しだけ気になっていた。あの絵は何なのかを。一通り掃除が終わり、机も窓ガラスもピカピカになったところで、羽田が声をかけてきた。例のごとく黒板にはあの絵が描かれていた。
「なぁー、これ何か考えてきたか」
「トーテムポール?」
「違う」
「恐竜?」
「全然違う」
「おばけ?」
「んー、近い」
すると羽田は突然私のことを指差して「お前だよ」と言ってきた。散々考えさせておいて、そんな答えとは酷い。馬鹿にされたような気持ちになって「どこがよ!」ときつい口調で聞き返した。友達になれそうなんて思った私が馬鹿だったんだわ!
「突然やってきた目が大きい渡り鳥。でも幽霊のように毎日身を潜めて学校の中を彷徨ってるって感じの絵だ。お前にそっくりだろ?」
「私のこと馬鹿にしてるの!? ぼっちだから? ぼっちは幽霊ですか!?」
「最後まで聞けって……。そんなお前のことを俺は、ちょっと気になってる」
「心配しなくても、一人で生きていけますから大丈夫です!」
「そうじゃなくてさ。もっと知りたいんだ。お前のこと。だからもっと話しかけてくれよ」
「……」
長い沈黙と、時計のチクタクという音が独特な空間を作り出している。
「どうして気になるの?」
「この高校にきてすぐの頃、俺とお前の席、隣どうしだっただろ? その時俺が消しゴム落としたのをお前が拾ってくれたの覚えてるか?」
「なんとなく」
「そのときの言葉が忘れられなくてさ」
「私なんていったっけ?」
「覚えてないのかよー」
ムスッと膨れる羽田。私何か余計なこと言ったっけ?
「言ったじゃん『はい、”はねだ”くん』って」
「そういえば……読み間違えたような気も、でもそれがどうかしたの?」
「お前が来るまで、この学校で俺を知らない奴は一人もいなかったんだぜ? 名前を間違えられるなんてこと今までに一度もなかったから印象に残ってたんだ。あとお前の声、なんか好きだ。だからもっと聞きたい」
「だから悪戯してたっていうの?」
「だとしたら?」
「こどもじゃないんだから、素直に言ってくれればいいのに、”はねだ”くん」
呆れた顔をしながら言うと、羽田は嬉しそうにニコニコ笑った。そして黒板に描かれた幽霊を二人で消して日誌にこう記した。
○月×日 □曜日 (晴れ)
もうこの学校に幽霊はいません。
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それからというもの、勇気を持っていろんな人に話しかけてみた。中には厳しい言葉を浴びせる人もいたけれど、なんとか羽田のいるグループに入ることが出来た。向こうは友達だと思ってくれているかわからないけれど、私が風邪で休みの日にノートをとってくれたり、体育の時間に一緒に組んでくれたりもした。休み時間にも話しかけてくれる。それら全てが心のそこからありがたかった。
そんな生活が春まで続いた。父の都合で転校することになったのだ。せっかく出来た友達が「遠い存在」になってしまう。私は自室でひたすら泣いた。こうなることはわかっていたのに。
学校でそのことが告げられると、羽田のグループが「うそでしょ!」と悲しげな顔をした。その表情で友達だと思っていてくれたことがわかって嬉しくもあった。
次の日。
何故か羽田のグループに声をかけても、生返事が帰ってくるだけで、いつものようなテンションはなかった。というよりも、みんなで何かを隠しているような、そんな感じだった。もしかしてもう友達ではなくなったのかな? みんな私から離れる準備をしているのかもしれない。
そしてとうとうこの学校での学校生活が終わり、お別れのスピーチをして席に着くと、机の中に一枚の色紙が入っていた。そこには沢山のメッセージが書かれていた。みんなはこれを隠していたのか! そして例の絵が真ん中にサインのように描かれている。
――もう幽霊になるなよ!――
絵の横にはその一言が記されていた。この言葉は私と羽田しか知らない秘密の言葉。それが何よりも嬉しかった。
最後の日直の日。
私はいつもより念入りに教室を綺麗にした。この高校での最後の役目を果たしたかったのだ。
「羽鳥、黒板見てみろ」
突然声をかけられたので驚きつつも、黒板を見やる。そこには「えんきょり恋愛しようぜ」と書かれていた。私は恥ずかしくなって急いでその文字を消した。多分赤面だったと思う。こんなにストレートに告白されたのは初めてだ。
「……ダメかな」
「羽田君は私に大事なことを教えてくれた。私も好きだよ。電話番号教えるね」
「悩みごとがあったら連絡してこいよ!」
「うん、ありがとう」
私は日誌の端っこをちぎって、自分の電話番号を書いて羽田に渡した。沢山のメッセージが記された色紙や突然の告白。どれもこれも私にとって初めての経験だった。電話番号を教えたのも……。学校に馴染むことは無駄じゃなかった。こうして沢山の思い出が出来たのだから。
帰り道、私たちは近くの公園のベンチに座って、コンビニで買ったサンドイッチを分け合いながら将来の夢について語り合った。羽田は野球選手になりたいらしい。確かに運動神経のいい彼ならなれるかもしれない。夢について語る羽田の目は輝いていた。その瞳に吸い込まれるように私も明るい気持ちになれた。
「で、羽鳥は何になりたいんだ?」
「まだ決めてない」
「じゃあ……俺の結婚相手だな」
「冗談で言ってる? 本気で言ってる?」
「フィフティフィフティ」
羽田はケタケタ笑いながらサンドイッチを頬張る。喉につっかえたようで苦しんでいる彼に、一緒に買っていたスムージーを渡す。しばらくして「サンキュー」というと、スムージーを私に手渡して「お前も飲めよ」と言ってきた。これがいわゆる間接キス!?
「付き合うってこういうことだろ」
ニヤリと笑って私がスムージーを飲むのを待っている羽田。ドキドキしながらストローに口をつける。よくいわれる「甘酸っぱい味」というのではなく、普通にスムージーの味がした。でも、さっきから胸がトクトクいっている。不思議な気持ちだ。
「顔真っ赤じゃん」
「だって……こんなの初めてで……」
「俺も初めてだぞ。ドキドキしてる」
話し合っているうちにサンドイッチとスムージーがなくなっていく。そろそろお別れの時間だ。それに、私たちの様子を見ていた犬の散歩をしているおじいさんが「若いのぅ」と微笑みながら語りかけてきたのが恥ずかしかった。付き合うというのは場所も選ばないといけないのか。こぼれたパンくずをすずめがツンツン突きながら食べている。その風景さえも貴重なものに思えた。
もう明日には、大阪へと引っ越す。うまくやれるだろうか。できればこの時間が永遠に続いて欲しい。けれどもう暗くなってきた。家に帰らなければ。
「……もう帰ろっか」
「その前に、目つむれよ」
「もしかしてキスするつもり?」
「付き合うってそういうことだろ?」
私は目を閉じた。右頬に優しいぬくもりを感じた。目を開けると珍しく赤面の羽田が頭に手をやって照れ隠しなのか口笛を吹き始めた。私は彼の行動が可愛らしく思えて、つい意地悪をしたくなった。
「じゃあ今度は私の番ね」
羽田は困ったような顔をした後、覚悟を決めたように目を閉じた。目的はキスじゃない。でこピンだ。
「いてっ」
「おばかさん」
「ひでぇ、期待したじゃねーか!」
「キスはいつかまた出逢ったときまでおあずけね」
「……長そうだなぁ」
「でもスマホがあるから」
「ああ、俺たちは繋がってる」
カラスが別れのときを告げている。もう帰らなくちゃ。
「またね。浮気しちゃダメだからね」
「俺がそんな最低なことする顔に見えるか?」
またフグのような顔になる。公園に私たちの笑い声が響き渡る。
世の中にはいろんな出逢いがある。待っているだけじゃなにも始まらない。自分から動いて得たものに、無駄なものなんて一つもないんだ。それを羽田は教えてくれた。もし私が消しゴムを拾ってなかったら、私はずっと幽霊のまま学校を点々としていたのだろう。
家に帰ってスマホを見るとSMSが届いていた。開いてみると、そこには
お前はどこでも生きていける!
頑張れ!!
そう書かれていた。父と羽田にしか教えていない電話番号からこのようなメッセージが送られてくるところからすると、送り主は羽田だろう。後でラインもしよう。荷造りをしながら、父と学校の出来事について話した。
「すまないな。せっかく沢山友達ができたのに」
「いいの。この色紙が私の宝物だから」
「真ん中の落書きはなんなんだ?」
「秘密」
これは、私と羽田の秘密の絵。そして私に勇気をくれる魔法の絵。もう私は幽霊ではない。傷つくことを恐れないで歩んでいける強さを貰った。きっと次の学校でもうまくやっていける。羽田がそう言ってくれたから。私も信じて明日を生きよう。