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正妃の掛け軸

作者: 紫藤市

 後宮の最奥、()(たん)殿(でん)の中でも格別(ごう)(しや)な部屋が我が国を統べる国王陛下の御正妻・正妃様の居室でございます。

 国中のみならず諸外国からも取り寄せた繊細で優美な調度品の数々が室内を飾り、絹や紗の襦裙(じゅくん)が櫃から溢れんばかりに修められております。(べっ)(こう)の櫛や銀の(かんざし)(さん)()の首飾りなどの宝飾品、(ぞう)()の扇に水晶の(ぶん)(ちん)()(でん)(さい)()が施された(こく)(たん)の文机といった最高級の品々は、すべて国王陛下から正妃様へ贈られた物でございます。

 居間と寝室を区切るのは()(すい)で飾られた(つい)(たて)()(たん)(らん)()()(よう)もまた素晴らしく、一歩足を踏み入れるたび、溜め息をつかずにはおられないほど(ぜい)の限りを尽くした部屋でございます。

 (はく)()の花瓶に生けて飾られているのは、四季折々の花々。王宮の庭師たちが丹精込めて正妃様のためだけに育てたものです。

 そして、(いっ)(ぷく)の掛け軸が壁から吊られております。

 そこに描かれているのは、国王陛下のご寵愛深い正妃様です。

 艶のある黒髪を優美に結い上げ、薄紅色の生地に色とりどりの()(たん)()(しゅう)で飾られた襦裙を身に(まと)われております。()(すそ)から覗く絹の靴の先には宝石が縫い付けられています。絹の肩巾(ひれ)で口元を隠し、わずかに微笑むそのお姿はまるで天女のよう。

 見る者誰しもが魅了されずにはいられない美しさを持つ正妃様は、いまにも絵の中から抜け出しそうなほど生き生きと描かれているのですが、残念なことに微動だにせず掛け軸の中に収まっていらっしゃいます。

 この正妃様は国王陛下に嫁がれて間もなく、後宮に陛下の(しよう)()が両手の数ほどいることに(りん)()を起こされ、部屋に飾ってあった掛け軸の中に隠れておしまいになったそうです。

 そんな正妃様を愛おしく思われた陛下は、妾妃たち全員に(いとま)をお出しになりました。

 しかし、正妃様のご機嫌はいまだに直らず、どんなに国王陛下が(こん)(がん)しても、掛け軸の中からは出ていらっしゃいません。正妃様が掛け軸の中の方となられて数年が経ちますが、陛下の正妃様へのご寵愛は増すばかりです。

 正妃様の部屋付き女官のひとりであるわたくしは、毎日掛け軸の中の正妃様のお世話をしております。

 朝、日の出前に正妃様のお部屋へ参りますと、夜勤の女官と交代いたします。

 まずは正妃様の()(しょう)(びつ)からお日柄に合わせた襦裙を取り出し、帯や()、靴を揃えて並べます。髪に飾る櫛や簪、花も選びます。(こう)()(きゃ)()の香を焚き、部屋の中に(ふく)(いく)たる薫りを漂わせます。

 次に下女が運んできた(あさ)()の膳を正妃様の前に並べ、ご機嫌を伺います。掛け軸の正妃様が膳に興味を示されなかったなら、膳は女官たちに下賜されます。わたくしは正妃様のために用意された豪華な朝餉を毎朝いただいております。その際、掛け軸の正妃様の前で、大層美味しそうに食べることが義務づけられております。それを見た正妃様が、お腹を空かせて絵の中から抜け出てこないとも限らないからです。

 朝餉が終わる頃、国王陛下のお渡りがあります。朝儀を終えられた国王陛下が、執務室へ戻られる前にお立ち寄りになるのです。

 国王陛下は毎朝、珍しい贈り物を(たずさ)えていらっしゃいます。そして、掛け軸の中の正妃様に向かって誠心誠意を込め、いますぐ自分の腕の中へ戻ってきて欲しいと訴えます。もっとも、正妃様は聞いていらっしゃるのか聞いていらっしゃらないのか、お返事はありません。黙って笑みを浮かべていらっしゃるだけです。

 国王陛下がお帰りになりますと、お茶とお菓子が運ばれてきます。

 わたくしと数人の女官たちはおのおの得意とする楽器を手にし、流行りの曲を演奏し、歌を唄います。絵の中の正妃様が退屈されないよう、楽しく賑やかにするのです。

 正午頃、(ひる)()が部屋に運ばれてきます。こちらも正妃様が召し上がらなければ、わたくしたち女官がいただきます。

 食事が済みますと、衣装櫃から午後用の襦裙を選び、正妃様にお勧めします。()(こう)に掛けて飾るのですが、最高級の襦裙をいくら並べても、正妃様のお気持ちをなだめることは難しいようです。

 午後になると、またお茶とお菓子が運ばれてきます。異国の珍しい紅茶や黒茶が出ることもあります。お菓子も丁寧に精製された砂糖を可愛らしい花に(かたど)ったもの、(りん)()や桃を甘く煮込んだ物などが並びます。

 女官のひとりが正妃様のために、物語を朗読し、花を生け、刺繍をします。

 わたくしたちが掛け軸を壁から外して後宮内の庭園の散歩にお連れしている間に、下女たちが部屋の掃除をするのです。

 夕刻になって部屋に戻ると、(ゆう)()の前に夜勤の女官と交代します。

 夜勤の女官たちは、やはり下賜された夕餉を食べ、正妃様のために夜着を準備し、香炉に新しい香を焚きます。

 夜が更けると、国王陛下のお渡りがあります。陛下が正妃様とどのようなお話をなさっているかは存じ上げませんが、万民を統べる陛下といえども、正妃様のお心は自在に動かすことはできずにいるようです。

 わたくしも最初は、掛け軸に描かれている()(じん)が正妃様だと教えられた際は、奇妙なものだと思いました。しかし、後宮で三日も働いていると、なんの疑問も抱かなくなりました。掛け軸の中の正妃様にお仕えしていれば、たいそう美味しい食事や菓子を(たまわ)ることができるのです。襦裙や装飾品も女官に分け与えられます。しかも、女主人である正妃様は、常に掛け軸の中で黙って優しい眼差しをわたくしたちに向けてくださるのみなのです。どうして不満を抱くことがありましょうか。

 わたくしは、正妃様の部屋付き女官になれたことを、この上なく幸せに感じ、誇りを抱いている次第でございます。


 ある日、正妃様の部屋付き女官に新しい者が加わりました。

 (ぎょく)という名で、年の頃は十代半ば。出身は北の(へき)()の貧しい農村だそうです。幼い頃から人並み外れた美貌をしており、その容姿を見込まれて地方の長官が玉に行儀作法を身に付けさせ、女官として後宮に推薦したとの話でした。

 確かに玉はとても美しい容貌の娘でございます。

 肌は雪のように白く、頬は薔薇色、(あか)い紅を()いた唇は艶やかで、(からす)()()(いろ)の髪は椿油を塗るとまるで絹のように輝いておりました。

 女官仲間たちからは親しみを込めて「()(ぎょく)」と呼ばれておりましたが、本人はその呼び方が気に入らないようでした。「(ぎょく)(れい)」と呼ばれることを望んだため、わたくしたちは彼女を玉麗と呼ぶことにいたしました。

 玉麗は少々軽はずみな言動が目につく娘でした。

 貧しい家の出ということもあり、正妃様の持ち物が下賜されるたび、歓声を上げ、古参の女官たちを差し置いて真っ先に自分が欲しい物に手を伸ばしては叱られていました。きらびやかな後宮での暮らしに目が(くら)んでいるようにも見えました。

 玉麗のように寒村出身の女官も後宮にはおりますが、そのほとんどは下賜された物を売って現金に()え、実家の仕送りにしていたものです。

 ところが玉麗は、家族のことなどきれいさっぱり忘れたような顔で、自分のための白粉(おしろい)や紅を買い集め、絹の反物や髪飾りを行商人から次々と購入していました。親はいないのか、と尋ねてみましたが「あたしを長官様に売った金で前よりはましな暮らしをしていることでしょう」と冷ややかな返事があっただけでした。

 正妃様の部屋付き女官になる前の玉麗は、(すい)()()の下女でした。後宮に上がって半年間は毎日朝から晩まで、後宮で暮らす王族や官吏たちの食器を洗う重労働に従事しておりました。玉麗の地元の長官は中央では大した人脈がなく、玉麗を後宮に下女として送り込むだけで精一杯だったようです。それが女官に(ばっ)(てき)されたのは、人並み外れた美貌がようやく女官長の目に留まったからです。玉麗が炊事場の仕事のつらさに後宮の片隅で泣いていたところ、女官長が偶然通りがかったのだとか。

 玉麗は磨けば磨くほど美しく変身する玉でした。

 正妃様から下賜された襦裙、裳、簪、首飾りなど、最高級の品々を身に付けても引けを取らない(おも)()しで、他の女官たちもその美しさには文句のつけようがありませんでした。正妃様の部屋付き女官の名に恥じぬよう着飾ることも仕事のひとつではありますので、美しくすることは問題はありません。

 ただ、掛け軸の正妃様よりも美しくあろうとし始めたことから、女官仲間たちの反感を買うようになりました。

「ねぇ、玉麗さんの今日の化粧をご覧になって? 白粉をあれほど塗りたくっては、せっかくの肌の白さが台無しではありませんこと」

「髪の結い方が(ざん)(しん)すぎるわ。あれでは結うのに失敗してあんな形に崩れたのか、わざとあの形に結ったのかが判別できませんわ」

(あめ)を頬張る顔など大層可愛らしいではありませんか。まるでひもじい子供が口に詰め込めるだけ飴を詰め込んだような顔ですわ」

 皮肉と嫌味が陰口として囁かれましたが、玉麗はいっこうに気にする様子は見せませんでした。

 ますます着飾り、鏡に映る自分の姿と、掛け軸の正妃様の姿を見比べては、どちらが美しいかとわたくしに尋ねてくる始末です。

「国王陛下は、なぜ生身の女ではなく掛け軸の中の正妃様を寵愛されるのかしら」

 毎朝国王陛下がお帰りになった後、飽きもせず玉麗はわたくしに向かってぼやきました。

「悋気を起こした正妃様がこの掛け軸の中に入って出てこなくなったなんてふざけた話、本当にみんな信じているの? 正妃様の嫉妬を恐れて妾妃様たちは後宮を追い出されたって話だけど、本当に実家に帰った妾妃様はひとりもいないって聞いたわ。じゃあ、妾妃様たちはどこに消えてしまったのかしら」

 大声で()くし立てる玉麗の唇を指で押さえると、わたくしは黙って首を横に振りました。

 万が一にも正妃様のお耳に妙な噂話が入ってはいけないからです。

「もしあたしが正妃様より綺麗だってことで国王陛下の目に留まったら、正妃様は悋気を起こして絵の中から出ていらっしゃるかしら。もし出ていらしたら、あたしは正妃様を絵の中から連れ出した功労者ということで、妾妃にしていただけるかしら」

 玉麗はことあるごとに「妾妃になりたい」と呟いていました。

 自分の身分では、どう頑張っても妾妃にしかなれないことはわかっていたからです。

 しかし、国王陛下は二度と妾妃は置かないことを正妃様に誓われています。たとえ天変地異が起きようとも、正妃様との誓いだけは破るわけにはいかないのです。

 とはいえ、国王陛下も玉麗の美貌から目を逸らすことはできずにいました。

 毎朝正妃様の居室を訪問されるたび、並んで出迎える女官たちの中でも群を抜いて美しく着飾った玉麗の姿に視線を向けていらっしゃいました。


 ある朝、わたくしが普段と同じく日の出前に正妃様の部屋へ参りますと、少々様子が異なっておりました。

 まず、壁の掛け軸がいつもと違いました。

 掛け軸の中から正妃様の姿がぽっかりと消え、両側に描かれた(しゃく)()()の花だけがひっそりと咲いていました。

 わたくしは呆然と掛け軸を凝視しました。

 室内には夜勤明けの女官が、ひっそりと椅子に座っていました。彼女は掛け軸の絵が変わっていることなど気付かないような表情で、入ってきたわたくしに視線を向けると、いつも通り軽く目礼をしてきました。

 おはようございます、とわたくしが口を開き掛けると、夜勤の女官はそっと自分の唇に指を当て、静かにするようにと目で訴えてきました。それから、椅子から立ち上がると、わたくしのそばへと歩み寄り、そっと耳元で囁いたのです。

「正妃様はまだお休み中です」

 わたくしが唇を引き結んでまじまじと夜勤の女官を見つめ返すと、彼女は()(すい)の衝立の奥にある寝室に視線を向けました。

「朝餉が運ばれてきましたら、正妃様を起こしてくださいませ」

 そう告げられれば、わたくしは黙って頷くしかありません。

 夜勤の女官が足音も立てず部屋から出て行くと、わたくしはひとり部屋に取り残されました。他の部屋付きの女官たちは、朝餉を運ぶ下女たちと一緒にやってくるのです。

 お恥ずかしい話ですが、わたくしはまだ掛け軸の中の正妃様としか対面したことがありませんでした。

 寝台でお休み中の正妃様に、どのように声を掛けて起こせば良いのかわかりません。

 正妃様の部屋付き女官になって一番緊張した朝でした。

 まずは香炉に新しい香を焚き、衣装櫃から午前中正妃様がお召しになる襦裙を取り出しました。櫛、簪、首飾り、耳飾りなどを化粧台の上に並べ、鏡を拭きます。できるだけ音を立てないようにしなければ、と気が張っていたせいか、襦裙が手から(すべ)り落ちてしまったり、簪を床に落としかけてしまったりと、いつもはしない失敗ばかりを重ねてしまったほどです。

 やがて東の空が白んでくると、日勤の女官たちが朝餉を運ぶ下女たちを従えて現れました。

 古参の女官はわたくしの顔を見ると、平静を保ったまま告げました。

「正妃様の朝餉をお持ちいたしました。正妃様はお目覚めでしょうか」

 様子を見て参ります、とわたくしは決まり切った返事をしました。

 普段は掛け軸に目を向けるだけで良いのですが、今朝は寝室へと向かいました。

「正妃様、おはようございます。朝でございます」

 (てん)(がい)の幕を開けて薄暗い寝台の中を覗き込むと、絹の布団にくるまったひとりの女性が眠っていました。

「朝餉の準備が整いました。お起きくださいませ」

 わたくしが枕元へ向かってそっと声を掛けると、横たわっていた女性は身じろぎしました。

「まだ、眠いわ……」

 ぼんやりとした声が(かす)かに響きました。

 どこかで聞いた声でしたが、すぐには誰だかわかりませんでした。

「国王陛下がいらっしゃる前に、お支度を調える必要がございます。お起きくださいませ」

 少しだけ声を強めて呼び掛けると、寝台の上の女性はむくりと上半身を起こしました。

 長い黒髪は寝乱れ、()()(まなこ)を手で(こす)るその姿は少々幼さが残っていましたが、美しい女性でした。

 けれど、掛け軸の正妃様とはあまり似たところがありません。

「もう、朝?」

 ()(だる)げな口調で呟くその女性を凝視したわたくしは、それが誰であるかようやく知ることができました。

「ぎょ……」

 玉麗、と名を呼び掛けたところで、古参の女官が寝室へ入ってきました。

「おはようございます、正妃様。そろそろお支度と朝餉を」

 慇懃な口調ながら有無を言わせぬ気配を漂わせて、古参の女官は玉麗に告げたのです。

 そしてわたくしは知りました。

 掛け軸の中から正妃様の姿が消えた理由を。


 正妃様の襦裙を身に纏い、正妃様だけに許された形に髪を結い、金銀の簪を髪に挿した玉麗は、まるで絵から抜け出た正妃様にそっくりの姿になりました。白粉を顔や首に()き、紅を差し、眉を描きますと、まるで別人です。十代半ばの少女の幼さは鳴りを潜め、正妃としての妖艶さと威厳が彼女を輝かせます。どこで身に付けたのか、(しょ)()さえも女官のときとは比べものにならないほどたおやかです。

 女官たちは皆、彼女を「正妃様」と呼びました。

 朝餉の膳は掛け軸に供えられるのではなく、生身の正妃となった玉麗の前に並べられました。

 もちろん、彼女は当然のような顔をして(はし)を手に取り、食事をします。

 これまで下賜されていた膳はすべて彼女の口に入ってしまいました。

 朝餉を済ませ、化粧を直していると、国王陛下が朝のご機嫌伺にいらっしゃいました。

 陛下のお姿が見えますと、玉麗も座っていた椅子から優雅に立ち上がります。

「おはよう、正妃。今朝のご機嫌はいかがかな」

 陛下が直々に声を掛けられますと、玉麗は目を細めて微笑みます。

 そして、手にしていた扇でそっと口元を隠しました。

「大変よろしゅうございます、陛下」

 玉麗の隣に一歩下がって立っていた最古参の女官が、代わりに返事をします。

 すると陛下は満足げな表情を浮かべ、侍従が運んできた贈り物を女官に渡しました。

 漆塗りの箱の中に入っていたのは、(きん)(ぱく)で飾られた牡丹の花でした。どのように作ったのか、本物の牡丹そっくりの花びらや葉が金箔で作られています。

 その見事さに女官たち一同は息を飲みました。

 玉麗も一瞬目を大きく見開き唇を動かし掛けましたが、最古参の女官が襦裙の袖を軽く引いたので、声を出すことはありませんでした。

「なんと素晴らしい贈り物でしょう。正妃様は大層喜ばれていらっしゃいます」

 最古参の女官が礼を述べると、陛下は嬉しそうに相好を崩されました。

 そして、公務を執るため後宮から出ていかれました。

 陛下の姿が回廊からも見えなくなりますと、玉麗は緊張がほどけたのか倒れ込むようにして椅子に座り込み大きな溜め息を吐きました。

 女官たちもくたびれた様子で胸を撫で下ろしました。

 正妃様の姿をした玉麗を、陛下はお気に召したようです。

 普段であればこの後、お茶とお菓子が運ばれてくるのですが、今日は違いました。

 まず、部屋の隅に置かれていた琴が玉麗の前に置かれました。

「さぁ、正妃様。琴の練習をいたしましょう」

 最古参の女官が告げると、玉麗は顔を顰めました。

 彼女は着飾ることは得意ですが、音楽の素養はほとんどなく、琴を爪弾いても耳障りな音しか出すことができないのです。

「陛下は正妃様と(かん)(げん)(うたげ)を催すことをご希望です。初雪が降れば、雪見の宴を催されることでしょう。紅葉の宴には間に合わずとも、雪見の宴には、一曲くらいご披露できるようになっておかなければ」

「あたし、こういうの苦手なの」

 不満げな表情を浮かべて玉麗は琴から視線をそらしましたが、最古参の女官は厳しい顔で玉麗の両頬を手で押さえると、琴に顔を向けさせました。

「才能のあるなしではありません。どんなに下手であっても、指の皮がすり切れるほど練習すれば、それなりに弾けるようになります」

 容赦ない女官の返答に玉麗は醜く顔を歪めました。そして、助けを求めるように他の女官たちに目を向けましたが、皆黙ってふたりのやりとりを見守っているのみです。

 わたくしももちろん、口を挟むことはしませんでした。

 正妃になるということは、その地位に相応しい教養を身に付けなければなりません。ただ美しく着飾っていれば良いというものではないのです。

 女官たちが常日頃から正妃様にお聴かせするという名目で楽器を演奏するのも、お茶を()れたり花を生けたりするのも、行儀作法と教養を得るための一環なのです。わたくしたちは正妃様の部屋付き女官の名に恥じない素養を持っていなければならないのです。

 もちろん、正妃様も国王陛下の第一夫人の名にふさわしい貴婦人でなければなりません。諸外国の(ひん)(きゃく)をもてなす宴で、正妃様自らが楽器を演奏したり、歌を唄ったり、舞ってみせたりすることもあります。陛下のお隣で人形のように微笑んでいれば良いものではありません。

 玉麗は正妃という立場をよく理解しないまま、正妃様に憧れ、妾妃(しょうひ)になることを望んだのでしょう。僻地の貧しい村出身の娘にしてみれば、わずかな後ろ盾と美貌だけで後宮という別世界に乗り込んできたのです。野心がなければ、後宮に上がって半年で正妃様の部屋付き女官になどなれるはずがありません。

「それとも、琴を演奏できない理由を作って陛下に申し上げますか。例えば、()(そう)をして文鎮で指の骨を折ってしまったので練習ができなかった、というのはどうでしょうね」

「練習するわ!」

 冷酷な最古参の女官の提案に怯えた玉麗は、目を涙で(うる)ませながら答えました。

 その後は、昼餉までひたすら琴の練習が続きました。

 昼餉の最中は箸の上げ下ろしから腕の持ち方まで、食事の作法をさらに厳しく(しつ)けられました。午後は着替えた後のお茶とお菓子の時間で、正妃様が客人のために茶を淹れ、菓子を振る舞う機会もあるため、これまた作法の(けい)()です。

 その後は習字と生け花、古典詩の暗唱と続きます。

 日没後に夕餉が運ばれてきましたが、このときも気が休まる暇などありません。

 女官たちによる玉麗への厳しい正妃教育は毎日繰り返されました。

 正妃となる女性は、一般的に王族の姫君か貴族令嬢から選ばれることがほとんどです。彼女たちは蝶よ花よと育てられつつも、幼い頃から十年ほどの期間をかけてお妃教育を受けてこられます。

 玉麗のようににわか仕込みの妃とはわけが違うのです。

 女官たちは誰も、玉麗が可哀想だとは思いませんでした。

 玉麗も最初こそ泣き言を(こぼ)すことはありましたが、後宮で正妃として君臨するための努力は惜しみませんでした。

 女官たちの厳しい訓練に涙することはあっても、逃げだそうとはしません。生まれ故郷に逃げ帰ったところで、襤褸(ぼろ)を身に纏い、ほとんど作物が育たない()せた土地を耕して暮らす日々が待っているだけです。

 琴の弦で指の皮が切れようが、姿勢が悪いと言って女官に竹の棒で背中を叩かれようが、後宮では暖かい布団に絹の襦裙、食べきれないほどの料理や菓子が常に目の前に並んでいるのです。

 玉麗の成長はめざましく、ふたつきも経つと彼女が(あか)()けない炊事場の下女だったことなど誰も思い出さないほどの(さい)(えん)になりました。

 琴は人並みていどに上達し、歌は国王陛下の前で美声を響かせることができるほどです。すべての所作も生まれながらの王族と見紛うほど、指の先から足の先まで優美な動きができるようになりました。

 国王陛下は正妃として振る舞う玉麗をいたくお気に召したようです。

 夜ごとに正妃様の部屋に通われるようになり、夜更けの後宮の廊下を照らす(しょく)(だい)の数は倍になり、中庭の(いし)(どう)(ろう)にも毎夜(ろう)(そく)に火が灯されるようになりました。

 初雪が降れば雪見の宴、白く積もれば積雪の宴、新年には(けい)(しゅん)の宴が催されました。

 国王陛下が朝だけではなく夜も訪ねていらっしゃり、そのままお泊まりになる日が続くようになり、後宮は()(ぜん)活気づきました。

 ただひとつ、わたくしが気になったのが、正妃様のお部屋の壁に吊られた掛け軸です。

 玉麗が正妃様となって以降も、正妃様の姿が消えた掛け軸はそのまま残されていました。

 あるとき玉麗が掛け軸を別の物に取り替えるよう女官に命じましたが、掛け軸は冬になっても、早春を迎えても(しやく)()()が左右に描かれ中央はぽっかりと開いた絵のままでした。

「もう春になるのだから、梅の絵を飾るべきではないかしら」

 (ろう)(ばい)が咲き始めた頃、玉麗は不満げに掛け軸を睨んで呟きましたが、やはり女官たちは誰も耳を貸しませんでした。

 春になり、後宮の庭では桃の木が薄紅色の花を咲かせました。

 国王陛下のご寵愛厚い玉麗は、少しずつ(ふく)らみ始めた腹を嬉しそうに毎日(さす)っていました。体調が悪い日は部屋に籠もって寝台の上で一日中横になっていることもありましたが、容態が安定してくると、国王陛下と一緒に庭を散歩することもしばしばでした。

 桃の花が散り始めたある晴れたうららかな午後のこと、玉麗は国王陛下と一緒に庭を歩いておりました。

 国王陛下と正妃様の散歩は、いくら後宮内といえどもふたりきりというわけにはまいりません。わたくしたち女官がおふたりの後をぞろぞろと付き従って歩いておりました。

 後宮の庭は、川や池、小さな滝などがところどころに造られており、途中で休息するための四阿(あずまや)も建てられております。四阿の円形の窓から見る景色がまた美しく、庭師たちが日々手入れをしている松や躑躅(つつじ)の茂み、(つき)(やま)などが楽しめます。

 国王陛下は()(おも)の玉麗を案じ、少し歩いては四阿で休憩し、また少し歩いては(しょう)()に玉麗を座らせるという過保護ぶりでした。

 空は青く澄み、白い雲が風に棚引いて流れておりました。

 庭の木のどこかで(うぐいす)が可憐な声で鳴き、池では鯉が勢いよく尾びれをばたつかせて(みず)()(ぶき)をあげておりました。

「なんと清々しい日であろう。この景色を眺めておれば、政務の(うれ)いも吹き飛ぶというものだ。のう、正妃よ」

「はい、陛下」

 国王陛下に話し掛けられた玉麗は満面の笑みで答えました。この頃には、女官たちが代わりに返事をするということもなくなっていたのです。

「もちろん、そなたの姿があってこそのこの絶景だがな。()(たん)よ」

 目を細めた国王陛下は、軽く玉麗の肩に手を置いて告げられました。

「いやですわ、陛下。あたくしは玉麗でございます」

 日頃「正妃」と呼び掛けられていた玉麗は、ほとんど無意識のうちに答えていました。

 一瞬、国王陛下の顔は夢から覚めたばかりのように無表情になり、数拍後にはこの世のものとも思われないほど(みにく)(ゆが)みました。

 青空は途端に(なまり)(いろ)の雲で覆われ、(しゅん)(らい)が遠くで鳴り響くのが聞こえてきました。

「陛下?」

 玉麗は自分の失言に気付かないのか、顔を(こわ)()らせた国王陛下を無邪気に見上げます。

「どうなさいましたか」

 ようやく陛下の異変に気付いた玉麗は床几から立ち上がり、肩巾(ひれ)を掴んでいた指を陛下の着物の袖に伸ばしかけましたが、荒々しく振り払われました。

 国王陛下は無言のまま大きく目を見開いた玉麗に背を向けると、未練を振り切るように素早い足取りで後宮から出ていかれました。


 翌朝、わたくしが日の出前に正妃様の居室へ入りますと、壁から吊られた掛け軸の中には正妃様のお姿が戻っておりました。

 正妃様はこの半年ばかりの間、掛け軸から抜け出ていたことなど素知らぬ顔で微笑んでいらっしゃいます。相変わらず牡丹の刺繍が美しい(じゅ)(くん)を身に纏い、その清艶(せいえん)なお姿は天女のようでございます。

 わたくしは夜勤明けの女官と目礼を交わすと、衣装櫃から襦裙を取り出し、帯や肩巾と一緒に衣桁に掛けました。櫃の中の襦裙はすべて新しい物に入れ替えられており、これまで誰かが一度でも袖を通した形跡がある物はありません。化粧品も櫛も簪も、すべて新しい物ばかりが小物箱の中に並んでおります。

 その後間もなく下女たちが運んできた朝餉は、わたくしたち女官に下賜されました。 

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