005 蛍火/『 』/死
夜気が体温を奪う。素足は石畳の冷たさを直に伝えてくる。
見上げた塔に灯かりはなく、仮称「浮遊石の間」へと続く入口だけが小さな光として見えた。月下を歩きながら大通りに並ぶ建物の陰をうかがう。恐怖からではなく、確認の意味を込めて。
一度通った道だ。目を引くような場所はない。一点違うのは、蛍のように漂う光の存在だった。これはストレージを認識したことで見えるようになるという話だったが、なるほど、確かに幻想的でもある。怪物から守ってくれていると思えば忌避感も薄かった。詳細は不明だが、この光を怪物は嫌うらしい。仮称「蛍火」の密度が濃い場所は安全圏というわけだ。
歩みを止めなければ塔は近い。たどり着いた塔の壁に背を預け、紙袋を開けた。
周囲は蛍火の密度が増している。無銘亭の前とは見間違いではない域で数が多い。単純に考えて、この塔はやはり特別な場所なのだろう。
紙袋の中身は野菜を挟んだパンだった。一口食べて調味料がいろいろと足りていない味がしたが、それでもサンドイッチと呼んで差し支えない。野菜はみずみずしく、パンは柔らかだ。漆寝の腕が悪いのではなく、予想するに、調味料自体が存在しないか希少なのだろう。食べ終えるまでの束の間、なにを考えるでもなく過ごした。
蛍火以外に景色の変化はない。
眼前に広がるのは目覚めた当初と同じ光景だ。ただ、いまはそれが「夜の街」と呼ばれる場所であることを知っている。遠くに見える光の柱周辺に怪物がいることも知識として持つに至ったし、それを狩らなければ生きられない事実も飲み込んだ。
俺は再び歩き始める。
やるべきタスクを消化するべく、塔の通路を進んでいく。
思い出されるのは漆寝との会話だ。
『靴や武器とかは取り扱ってたりする?』
『えと……、あの、食べ物以外はストレージを使って買ったほうがいいです』
周りを気にしながら言った漆寝を不審に思いはしたが、空間に浮かぶ並ぶ仮想のアイコンリングに視線を移す。その一つである「ストア」に並ぶものであればCPを利用して購入可能らしい。開いて確認すると個人と書かれたタブの下に空欄が広がっていた。
『眠っている間に更新されるみたいです。でも、こちらで見かけたものとか手にしたことがあるものに限られるみたいで。覚えがないものがストアに並ぶのは、怪物を倒したときくらいだと聞いています』
『例えばだけど、そのバインダーも買えるようになるのかな』
『ん……、難しいと思います。ちょっと見かけただけのものが並んだことはありません。報告も、ないですね。手に取ってよく見るか、本当にじーっと観察してようやくといった感じでしょうか。それと、よく分からないものはどれだけ見てもよく分からないと言いますか……、その、レベルの高い人の持ち物とかはレプリカ扱いでストアに並びますね』
『身の丈に合ったものしか買えないわけだ』
『そう、なるのかもしれません』
再び漆寝が周りを見まわし、なにかを決めた表情で顔を寄せてきた。
『あの、欲しいものがストアに並ばなかったら言ってください。武器とかもあります。ただ、あの、凄く割高、――なので。正直お勧めできません』
肩の触れる距離まで寄ってきた意味を理解する。
聞かれたくないわけだ。誰に? カネイさんしかいないだろう。
彼女は使われる側で、使う側の方針を守る必要がある。
『なるほど、ね。ありがと、助かるよ』
通路が終わり、浮遊石の間が目の前に広がった。
浮遊石から発せられるらしい微細な振動音らしきものがホールを満たしている。ぼろ布の彼らは変わらず座り込んでいた。その誰もが気力を感じさせず、やはりこちらを見ることもない。
柱の陰を見ながら人数を数えていく。全部で――、十六人。区別しづらいくらいに全員ぼろ布を纏うだけの存在だったが、それもよく見れば違いがあった。
三人ほど、少し丈夫そうな衣服を着込んでいる。そして、武器と呼べるものも持っていた。きっと食料を買いに訪れる連中だろう。彼らは離れていたが、なんとか三人が見える位置を選んで俺も座り込む。
武器は二人が槍で一人が鉈だった。槍といっても穂先に刃物を紐で縛っただけの簡素なものだ。鉈も安物に見える。それでも凶器としては充分だ。
壁を背に座りながら目を凝らす。どういう構造でどういう質感なのか。手に持ったらどんな重さだろうか。想像し何度もトレースするように頭の中で再現する。
繰り返し繰り返し繰り返し。ぼやけた像が次第に明確になっていく。
だが、夜気が入ってこない空間は思ったよりも早く眠気を誘った。気疲れしていたこともあるのだろうと言い訳し、一時間ほどの観察をしたあと、俺は睡魔に身を任せた。
◆
曖昧な五感に身を浸しながら、これは夢だと自覚した。
なぜなら俺の手の中に携帯ゲーム機があったからだ。周囲には山。居並ぶテント。日は落ちて星空が見えている。中学の頃、家族ぐるみで付き合いのある一家とキャンプにいったときの場所だ。
「またやってる。『 』くんはゲーム好きだね」
俺と同い年の『 』が隣に座った。
名前が聞き取れない。顔にも黒い靄がかかっていた。
夢だから? たぶん、違う。
こいつとはあまり話したことはない。親同士の仲は良かったが、その子供も同じように仲が良くなるとは限らないということだろう。俺はキャンプにきてまでゲームをしていることを咎められた気がして取り合わなかった。
「あ、流れ星」
しばらくして『 』が言った。
「『 』くんは願い事どうする?」
「レア素材が出ますように」
ゲーム機のボタンをカチャカチャ鳴らしながらそう答えた。
少女趣味のような問いに辟易したし、レア素材が出なくてむきになっていたからだ。
なにも言わないので、敵が硬直するチャンスを使い、ちらりと隣を見る。驚いたのか呆れたのか、あるいはその両方か。『 』はまばたきを繰り返していた。
「本当にゲームが好きなんだ」
「別に」
意味を察したお前にも素養はあるよ、――とも思ったが、言うのは面倒なのでやめた。
「お前は?」
「え」
「願い事」
「……――っ。ひ、ひみつ」
「はぁ?」
自分から振っておいてなんだよと思っていると、画面の中で俺のキャラが死んだ。
目を離しすぎた。舌打ちして、それから――。
◆
物音で目が覚めた。
やはりこんな場所で熟睡できるはずがない。石床になにかが転がった金属音だろうと推測しながら、俺はゆっくりとまぶたを開けた。
少し離れた場所。柱にもたれていた男が倒れている。誰も騒いでいない。ここでは日常的な光景なのだろう。手首からは血が見えて、近くには小さな刃物が転がっていた。リスカ。リストカット。傷口は浅いように見えたが、なぜか、血が止まらない。それが当然だというように、床に赤が広がっていく。
しばらくすると、男の姿にノイズが走り、そのまま跡形もなく消えた。
死んだ。
これがこの街で人が死ぬという現象なのだと話には聞いていた。見れば、血の痕跡すらも消えていく。なにも存在しなかったかのように。
傷口がグロいとは思ったが、それ以上の感慨はなかった。どうせあの男は「生き返る」のだから。それからいくらもしない内に、どさりと重いものが転がる音が鳴った。
その瞬間は見逃したが、おそらくなにもない空間から出現したのだろう。床に転がる男にはノイズが走っていた。それが収まると、起き上がった男はのそのそと死んだ場所へ戻っていく。まるでそこが自分の居場所だというように。
目撃した出来事を咀嚼する。
受け入れ難い現実をゆっくりと馴染ませる。
やはり俺たちは人間ではなくなっているのだろうか。客観的な事実はそう訴えるが、主観的には俺は俺で俺以外の何者でもないのだから始末が悪い。
とにかく、死んでも死なないという事実を落ち着いて受け入れることに専念する。それはこれから怪物と殺し合うのだから、とても大切なことだ。失敗を恐れる必要はない。ここでの死は通過点でしかない。
強く歯を噛み締めながら自分を塗り替える。
頭が痛い。
意識の下でなにかが蠢いていた。