002 無銘亭
明かりのある建物まで歩いたとき、俺は物音に思わず振り返った。
石畳から石階段を視線で追った先。一段高い場所に、闇夜を背負った巨大な塔が立っている。改めて見ても、やはり大きい。台座と呼ぶには広すぎる円状の基部によって一段底上げされているが、それを抜いても下手なビルよりは確実に高かった。
黒い茨のような装飾に覆われたさまは刺々しく見えるのに、内部と同じでどこか神聖な空気を纏っているように思える。その上層部分に小さな光が見えた。人が、いるのだろうか。
――かさり、という物音が再び鳴り、慌てて視線を彷徨わせた。
「はは、なんだ……」
風に舞う枯れ葉を見つけて息を吐く。もう一度塔を見やったが、やはり光が小さく零れていた。見下ろされている気がする。――頭を振り、余計な考えを追いやった。
それよりも、いまは目の前の建物だ。
二階――いや三階建てだろうか。張り出した上階が倒れ込んできそうに思えた。積まれた石材も組まれた木材も年季が入っているが、たぶん、平気なのだろう。古びてはいるが、丈夫な造りに思えた。その一階部分、木製の両扉が通りに面した出入り口のようだったが、その片方開かれている。窓らしきものは閉じられていた。
中を覗くか逡巡し、扉の前にあるボードに目が止まる。
「は……?」
よく店の前に置いてある類の黒いボードには、よく親しんだ言語が並んでいた。
普通に日本語で一泊いくらだとか一食いくらだとかが書かれている。字は丁寧だったが、余計なことは書かれておらず、チョークも白一色で事務的な印象を受けた。ただ違うのはお金の単位の部分だろうか。円でもドルでもなくCPだった。なんとかポイントとかの類だろうかと考えるが答えが出るはずもない。
とりあえず、意思疎通できる相手が中にいるであろうことは予想が付いた。ここが見知らぬ世界であれ、拉致された先のテーマパークであれ、現状を問うには都合が良いだろう。俺は夜気から逃げるように中へと踏み入った。
板張りの床が小さく軋みを上げる。
いくつかの丸テーブル席と奥にあるカウンター席。火を思わせる暖色の光は店内に陰影を色濃く作り上げているが、各所の照明をよく見ると、発光する石が置かれているだけだった。ただ、そう見える電飾照明ではないと言い切れないが。
酒場を思わせる店内に客の姿は見当たらず、カウンターに店主と思しき男が一人いるだけだ。俺に気付いたのか、黒エプロン姿の男は作業の手を止めてこちらを向いた。
「ようこそ無銘亭へ。新顔だね。初めまして」
「あー……、ど、どうも」
線の細い男だった。二十代後半だろうか。正確なところは分からないが、俺よりは大人だろうと思えた。物腰は柔らかく、笑顔とまではいかないが、敵意を感じさせない表情で迎えてくれている。
「いろいろと分からないことだらけだろうけど、そうだな。お腹は空いてる?」
「いえ、別に……」
「そうか。素晴らしいね。僕はカネイ。この店の主人をやってる。『マスター』って呼んでくれると嬉しいな。まあ、誰もそう呼んでくれないんだけどさ」
カネイと名乗った男に勧められるまま、カウンター席に座る。
「見たところ、高校生?」
「はい」
「そうか。でもここじゃあ誰も子供扱いはしてくれないから気を付けたほうがいい」
「別に子供じゃないですよ」
「そうか。じゃあこれは奢りだ」
カネイさんは木製ジョッキを取り出すと棚の樽からなにかを注ぎ、慣れた手つきで俺の前に置いた。泡が見える。なにか、というか、まあ、酒だろう。
「ビール……、ですか?」
「だと思ってくれていいよ。エールなんだけど、僕も詳しくはないから。まあ、そのエールはアルコール分なんてほとんどないから水代わりだよ。多少は酔うけどね。外は寒かっただろうから、丁度いいんじゃあないかな」
その視線に釣られて入口を見る。扉は開いているが、なぜか店内は暖かい。夜風が吹き込んでいる様子はなかった。一応礼を言ってから、エールに口を付ける。
苦い、――気がする。温いし、よく分からない味だ。
「まあ、好みがあるだろうけどね」
しかめた顔を笑われた気がして、勢いで飲み干した。
「それで、あの、ここはどこなんですかね」
「気になるよね。だけど、その問いに答えられる人は残念ながらいない。僕にもここがどこでなんなのか分からないし、この店に出入りしている誰もが君と同じ疑問を持っているはずさ。ただ――」
言葉の続きを視線で問う。
「僕を含めた皆はここを『夜の街』と呼んでいる」
塔からここまでの光景が思い起こされた。黒塗りの空に、暗く沈んだ街並み。人の気配はなく、ただ遠くに光の柱があるだけの。
「理由は単純でね」
語り口は軽い。ジョッキのときと同じで、たぶん、慣れている。
「ここには朝が訪れないんだ。ずっとずっと夜。軽く三ヶ月は間違いなく夜のままだよ。だから『夜の街』。すぐに君もここが僕たちの知っている世界じゃあないってことを受け入れられる」
「あの、三ヶ月って」
「僕はもう少し長くいるけどね。古株の連中で丁度三ヶ月くらいさ。一度も太陽を見たなんて話は聞かない。君は極夜は知ってる? 公転の都合で地球でも夜が続く地方は存在するけど、どこも雪だらけでもっと寒い。ジャージ姿で出歩いたりできないくらいにね。だからここはおかしい。いろいろと本当におかしいのさ」
微かに口元が歪んだように見えた。だがそれもすぐに消える。
「でもまあそれも些細なことかな。もっと致命的に――、ああ、まさに致命的に違う現象が存在するからね。とにかく、そう、ここは地球ではないどこかなんだろう」
「あの。それはつまりその、帰る方法が――」
「ないね。手がかりも見つかっていない」
どこまで本当の話なのか飲み込めず、あるいは信じたくないのかもしれないが、とにかく頭がまわらない。視線を落し、いま聞いた言葉を反芻する。
「そう落ち込むことはないよ。ここの暮らしも悪いものじゃあない。その気があるならやっていける。街中に怪物はいるけど、そう怖がる必要もない。そもそもこの辺りは安全だしね」
「あの、それはどういう――」
「ゆっくりと現状を受け入れていけばいいってことさ。君がCPを払ってくれるなら、僕は食べ物でも寝る場所でも提供する用意がある。個人差はあるけど、そうだな。大体十万CP前後は皆持っている。ざっと二週間はここで寝泊りができる計算だ。それだけ考える時間はあるってことさ。安心していい」
流暢な語り口だった。落ち着いた様子でこうも言われると、なんだかそんな気になってくる。分からないことが多すぎるが、だからこそ、慌てて間違った考えに走るよりは、しっかり考えたほうがいいに決まっている。
「取り乱す人のほうが多いからね。君は若いのに冷静だよ」
「いえ、その、……いろいろと、ありがとうございます」
「はは、律儀だね」
照れたように返してくるカネイさんに、俺も似たような顔で応じた。真面目にお礼を言ったこと自体久々で、どうにも気恥ずかしさを覚える。
「さて、とにかくこの街で暮らすならストレージの扱いを覚えるところからかな。これができないと生きていけないからね。教えるのが得意な子がいるから呼んでくるよ」
待っているように言われ、素直に従う。ストレージがなんなのか分からなかったが、きっとそのあたりもこれから教えてもらえるのだろう。飲み込むのが大変な現状ではあるが、やっとチュートリアルに入った気がする。
ぐるりと店内を見まわし、口元が緩んだ。
いかにもファンタジーの酒場兼宿屋といった風情だったからだ。冒険者の宿――なんて言葉が頭をよぎる。だとすれば、この「夜の街」で俺を待っているのは怪物と戦っちゃったりする激動の日々なのだろうか。
やり込んでいたメジャータイトルのオンラインゲームを思い出し、少なからず心が躍った。世界観はまるで違うが、それは些末なことだった。ある種、どこかで夢見ていた状況が転がり込んできたことには違いがない。
カウンターに置いてあった光る小石を手の中で転がしながら、非現実感に意識を馴染ませる。どれもこれも作り物にしては巧妙すぎた。
「お待たせしました」
しばらくして姿を現したのは給仕服の少女だった。白と黒を基調としたウェイトレスのような服で、歳は中学生くらいだろうか。険のない顔付きで、どこか弱々しさすら感じさせる。儚いと評するには庶民的な顔立ちで、長い黒髪は華やかさに欠けるように思えた。
カネイさんの姿はない。
彷徨わせた視線に気付いたのか、少し眠そうな少女が口を開く。
「初めまして。シツネといいます。お気軽に呼び捨てで、どうぞ。皆さんそう呼ばれます。カネイさんはお休みになりました。あとのことは私が。えと、よろしくお願いします」
声が小さく聞き取りづらいが、遮る騒音もないので問題はない。席から立って挨拶に応じると、ぎこちない笑みを返してくれた。こちらになにか問題があるのではないかと不安になるが、たぶん、気のせいだ。彼女はきっといつもそうなのだと気持ちを整理する。促され、今度はテーブル席に向かい合って座った。
「では」
手に持っていた黒いバインダーに視線を落し、彼女は心持ち緊張しているような声音で語り始めた。
「ここでは未知の技術――、と呼ぶべきかは分かりませんが、荒唐無稽な現象を生むものが存在しています。単純に魔法や超能力といった言葉で理解していただいても問題ありません。未知の科学技術でも結構です。ただある程度体系化され、誰にでも扱えるものであることは確かです。ですが、その力の錬度や応用といった点においては個人差が発生するものとお考えください。ええと、漠然としていますよね? 私もそう思います……」
「例えばだけど――」
冒険者が集いそうな店内を軽く見まわし、曖昧につかんだ感覚を言語化する。
「それはドラゴンなんかと戦えるような?」
「はい。そういった怪物に対処できる能力を行使できるようになります。ええと、端的に言って『レベルが上がったら』という表現になりますけど」
「レベル?」
「とてもゲーム的なんです、この力。えと、なので、まずはそうした力の基礎になるストレージを認識する必要があります。この段階をクリアしてしまえば、ほとんど説明は不要になるかな、と。ですから、まずはお尋ねします」
彼女の唇が静かに問いに向かって言葉を紡ぐ。
「ゆっくりとでいいので焦らず考えてくださいね。戸惑う人も多いです」
どんな質問がくるのかと構え、自然と姿勢を正していた。
それを見計らっていたのだろう。一拍置いたあとに、問いがくる。
「お名前を、――聞かせてもらえますか?」