010 黒茨/仮面/呼白
「あららららー、死んでしまいましたね? んふふ、痛かったですね? 安心してください。ここには狂璃くんを傷付ける怖くて怖い人はいませんから!」
真っ暗な空間に俺はいた。疼く痛みの残滓も曖昧になっていく。
空? 真っ暗な「上」には蒼く染まった満月がある。
床? ――いや、水面? 波紋が広がる真っ暗な足場は頼りない。
「聞いていた話と違う? うんうんそうですねー。私のことを知っている人は少ないですからね? そう、狂璃くんは選ばれました! おめでとうございます!」
ぱちぱちぱちと白い手を打ち鳴らされる。
声には若さと艶があり、その白く細い体に扇情的な黒ドレスを纏っていた。
肌には黒い茨の紋様が這っている。
「あらら? まだ意識がはっきりしませんか?」
傾げた首にあわせ、月光浴びた銀糸の髪が揺れ動く。
漆黒のティアラを着けた姿は指の先に至るまで洗練されていて。
まるで――。
「んふふ、察しが良くて好きですよ? そう、私は『夜姫』。黒茨の夜姫。狂璃くんたちが夜の街と呼んでいる場所のお姫様。ずっとずっと狂璃くんを待っていました。どうかこの気持ちを裏切らないでくださいね? 本当なら続ける意志を問うだけのところですが、思わず話しかけてしまいました」
色白の肌。その頬に朱が差している。
「だって、私は狂璃くんが続けることを選ぶと信じています。狂璃くんも続けることを選ぶと決めているでしょう? だからどうしても我慢できませんでした。ごめんなさい。うん。うん。もう時間です。ああ本当に。どうして私は」
饒舌な彼女は上目遣いでこちらを見ていた。
「あざといな」
「んふふ、初めて声にしてくれた言葉がそれですか。手厳しいですね? そんなところも好きになってしまうかもしれません。いつか。そう、いつか。必ず直接お会いしましょうね。狂璃くんを信じて待っていますから」
どこか儚げに。どこか気丈に。
饒舌なのになにも言わなかった夜姫は、まさに朧のように世界に溶け消えた。
蒼の満月が黒く塗り潰され、唐突に足場が崩れて俺は水に沈む。
苦しいということはなく、ただ、慣れ親しんだ五感が明瞭になっていく。
世界は白染めの光へと転じた。
◆
浮遊石の間で目覚めた俺は、起き上がって四肢の調子を確認した。
時計を見れば二時間ほど経っていることに気付く。闇色の沼に沈んでいた時間が長かったのだと、曖昧な記憶を手繰りながら考えた。あの会話にはまるで現実感がない。
あの会話? どんな話をした? ……――分からない。思い出せなかった。
頭を振る。すくい上げられない記憶にこだわるのはやめだ。
拭えない倦怠感はある。それでも手足は動く。歩けないほどではない。ただ、服の惨状から、殺されたのが夢や幻覚の類ではなかったことを実感した。生きながら解体される記憶は――、思い出すだけで動悸がやばい。
「ふざけやがって……」
だがそれ以上に憤りが感情を塗り潰す。弄ばれたことは事実で、脈絡もなく殺され、なにも知ることなく終わらされた。最低で最悪で理不尽で気に入らなくて。
――鉈を引き抜き柱へ叩き付けた。
行為に価値はなく、手が痺れただけで気持ちも収まらない。
単眼装飾の仮面頭巾。
あれは「お嬢様と下僕」の下僕連中が着けている仮面だ。確かに敵対はしていたが、殺されるほどの恨みを買った覚えは――、いや、俺の自覚は関係がないか。あいつは殺したいから殺して、俺はそれに抗う力がなかったというだけの話。
裁く法はなく、死が絶対的な終わりでない以上、きっと俺はまた殺される。
抗えるだけの力を手に入れない限り、ずっとずっとずっと。
ああ、そうか。
俺はずっと「続ける」つもりだから、そんな風に思う。
諦めて全部終わりにしようと思っていないから、どうやって抗うかばかりを考える。
だって、そうだろ。
こんなつまらないことにすり潰されて終わるなんて、馬鹿げてる。
「随分遅かったな」
「――っ」
咄嗟に鉈を構えた。
くぐもった声の主は柱の陰から現れる。単眼装飾の仮面頭巾を付けた男。武器は手に持っていないが、警戒を解く理由にはならない。顔は隠れて分からないが、俺のことをじっと見ている様子だった。
「少しやりすぎたか。まあ、涙紗那様の誘いを断った落とし前にしては安いな。そう思うだろう?」
「ああ、そうかよ。そうかもな。これで終わりならな」
「終わりさ」
男は大仰に手を広げて見せる。
「洗礼――、いや、通過儀礼かな。先達からの贈り物でもある。これで死が終わりではないと知っただろう。これで世界が違って見えるだろう」
「余計なお世話だ畜生が」
「これは忠告だが、あまり目立つ真似はするな。涙紗那様は退屈している。気に入ったものは壊れるまで戯れ遊ぶぞ」
「楽しんでるのはお前もだろ。レベルが高いだけで偉そうに」
忍び笑いが聞こえた。くつくつと、仮面の下で笑っている。
「そうだな。そうだろう。だが、ここではそれが真理だ」
「つまらないな」
「身をもって知っただろう」
また、男は笑う。
去っていく背中に苛立ち、再び鉈を振るった。
柱を打ち鳴らした響きは、やはり空虚で、――価値がない。
◆
無銘亭に戻るとぼさ髪が絡まれているのが見えた。
パーティチャットにメッセージが溜まっていたので、ある程度予想はしていた光景だった。だが、それにしても絡まれすぎだ。
店内には「お嬢様と下僕」はおらず、「三十路協定」の連中がいるだけだ。カネイさんは遠巻きに様子を見ている。騒ぎが大きくならなければ干渉しないのかもしれない。
俺は無言でぼさ髪と小男がいる場所に歩み寄った。
漂う酒の匂いが酷い。小男は随分と酔っている。動きは緩慢で、目は濁っていた。
酔って子供に絡む姿は醜悪だ。酔っていなくても絡むのだからさらに酷い。大人のすることじゃないだろう。気に入らない。
ぼさ髪を小男から引き離した。もういろいろと面倒だった。
疲れていたし、不愉快なことが多すぎた。
「あ?」
「手を出すな」
「はぁ? そんなこと言える立場だと――」
苛立ちを隠さず一歩踏み込めば、小男は怯んで退いた。
「言えるね。俺の邪魔をするなら殺す。絶対に必ず殺す。仕返しにあんたが俺を殺しても無駄だ。俺はあんたを殺すまで生き返り続ける。ずっとずっとずっとあんたを殺す。泣いて詫びても殺す。生き返る気をなくすまで殺して殺し尽くす」
小男には覚悟がない。そう感じる。
でなければ、見るからにレベルの低い俺を恐れる理由がない。
「だからさ。なあ、こんなくだらないことで煩わせるなよ」
「な、なに本気になってんだよ。ただの――」
泳いだ目は俺の顔を見ていない。
小男の胸を拳で叩いてやる。簡単によろめいて咳き込んだ。
「油断があればレベル差なんて容易に埋まる。執拗な敵意を買えば損ばかりだ。俺はあんたがそこまで思慮が浅いとも思わない。だからもう一度言うよ」
胸倉をつかんでも抵抗すらしない。たぶん、抵抗できることを忘れてしまっている。
俺なんかより、間違いなく強いはずなのに。
結局は、その気があるかないかの話になるだけだ。
この世界のルールは思いのほか単純明快で。
だからこそ、繰り返し言葉に変え、告げてやる。
「呼白には――、手を出すな」
小男は声を詰まらせ頷いた。
痩せ男と大男に視線を移すが、関係ないとばかりに目を逸らされた。仲間意識なんて元々ないのだろう。最初から分かっていた話だ。
「行くぞ」
「う、うん……」
動かない呼白の手を引いて階段へと歩き出す。カンテラを忘れていることに気付いて振り返れば、「三十路協定」が慌てて一歩下がった。曲がりなりにも平均レベル20前後のパーティだろうになんなんだと苦笑したくなる。
テーブルに置いてあったカンテラを手に、無駄にやり合う気まではないとの意思表示を兼ねて笑顔で応じてやった。彼らもへらへら笑ってくれたので、きっと察してくれたに違いない。
「あ、あの」
そのまま部屋に戻って明日の用意をしていると、呼白が言いにくそうに切り出した。うつむいていて、妙に歯切れが悪い。
「えっと、その、あのね? さっきは、その、あ、ありがと……」
「ああ、気にしなくていい。ほとんどただの八つ当たりだったからな」
「え、あ、えっ?」
「ちょっと別件でいらついてただけだ」
「え、えぇぇぇー……」
呼白の赤かったが顔が気の抜けた顔に変わる。
「それより急にいなくなって悪かったな。部屋に入れなくて困っただろ」
「え、あ、うん。べ、別に平気だったし?」
鍵は俺が持っていたので、部屋に入れずしかたなく一階で待つことにしたのだろう。その結果、また絡まれるあたりがどうしようもなくお子様だ。
髪をいじっているパーカー姿を眺め、やはり寒そうだよなと考える。ストレージの戦利品袋から羽織れるタイプの毛布を取り出し、投げてやった。
「わぷっ」
「それやるから、明日もちょっと仕事頼まれろ」
かさばるが悪くない品で、処分するのをためらっていた毛布だ。ぼろ布系の衣服ばかりの中で、少しは見られる仕立てだった。白黒のチェック柄だが、黒が多めなのでそこまで目立つこともないだろう。
「た、頼まれる」
「よし、じゃあとっとと寝るぞ」
カンテラに布を被せて光を遮り、冷えたベッドに潜り込む。
俺を殺した奴がいる宿で眠ることに思うところあった。だが、逃げ出した先で待っているのは磨耗し続ける時間だけだろう。
「…………――――」
暗闇。物音。靴音。誰かが外を歩いている。階段の軋む音。扉の開く音。たぶん「無言男」だろうと考える。静かだ。そういえば虫の声がしない。暗闇に目が慣れていく。衣擦れの音。跳ねた心音に苦笑する。小さな寝息の音。床で眠る呼白に怯えてどうする。くだらない。俺は眠ることに集中する。




