複合麻薬P&C
「はぁはぁ……んぐっ……ばりばり……」
密室に一人、パソコンのディスプレイを眺めながらP&Cを摂取しているターゲットを、桂木猟は双眼鏡で見つめる。
ターゲットは二十六歳、独身、無職の方丈氏雅。彼は今、かなり複合麻薬P&Cでキマッているようだ。
方丈の部屋は、都内にあるマンションの三階だ。
対して桂木は、その部屋を見下ろせる位置にある、六階建てのマンションの屋上にいた。
夏の暑さが未だ残る八月の末に、エアコンの室外機が並ぶ屋上で張り込むなど、拷問以外の何ものでもない。しかも、今は昼過ぎであり、気温もゆうに三十度を超えていた。
「まったく、方丈め、羨ましい身分だぜ……」
ネクタイを緩め、身体を捻って背骨をぽきぽきと鳴らしながら、桂木はぼやく。
長身の桂木は屋上で身体を沈め、双眼鏡でターゲットを監視する事、すでに五時間に及ぶ。しかも、こちらの動きがターゲットに気取られないよう、動きを最小限に抑えているのだから、身体も固まるというものだ。
「先輩、どうぞ」
桂木の後ろから冷えた缶コーヒーを差し出すのは、三島美香。
彼女はグレーのパンツスーツを着た黒髪の美人で、警視庁きっての才媛だ。にも拘らず、泥臭い現場を希望した稀有な女であった。なんでも、P&Cを心から憎んでいるらしい。
「P&Cのせいで、私の高校生活がめちゃくちゃになったんです……」
三島のそんな言葉を桂木が聞いたのは、いつのことであったろうか。しかし、その気持ちは共有出来る桂木であった。彼もまた、ひと時P&Cに人生を狂わされたのだから。
しかし、だからこそ桂木は、時に三島に対して嫉妬を禁じえない。
桂木は、身長こそ高いが顔は人並みだ。体型も筋肉質といえば聞こえは良いが、決してスマートとは言いがたい。影で「ゴリラ」と渾名を付けられていた事を知った時には、ひっそりと涙したものだ。
それなのに三島は美しく、しかも柳の様にしなやかな身体つきである。
同じ体験をして同じ苦労をしても、この様な差がある事がやるせなかった。
それが、乙女心を持ったゴリラである桂木には辛かったのだ。
それはともかく__
彼等は、警視庁刑事部組織犯罪対策本部の刑事であり、追う対象は麻薬の売人__そして売人に連なるターゲットは現在、明らかに複合麻薬P&Cを摂取している。今、踏み込めば間違いなく現行犯だ。
けれど、彼等は、あえてそれをしない。
なぜならば末端を捕まえても、麻薬の撲滅には繋がらないからだ。
P&Cは、ほんの十年前まで、その常習性に気付いている者などいなかった。けれど、その快楽を知るものは多く、暗に世を席巻していたのだ。
その中の熱狂的な中毒者が端を発して爆発的に波及し、一時は日本国民の凡そ四割が依存者になるという、未曾有の惨事となった。それが五年前の事だ。
ここに至り、政府はP&Cを摂取する事を法律によって禁じ、警察が取り締まる事になったのである。
では、複合麻薬P&Cとはなにか?
Pだけでは、麻薬ではない。
Cだけでも、麻薬ではない。
禁止される前はPもCも容易く手に入った。今でも単体ならば、多少の手続きを踏めば、どこでも買える。
しかし、両方を同時に摂取することで、初めてキマるのだ。しかも、その常習性たるや、その辺の合成麻薬など、軽く凌ぐ。
だから、政府は同時に購入する事を禁止している。
かつ、厳正にそれらの品を管理し、同時に一個人の下に渡らないように監視していた。
「私も確認します」
桂木の隣に三島が身を寄せて、自身の双眼鏡でターゲットの手元を見やり、薬物を確認した。
「……のりしお……ううん、コンソメもある。まさか同時に?」
三島は下唇を噛んで、恨めし気な声を出す。その内心は、犯罪を見続ける事が耐え難くもあったが、同時に犯人に対して羨ましい気持ちさえあった。
「なんだと? さっきまではカラムーチョだったはずだ! 二つ増えたのか!?」
桂木の太い眉が、吊り上がる。
「だとすると、ヤツはすでに十五袋目に突入しているっ! Cの方はペプシ……ゼロカロリーだが、すでに二リットルは飲んでいるはずだっ!」
「し、死ぬわ! あの男!」
二人の双眼鏡に映し出されるターゲットの方丈は、身長一七〇センチにして体重は一〇〇キロを超えている。方丈は今日も朝からパソコンの前に座り、常にポテチを頬張り、コーラで流し込んでいた。
ここ三日、ついに方丈はポテチとコーラしか口にしなくなっている。確かに、危ない。
桂木も三島も、互いに方丈の姿を見つめ、音を立てて唾を飲み込んだ。
その味が、あの常習性が脳裏に蘇っていた。
だが、それどころではない。
もはや、一刻の猶予も無かった。
泳がせて、複合麻薬の売人を突き止めたかったが、このままでは方丈は死ぬ。
「動くな! 方丈! P&C摂取の現行犯だ!」
桂木は声を荒らげて、方丈宅に踏み込んだ。
一瞬、怯えたように引き攣った方丈だったが、諦めたように立ち上がり、油まみれの両手を差し出した。
手錠をかけられ項垂れる方丈は、それでも何処か満足しているようであった。
「ひ、一人じゃ止まらなかったんです……」
涙ながらに方丈が語った言葉に、三島が優しく微笑んだ。
「ええ、わかるわ。私も、八十キロあったんだもの……」
「俺は、一六〇キロまでいったかな」
桂木は頬を指で掻きながら、ぶっきらぼうに呟いた。
目指せ脱力感!