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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説

ママゴト

作者: 怜梨珀夜


 私の元妻の名は、蓮葉美和子といいました。

 ――変わった苗字? そうですね。私もそう思います。蓮葉という言葉には、下品な意味もありますが……そう意味では、彼女にはふさわしくない苗字だったかもしれません。

 美和子はとても、美しい人でした。彼女の流れるような黒髪は絹糸のように柔らかく、桜色の頬はまるで最高級のコードバンをなめしたように艶やかな――本当に、たいへん、美しい人でした。


 美和子と出会ったのは、寂れたビルの地下に入っている小さなバーでした。

 その日私は、それ自体は些細なものですが、大変な事態を招きかねないミスを犯したのです。上司にこっぴどく叱られ、人格否定紛いのこともされた私は、恥ずかしながらヤケ酒をいたしまして。あのバーに至るまでに、店を何軒も梯子していたのですよ。

 そうして馴染みの店がすべて店じまいしてしまっても、まだまだ飲み足りず、初めて入ったバーに、彼女はいました。

 薄闇に沈む店内で、彼女の白い顔だけがひどく鮮やかに浮かび上がっていて――彼女の辺りだけ、この世のものとは思えない異様な空気を漂わせていたのをよく覚えています。

 その時美和子が飲んでいたのは、真紅に輝くブラッディ・メアリー。こんなに紅いものを飲んでいるのに、彼女の肌が雪のように白いのを、不思議に思ったものです。

 柄にもなく強い酒を何杯も飲んで、私も随分酔っていたのでしょう。気づくと私は半ば絡み酒のように彼女に話しかけていました。

 不躾なことをしたのに、美和子は私の話を真摯に聞いてくれ、慰めてくれました。

 そして私は、厚顔にも、彼女に連絡先を交換するようせがんだのです。そうして、彼女との交流が始まりました。……思えばこれが、彼女にとっての悲劇の始まりだったのかも知れませんがね。


 それから結婚に至るまでの次第に関しては、取り立てて話すこともありません。大方はそこら辺の大衆小説と同じようなものだと思っていただいて相違ないと思います。何度か食事をして、小旅行をして。夜景のよく見えるレストランでプロポーズをして、祝言を上げて。

 白無垢を着た、美和子の美しさといったら――いいえ、よしましょう。今さら言うまでもないですね。


 そうして彼女は、柳美和子になりました。


 美和子との新婚生活は、それはもう至上の幸福とでもいうべきものでした。朝、家を出る時に、彼女が笑顔で見送ってくれる。夜、家に帰ると、彼女が笑顔で迎えてくれる。それ以上に、望むことなどあるでしょうか。その時の私は、誇張なく、今世界で一番幸せなのは自分だと信じて疑わなかったのです。


 ……ですが。それが崩れたのは、私たちが初めて肌を重ねようとした夜でした。


 寝間着のボタンを外した美和子は、後ろめたそうに私から目をそらし、ぽつりと言いました。

「私、昔付き合ってた人から、暴力を受けていたの」

 彼女の告白に、僕は少なからず動揺しました。この美しい彼女に、この聖母のごとき清廉な彼女に手を上げるなどと、その男はなんと愚劣な輩でしょう。馬鹿げているとは思いますが、その時私は本当にそのような義憤に駆られたのです。

 続けて彼女は、その時に負わされた、未だ消えることのない痣が体にあることを明かしました。そして、あなた、どうかどうか、その醜い痣を見て幻滅なさらないでと、彼女は私に取り縋るのです。その姿に、私はもう胸を締めつけられるような愛おしさにおかしくなりそうでした。

 腕の中で震えている美和子に、そんなもの、僕が気にするとでも思うかい、と囁いて、彼女の手をそっと握りました。彼女は微かに首を横に振り、私から体を離しました。そして、曖昧な笑みを浮かべながら、ゆっくりと、腰の方に衣服を下ろしたのです。


 その瞬間。

 私は、彼女の胸の上にある痣から、目を離せなくなりました。


 雪のような肌の中に、赤黒い一つの痣。醜悪なそれは、彼女の肌の上にあることでかえって、まるで泥の中に咲く蓮の花のような魅力を湛えていました。

 私は、痣にそっと唇を当てました。美和子が小さく悲鳴を上げ、体をびくつかせます。それに、言いようのない興奮を覚えました。

 そのまま、私は彼女の肌を吸いました。強く、強く。美和子の息を呑む声がしました。それでも私は、やめませんでした。強く、強く、気がつくと私は彼女の柔肌に歯を突き立てていました。痛い、と彼女が口の中で呟きます。背筋に、これ以上ないほどの快楽が突き抜けました。

 無理に押さえ込んだ彼女の苦しそうな声が、不規則に跳ねる彼女の体が、ひどく艶やかに私の本能を揺さぶりました。単なる嬌声ではない。苦痛を伴う、呻き声めいた喘ぎ。

 私は、平生を失いました。


 正気に返った頃には、もう遅かったのです。私は、美和子の首を絞め、殴るのを繰り返していました。

 私は急に恐ろしくなって、痙攣を繰り返す美和子の細い首から手を離しました。すると、彼女の体は力なくベッドに落ちました。美和子、美和子と体を揺すると、彼女は薄く目を開け、よろよろと上半身を起こしました。彼女の頬にはくっきりと、紫色の蓮が咲いていました。

 その時彼女が、シーツで胸元を隠すようにしながら、小さく呟いた言葉を、私は一生忘れないでしょう。


「おんなじね。あなたも」


 翌日美和子は、自ら首を吊って死んでいました。紫の蓮は、彼女の首に連なって咲いていました。


 ……こうなってしまった以上、今さら、何を言っても誰も信じてくれないでしょうが。


 私は、美和子を愛していたのですよ。

 本当に、愛していました。

 彼女と過ごした日々を思うと、それまでの恋愛など、稚拙な飯事にすぎません。


 元々私に、加虐性欲などありませんでした。しかし、彼女はそんな性癖を生み出してしまう――被虐体質、とでも言いましょうか。彼女は元来美しい人でしたが、凌辱され、苦痛に歪んだ姿こそ、最も美しい彼女だったのです。彼女を愛していたからこそ、私はあんな凶行に及んだのです。


 ……疑うのですか? そんなもの、本当の愛ではないと?

 あなたに、何が判るのです。

 あなたの言う本当とは、あなたにとっての真実でしかありません。

 私は美和子を愛していました。――いえ、いました、というと誤解を招きますね。愛しています。今でも。その気持ちは今までも、これからも、変わるわけもありません。

 彼女の目、顔、心持ち、髪の一本一本から爪の一枚一枚まで、全部全部全部。独り占めしてしまいたかった。この腕の中にすっぽり収めて、他の何物からも守ってあげたかった。

 それを、偽りだと言うのですか。全部、嘘だというのですか。

 違う、私の、私にとっての真実は、この愛以外に有り得ない。そうでなければ、そうじゃなかったら。僕のこの数年間は、何だったんですか。美和子の命は、無駄だったのですか。

 試験の解答とは違うのですよ。間違ったことを自覚したって、なかったことになんて、できやしないんだ。


 だって、美和子はもうどこにもいない。


 どれだけ僕が、どれだけどれだけ求めたって、望んだって、美和子は戻らない。

 もう、遅いんです。何もかも。



 ――失礼。取り乱しました。

 どうか、忘れてくださいませ。


 私は美和子の死後、業者に頼んで、彼女の姿そのままの人形を作りました。決して安くはありませんでしたが、美和子のいない生活など、私にはとても耐えられませんでしたから。


 人形は、美和子のように私に甘えることはありません。美和子のように声を上げて笑いません。いつも、リビングのロッキング・チェアに座って、完璧すぎる微笑みを浮かべています。

 人形が彼女の代わりにならないことなど、私にだって分かっています。

 ですが、彼女のいなくなった今、私には、こんなものしか縋れるものがないのです。


 ……ですから、私はこう考えることにしました。

 これは美和子の骸だと。

 何十年経とうが、朽ち果てることのない、彼女の亡骸だと考えると。


 不思議なものですね。

 愛しくて、堪らないのですよ。


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