003 保持領域
名前?
言われて気付く。
名乗っていなかったことに。名乗り返していなかったことに。
視線を汗の滲んだ手に落し、何度か握る。
ああ、そうだ。
俺は無意識的に考えることを避けていたのを自覚する。
簡単なことだ。名前が言えないからだ。
掘り起こせる記憶のすべてから、名前が削り取られている。俺を呼ぶ声にはすべてノイズがかかって聞き取れない。書かれた名前は黒い靄で読み取れない。
忘れているわけじゃない。喉に引っかかる感じがしていた。俺の中のどこかには残っているのだと、それだけは確かなように思えた。
ただ、どこを探せばいいのか分からない。
「箱を探してみてください。こんな風に黒くて四角い」
相変わらずのか細い声だったが、それでも俺は縋るように顔を上げていた。
彼女は両手で黒のバインダーをこちらに向けていた。きっと、箱に見立てているつもりなのだろう。顔が真剣だから、本気だ。
「頭の中に、必ずあります」
断定する語調に揺らぎはなく、素直に信じてみようという気になった。なにより、このまま名前も思い出せない不安に苛まれるのは勘弁願いたい。四肢の感覚すらも忘れていきそうになる。視界が暗い。
だがそれは逆に都合が良かった。
黒い箱を知覚する。思ったよりも小さい。手の平サイズだ。まるで「こんな風」ではないと言いたかったが、口を動かしても声がでなかった。とにかくいまは名前だ。俺の名前だ。たぶん、この箱の中に俺の――。
触れたと意識した途端、視界が晴れた。
忘れていたように息を吸い込み、ゆっくりと吐く。嫌な汗を拭い、椅子の上で脱力した。ずり落ちそうになるが、体勢を直す気にもなれない。視線に黒い箱――もとい黒バインダーが映った。ここからでは彼女の顔はうかがえない。一言、忘れる前に不満をぶつけておこうと思い、考え直した。年下相手にみっともない。ただでさえ醜態を晒しているというのに。
「では、もう一度。お名前を聞かせてもらっても?」
「狂璃。俺はきょーりって名前らしい」
自分の名前なのに「らしい」というのもおかしな話だったが、どうにも馴染まないのだからしかたがない。
「すぐに慣れます。皆そうですから」
「ますますここがどこだか分からなくなった。改造手術でもされたかな」
「かもしれません」
彼女は笑い飛ばしてくれず、少し空気が重苦しい。
「えと、そうだ。おめでとうございます。これで保持領域を認識できたと思います。私の名前――漆寝ですけど、漢字、分かりますよね?」
「うぇ、なんだこれ。……分かる」
「良かった。これで次に進めます」
意識下で、なにかが動いている音がする。シツネと聞いて漆寝だと理解できるのは妙な感覚だった。同音異義語の正解が即座に判断できるような――。ストレージが保持領域と呼ばれるなにかであることも飲み込めた。この意識下で蠢く黒い箱が、きっとその領域なのだろう。
「ん、ええと。ストレージは力を扱うためのグラフィカルユーザーインターフェース――短くGUIと呼びますけど、そういうものがあります。パソコンやテレビゲームの画面をイメージしていただければ大体あっています。それに、えっと――、タッチパネル式の機械も近いです。お持ちであれば、タブレットPCやスマートフォンを想像してください。ああ、ここでは誰も持っていないので、向こうで持っていたのであればという話なんですけど」
黒バインダーと俺のほうを忙しなく交互に見ながら彼女は喋る。ただ、あのバインダーにはなにも挟んでいない。なにを見ているのかという疑念に駆られるが、説明を聞いて閃くものがあった。ああ、つまり――。
「見えないものが見えるようになる。操作画面や、――用意した資料とか」
「あ、はい。そうです。すみません、暗記は苦手で」
「勘違いしたまま伝えられるよりはいいよ。それで、どうすれば――」
――見えるようになる? と続けようとして、言葉に詰まった。
視界に浮かぶ見慣れないアイコン群。
錯覚かと思ってまばたきすれば、それらは消えた。慌てて目を凝らせば、再び浮かび上がった。酷く不安定で、もどかしさを覚える。
「あとは慣れ――、と言ったら申し訳ないんですが、繰り返し意識することで扱えるようになると思います。遅い人でも一時間ほどである程度は安定するようです。あとなにかの言葉や動作に関連付けるとさらに安定するという報告があります。テレビのリモコンやスマートフォンの要領で操作を安定させている事例が多いです。他には念じたり声に出したりと手法はさまざまです。やりやすい方法を見つけるのが近道だと思います」
それからしばらく悪戦苦闘したが、結局エアスマートフォン法で落ち着くことになった。手の中に架空のスマートフォンを握ってフリックやタップ。遠隔操作的に視界内の各種アイコンを動かす要領だ。
ゲーム的という言葉の意味も理解した。俺のレベルは1で、CPを消費することでこれを上げていくことになるらしい。カネイさんが言っていた通り、俺の所持CPは十万弱ほどあった。ざっと見た限り、CPで「買える」のはレベルだけではないことも分かった。各種アプリ――時計、電卓、メモ帳、その他雑多な効果を持つ能力の一覧があった。ただ、怪物と戦えるような力が並んでいるようには見えない。ひとまず便利そうなアプリをチェックして、購入はせずに保留としておいた。
無駄遣いはしないようにと釘を刺されたのもあるが、レベル20にもなればトップアスリート並みの身体能力が手に入ると聞いたからだ。レベル20まで上げるにはざっと二百万CPほど必要になるらしいから、当然手持ちでは足りない。ただ、それが判明しているという事実が俺を臆病にさせた。
GUIを触って感じたことだが、ことさらに説明が少ない。ヘルプも存在しないし、操作法だって書かれちゃいない。そうだろうと予想はできても、そうだと断定ができる材料が見当たらない。レベルが上がれば身体能力が上がるとはどこにも書かれていないし、アイコンのデザインから察することも難しい。
「いま一番レベルの高い人はいくつくらいなのかな」
当然、レベルをそこまで上げた奴がいるということになる。
「ええと、確か、30を超えているはずです」
古株の連中は三ヶ月前からここにいる。俺よりもここに詳しくて、俺よりも単純に強い奴がいる。他者より優位なそいつはなにを考えているだろう。俺みたいな弱者相手にどう振舞うだろう。
こんな不安ばかりが募るこの場所で。誰かに優しくできるはずが、――ない。
カネイさんも言っていたじゃないか。CPさえ払えば、と。
人当たりが良さそうな顔を思い出す。
つまりはそういうことだ。俺はここの誰よりも無知で無力で、ただ吐き出すCPだけは持っている。親切にいろいろと教えてくれるのは、ストレージを扱えなければCPすら吐き出せないからだろう。
言われるままに二週間過ごして、CPを使い切ったらどうなる? 俺は本当に着の身着のままだ。持ち物といえば着ているジャージくらいのもので、財産と呼べるのはCP以外に存在しない。胃に意識を向ければ、少し空腹感がある。食べなければ飢える。飢えれば死ぬ。CPを失えば俺は死ぬしかない。
漠然とした死に対するイメージが、ぼろ布の彼らと重なった。自分が死ぬことは想像できないのに、なぜだか彼らのように小さくなる姿は容易に想像できた。
違う。俺はあんな奴らとは違う。ああはならない。
負け続け失敗し続ける想像を振り払う。そんなことを考える暇があるなら、少しでも勝ち取るための思索をするべきだ。
差し当たっての行動タスクを積み上げるべく、目の前で小首を傾げる少女に精一杯の笑顔を向けた。ぎこちないのはお互い様だ。
「ありがとう、漆寝さん。右も左も分からないから本当に助かるよ」
「いえ、これも、えぇと、仕事なので」
ますます声が小さくなった。ほとんど聞き取れない。
「それにさん付けとか逆に、その、落ち着かないというか……」
「ああ、そうか。ごめん」
「いえ! ……あ、すみません。大丈夫です」
悪くは思われていないようだったので、そのまま丁寧な対応を心がけた。嫌われて雑な説明をされては敵わない。
だが、バインダーで口元を隠され、さらに聞き取り難易度が上昇していた。指摘し、謝られ、謝り返し、なんてことを繰り返しながら、いろいろと話を聞いた。
声は小さく話も少し迂遠。だが漆寝はとても素直だと思えた。知らないことは知らないと言うし、妙になにかを隠して伏せる様子もない。話の出所も分かる限り添えてくれるので、情報源としては申し分ない。この素直さから少しおどおどした仕草まですべて演技なのだとしたら、それはもう俺の手に余る。踊らされるしかない。
どれくらい話しただろうか。時計アプリを購入していないので時間は分からないが、現状で行動方針を決める程度には情報を聞き出せた気がする。
会話の内訳がほとんど雑談で占められ始めた頃、唐突に漆寝が立ち上がった。がたりと鳴る椅子の音を聞きながら、視線の先を追う。店の入口だ。
「あ、お疲れ様です」
それはいままでの喋りと比べて明らかに声を張っていた。黒バインダーを抱きかかえた彼女は俺に一言「すみません」とだけ告げ、入口へと走り寄る。
入ってきたのは六人。
先頭に茶髪の少女が一人。その後ろに仮面姿の男が五人。漆寝に聞いた通りの特徴から、それが仮称「お嬢様と下僕」だということがすぐに分かった。なにより、この街に存在する六人組は彼女たちだけらしいので間違うはずもない。
漆寝が注文を取り終えたのか奥へと引っ込むと、茶髪の少女が値踏みする視線を向けてきた。この街一番の手練れらしい不遜な目付きだ。白コート姿の彼女は靴音を鳴らしながら歩み寄ってくる。