001 星/塔/街
その日、空は流れ星で埋め尽くされた。
◆
随分と眠っていた気がした。
頭は痛かったし、体はだるかった。
これはあれだ。深夜までオンラインゲームに興じた翌日なんかが近い。俺は高校と自宅を往復するだけの生活で常に体力不足だったから、この倦怠感はある意味で慣れ親しんだ感覚かもしれない。ただ、いま転がっているのは自室のベッドではなかったし、リビングのソファでもなかった。
頬や手に触れる石造りらしき床が冷たい。
薄っすら目を開け、うつ伏せだった身体を起こし、寝起きの頭で考える。
定まらない焦点は、それでもここが見知らぬ場所なのだと教えてくれた。
随分と明るい。眩しいくらいだ。暖かい色合いに思える。というか実際、この場所は暖かい。磨かれた石造りの広い空間のようだったが、暖房が効いているのだろうか。
ぼんやりと周囲を見まわすと、白い空間の中、壁際にちらほら黒い影があることに気付いた。そろそろ視野も普段通りだ。何度かまばたきしてみる。それはぼろ布のように見えた。結構大きい。少し、動いた。
「――っ」
それは人だった。よく見れば壁以外にもいる。シンプルながらも洗練された柱の陰、一つだけある通路の近く、大きな扉へと伸びる階段の脇。どこか神殿を思わせる空間の中、黒ずんだ布を纏い、文字通りホールの汚れであるかのようにうずくまっていた。
目が合わなくて良かったと思いながら、視線を逸らす。
彼らに生気は感じられなかったし、こちらを気にしている様子もなかった。それでも人は人だ。それも、俺とは住む世界の違う相手だ。なにをされるか分からない恐怖が付きまとう。知らないものは怖い。特に、いま、この現状では。
なにが起きた?
記憶を手繰る。俺はなにをしていた?
オンラインゲームの画面が思い出され、次いでバイトをして買ったゲーミングPCに視点が移る。ああ、深夜まで遊んでたっけ。それで珍しく携帯が鳴って。メールを見ようと思ったら、ゲーム画面の野良パーティで突然チャットが沸いた。スラングだらけの内容で、曰く『空が凄い』。それで窓を開けた。吐き出した息が白かった。雪でも降りそうだと思い、そして見上げた。
流れ星。
空を埋め尽くすほどの流星群だった。
それで、――どうしたんだっけ。
いつまでも途切れない流れ星。その興奮を伝えようと、窓を閉めて、PCに向かって、曇った眼鏡を拭いて、『wwwwww』を連打しまくったところまでは覚えている。
その先がない。
真っ暗だ。辿ってみても、ずっと暗い。なにもない。
ずっとずっとその「なにもない」を追ってみる。光が見えて。それで。
いつの間にか閉じていた目を開ける。
光に満ちた空間。
見上げて苦笑した。そこには光源が在った。
随分と高い天井までの間に、それは浮いている。シャンデリアのようにも見えたが、吊り下げている器具は見当たらない。光を発する透明な石。それが当たり前のようにふわふわ浮いていやがった。
「夢だろ」
五感はそれを否定する。
「馬鹿げてる」
思考停止したくなった。考えるだけ無駄だと思ったからだ。だがどうしても気になってしまう。疑念が拭えない。なにかのトリックではないだろうか。どう見ても本当に石が浮いているが、催眠術かなにかで思い込まされているだけかもしれない。部屋着のジャージで座り込んでる俺は、きっと何者かに拉致られて監禁されているに違いない。たぶんそうだ。きっとそうだ。
のろのろと歩き出す。
階段の上にある扉を確かめた。ほら開かない。
ぼろ布の彼らに声をかけてみた。見向きもしない。
通路を進んで突き当たりを確かめる。当然ここから出られない。
――そのはずだ。
頬に当たる冷たい風は気のせいだ。
開かれた扉が見えるのは気のせいだ。
扉の先に暗がりが広がっているのは気のせいだ。
突然チュートリアルもなく異世界に放り出されたなんてこと、ない。
――そのはずだ。
……――そう思いたい。
◆
星空に満月。
扉の外には夜が広がっていた。
撮影したくなるほどの空だったが、生憎とポケットに携帯はない。
天体に詳しければ、この夜空を見ただけで地球ではないと断言できたのだろうか。残念ながら俺はそういった知識は持ち合わせていない。月が二つあるなどという分かりやすい状態であれば、受け入れるのも容易だったのだろうか。
だからとにかく探した。
ここが俺の知らない世界なのだと断言できるなにかを。
確信を得て、この半端な気持ちを落ち着かせたい。
月下。暗く沈んだ街は思いのほか遠くまで見渡せる。
眼前に広がる暗闇の街。遠くに見える光の柱。背後にそびえる巨大な塔。それらすべてのディティールが訴えるのは、圧倒的なまでの「異世界感」だ。
だがそれなのに。まだ俺はテーマパークかなにかだと一笑に伏そうとする。
街は中世西洋風ファンタジーを思わせる石造りで年季の入った建物だったし、光の柱はサーチライトかなにかだと言い聞かせるにはいささか幻想的すぎた。それに、と背後を振り返る。歩いてきた通路――、塔の最下部だと推測できる浮遊石のホールにいた彼ら。あの生気のなさが演技だとはどうしても思えないというのに。
それなのにまだ、現状を受け入れられない。
寝静まっているのか闇に染まっている街を眺め、ふと気付いた。
「ああ……」
顔に手をやって、思わず笑いが零れた。
なにを見ても信じられなかったが、そもそも観察できていること自体がおかしな話だと理解できたからだ。顔、それも目元に触れて、触れてしまえることに再び笑った。
眼鏡もなしに遠くを観察できるほど、俺の目は良くないはずなのに。
突然夜中に記憶も飛ぶような拉致り方をし、意識もないまま目の矯正手術を行い、凝った演技のできるエキストラや見たことも聞いたこともない巨大なテーマパークでもってただの高校生であるところの俺を歓待しようなんて酔狂なイベントが発生する確率はいかほどのものだろうか。
非現実的だ。
この世界どころか、いまの自分自身すら。
途端、自分の操る身体が遠ざかる錯覚にすら襲われた。
裸足で踏み締める石畳の冷たさも、なんだか偽物にすら思える。
揺らいでいるのは本当に視界だけなのだろうか。
「気持ち悪い」
なにが、と思った。
どこが、とも思った。
塔の壁面に右手を付きながら当てもなく歩く。遠く、光の柱を眺めながら。街中の離れた場所に立つそれがなんなのか見当も付かなかったが、ただなんとなく、落ち着く光だったから目を奪われた。光の柱はいくつもあった。たぶん塔を囲むように。滲み歪む視界の中で、その柱の一つが消えていった。ゆっくりと、静かに、火が消えるようだった。
寄る辺ない心の内に、暗闇を忌避する気持ちが湧き上がる。引き返した。塔の中に戻ろう。石畳を裸足で踏みながら、思う。戻って、それで、どうなる。
通路からもれる光を感じて顔を上げた。
視界に、それとは別にもう一つ、薄明かりが映る。街並みのほうだ。それはいままで見た光とは違って、どこか弱々しく、なんというか「人」の明かりを思わせた。建物からもれている。起きている人間がいるのだろうか。
振り返り、塔の中を思い出す。明るくて暖かかった。だが、戻ればぼろ布の彼らと一緒に過ごすことになる。それはちょっと遠慮願いたい。こちらに視線一つ向けない彼らが恐ろしく思えるからだ。あの場において、きっと俺は異物であるはずなのに。無気力な彼らはなにを考えているのだろうか。分からないのは、ただそれだけでとても怖い。
――それに、消えた光の柱に妙な焦燥を覚えたということもある。
漠然と。なにかが失われた気がする不安は、じっとしていることをためらわせた。動かなければという気になった。錯覚だろうと自嘲する自分もいる。
それでも。
たぶん、動かなければなにも始まらない。