阿部監督のニュースを読みながら、かつて娘を殴りたかった自分を思い出す
テレビから流れてきた、あるニュース。
それはどこか遠い世界の出来事のようでいて、気づけば僕を、
かつて娘と向き合っていた「あの頃」の記憶へと引き戻していきました。
怒り、戸惑い、そして手を出さなかった(出せなかった)あの日のこと。
決して劇的ではない、ある親子のささやかな足跡を綴ったエッセイです。
そのニュースを読んだとき、僕は少しだけ妙な気分になった。
プロ野球の監督が、自宅で娘に手を上げ、
そのままシーズン途中で辞任に追い込まれたという記事だった。
華やかな場所にいるはずの人間が、ある一瞬を境に、すべてを失ってしまう。
その落差は、たしかに衝撃的だ。
けれど僕の目を引いたのは、そこではなかった。
誰かが誰かを殴るという、単純で取り返しのつかない行為。
その裏側に、どれくらいの時間と感情が澱のように積もっていたのだろう、と僕は考えた。
僕にも娘がいる。
もう何年も前のことになるけれど、彼女が高校生だった頃、
学校始まって以来といわれるような不祥事を起こしたことがあった。
内容はここには書かない。ただ、退学寸前までいったという事実だけで十分だと思う。
呼び出しを受けて学校に向かう途中、空は妙に青かった。
世界は何事も起きていない顔をしているのに、
僕の視界だけがどこか歪んでいるように感じられた。
結局、担任の先生の尽力で、娘は卒業できることになった。
僕は安堵した。
でも同時に、胸の奥には、黒く硬い塊のようなものが残った。
それは、うまく言葉にならない。粗くて、手触りだけがはっきりしている感情だった。
正直に言えば、殴りたいと思ったことがある。
強く、はっきりと。
裏切られたような気がしたし、どうしてそんなことをしたのか理解できなかったからだ。
けれど僕は、手を出さなかった。
出さなかったというより、出せなかったのだと思う。
僕は誰かを殴ることに馴染んでいなかった。
腕を上げるところまでは思い浮かんでも、その先が、現実の動きにならなかった。
だからあのニュースを読んだとき、ひとつの仮説のようなものが頭に浮かんだ。
「人は、慣れていることしか、とっさにはできないのではないか」と。
怒りがある一点を越えたとき、体が先に動いてしまう人と、
どうしても動けない人がいる。
その違いは、おそらくずっと手前の、見えないところで決まっている。
それが何なのかは、うまく言えない。
ただ、違いは確かにある。
ニュースの向こう側にいる娘は、誰かに助けを求めたのだという。
僕の娘は、そのあと何事もなかったかのように社会に出ていった。
僕たちの間に、特別な和解があったわけではない。
時間がゆっくり流れて、角ばったものが少しずつ丸くなっていっただけだ。
それでも、ときどき考える。
あのとき、もし僕が手を出していたら何かが変わっていただろうか、と。
あるいは何も変わらず、ただひとつ余計な傷だけが残っていたのかもしれない。
リビングの窓辺では、娘が置いていった観葉植物が、
持ち主の変わった今も、静かに青い葉を広げている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この拙い文章が、誰かの心の一角にそっと触れるものであったなら幸いです。




