「その黄色いゴミ箱を持って消えろ」と100均卵料理グッズを見下して追放した王国が、一年後に俺を呼び戻すまでの話
連載中のお話の短編版です
プロローグ
――
聖王都グラン=エッグの謁見の間。そこには、この国の「卵」を支配する特権階級たちが勢揃いしていた。
「シュウ=ランスター。貴様を、宮廷魔導具師の座から追放し、婚約を破棄する!」
第一王子レオンの声が、大理石の床に冷たく響く。その隣では、シュウの元婚約者・公爵令嬢ベアトリーチェが、扇子で口元を隠しながら冷淡な笑みを浮かべていた。
「……異議はありません。ですが、これらは私が召喚したものです。持っていっても?」
シュウは淡々と答えた。足元には、数年前から彼の中に突然流れ込んできた知識に従い、魔力で現出させた奇妙な道具たちが転がっている。この世界の素材では再現不可能な、滑らかで弾力のある未知の物質――「合成樹脂」で作られた道具たちだ。
「フン、持っていくがいい! 貴様が一年、国費を投じて作り出したものが、この『黄色いゴミ箱』だからな!」
王子が忌々しげに指差したのは、手のひらサイズの黄色い容器。シュウが知識の海から引き揚げた、【味付けたまごマスター】という名の道具だ。
「魔力も宿らぬ、安っぽい手触り。魔力回路の紋章もない。挙句の果てには、卵を四個入れるためだけに設計された、汎用性の欠片もないゴミ……。これを『神器』と言い張る貴様の正気を疑うわ!」
さらに、周囲の重鎮たちが追い打ちをかける。
「我ら王国騎士団は、戦場でも揺るがぬ『硬いゆで卵』こそを至高とする!」
重装騎士団長ボルドーが、シュウが生成した【卵タイマー】を足蹴にする。
「茹で加減を色で知らせるだと? 己の勘を信じられぬ臆病者の道具だ!」
「我ら宮廷魔法師団は、精密な温度操作魔法で卵を操る!」
大魔導院長アルゼインが、シュウの【温泉たまご職人】を鼻で笑う。
「お湯を入れて放置するだけ? そんな怠惰な道具に、魔導の深淵など宿るはずもない!」
「そして、この私だ!」
王宮料理長ガストフが、シュウの【たまご溶き名人】をゴミ箱へ放り投げた。
「私は指先の魔力で白身を断ち、銀の串で味を染み込ませる。職人の三十年の修行を、そんな奇妙な形の棒一本で超えられると思うなよ!」
ベアトリーチェが、足元の【ゆで卵穴あけ君】を不潔な物を見るかのように一瞥し、顔を背けた。
「何ですか、この不格好な物体は。優雅さのかけらもないではないですか。視界に入れることすら不快ですわ」
「……分かりました。では、お暇します」
シュウは、彼らがゴミと呼んだ道具たちを丁寧に拾い上げた。
彼らがゴミと呼んだからではない。自分が作ったものだから、丁寧に扱う。それだけのことだった。
彼は拾い上げた道具を、布で包み、鞄に収めた。
「……最後に一つ。これから春になり、鶏の餌が変われば、卵の殻は薄く剥きにくくなります。その時、この『針』で一つ穴を開ける……その一秒の合理性が、いつか欲しくなるはずです」
「フン、不浄なゴミと一緒に、この国から消えるがいい!」
シュウの視線が、ふと追い打ちをかけるガストフの手に止まった。指が白く、包丁のタコもなければ、肌の厚みもない。料理人の手ではなかった。ただ立場と権威という名の、実体のない盾に守られているだけの空っぽな存在。
三十年の修行というのも嘘だろう。どちらがゴミなのか。
シュウは清々した顔で王宮を後にした。
街道に出たところで、彼はふと立ち止まり、手の中の黄色い容器を見た。
「……さて。頭の知識が正しければ、この容器に、あの安酒場の煮込みダレとゆで卵をぶち込めば、とんでもないことになるはずだが……」
(笑えばいい。今に分かる)
彼は期待と確信を抱えながら街道へ出た。
この時は王宮の誰も彼らが追い出した宮廷魔導具師の鞄に、王国の全財産を積んでも買えない「100円の奇跡」が詰まっていることに気づいていなかった。
――
『琥珀の宝石卵と、聖女の変質』
王都を追放されてから二日。どこへ行くかは決めていない。ただ、道を歩いていれば次の街がある。それでいいと思った。徒然といこう。
シュウは街道沿いの大きな木陰に腰を下ろし、周囲に人がいないことを慎重に確認してから、自身の右手に意識を集中させた。
「……顕現せよ、100円の英知」
シュウの呟きと共に、淡い光の中から一つの道具が姿を現した。それは、この世界の陶器や金属では決して再現できない、滑らかな曲線と鮮やかな黄色、そして独特の弾力を持つ未知の物質――合成樹脂で作られた、四つの円筒が連結したような奇妙な容器だった。
異世界の知識が授けた神器、【味付けたまごマスター】だ。
シュウはこの道具の名を知っている。数年前から脳裏に直接流れ込んでくるようになった、異世界の知識。そこでは、物の価値を測る単位として「円」という言葉が使われており、この容器は「100円」という対価で手に入る、究極の合理性の産物とされていた。
「……100円。この世界で言えば、銅貨十枚だ。子供の小遣いか、安酒場で薄い薄いエールもどきを一杯飲むのが関の山の、取るに足らない端金。だが、知識の海においてこの金額は、安さの代名詞であると同時に、徹底的な計算の上に成り立つ信頼の証でもあった。魔力回路の紋章一つない樹脂の塊が、本当に王宮の魔導具や熟練職人の技を超えるのか」
シュウは独り言ちながら、容器の蓋をそっと開けた。中には、安酒場で分けてもらった煮込みダレに、ゆで卵を投入して一晩寝かせたものが収まっている。
「知識の理論が正しければ、浸透圧の作用によって、最小限のタレで芯まで味が染みているはずだが……」
シュウ自身がまだその真理を測りかねていた時、近くの茂みがガサリと揺れ、一人の少女が這い出してきた。
「……あ、あの。食べ物の、耐え難いほど良い匂いがして。不躾ですが、何か……何か少しでも、恵んでいただけないでしょうか」
泥に汚れ、服もボロボロだったが、その立ち振る舞いには隠しきれない気品が宿っていた。シュウが水を差し出すと、彼女は一気に飲み干し、掠れた声で語り始めた。
「私はエルナ。つい先日までは、王都の聖教会の聖女として仕えておりました。ですが、教会上層部の腐敗を告発しようとした結果、身に覚えのない不敬罪を着せられ、着の身着のままで追放されたのです。数日間、野草を齧り、泥水を啜って歩き続け……もう、限界でした。神に祈る気力さえ、この空腹が奪い去ってしまいました」
エルナの瞳には絶望があった。
「今のあなたに必要なのは祈りよりも栄養でしょう。これ、食べますか?」
シュウは、容器の中から琥珀色に染まった卵を一つ取り出し、エルナに手渡した。
「……卵、ですか? ありがとうございます。でも、ゆで卵は今の私には少し。水気がないと、飲み込むのも一苦労ですから」
彼女にとって、卵とは「安価でパサパサした、喉を詰まらせるための塊」という認識でしかなかった。
彼女は遠慮がちに卵を受け取り、ゆっくりとその殻を剥き始めた。その瞬間、彼女の時が止まった。
「……えっ? 白身まで……どうして? 宝石の琥珀みたいに、美しく透き通って……」
殻の下から現れたのは、艶やかな飴色の肌だった。香ばしい匂いが彼女の理性を揺さぶる。エルナは、何かに取り憑かれたように、その卵の一角を口に含んだ。
――プチン。
軽快な弾力とともに、閉じ込められていた濃厚な旨味が、口内で一気に爆発した。
「っ!? な、なんなんですの、これ!? 白身の芯まで、驚くほど均一に味が染みていて……それに、この黄身! まるで極上のクリームのようにねっとりと舌に絡みついて、蕩けていきますわ! 喉を通り過ぎる瞬間、鼻に抜けるこの芳醇な香りは、一体どこから……!」
エルナは無我夢中で二口目を頬張った。シュウも、自分用の卵を一つ口に運ぶ。
「……っ!? なんだこれ。知識で知っていた味より、数倍……いや、数十倍美味い」
驚愕したのはシュウも同じだった。計算し尽くされた容器の形状が、重力と密着を利用して、最小限のタレを全体に隙間なく行き渡らせる。職人が銀串で穴を開けて漬け込む方法では、どうしても生じる味のムラが、この100円の容器には一切存在しない。素材の水分を活かしたまま、旨味だけを奥深くまで引き込む、合理性の勝利だ。
「シュウ様……これ、もう一個、頂いてもよろしいでしょうか! この味を知らずに死ななくて、本当に良かった。今まで私が食べてきたものは、卵の形をした別の何かでしたわ!」
「いいですよ。まだ三回はタレを使い回せますから」
「三回! ああ、明日も、この幸せが約束されているなんて……! この卵こそが、私にとっての新たな聖域です!」
エルナは二個目の殻を剥くとき、すでに恍惚とした、どこか危険な表情を浮かべていた。シュウは容器の蓋を閉めながら、追放されてから初めて、誰かのために作るということを考えた。自分に授けられたこの品物たちで誰かのために。
「この国はまだ知らない。100円の本当の価値を」
シュウの呟きは、狂おしいほどに卵を貪るエルナの耳には届いていなかった。王宮が「ゴミ」と笑い飛ばしたあの黄色い容器が、一人の聖女の人生を完膚なきまでに塗り替えた瞬間だった。
シュウはエルナの顔を一度だけ見た。気づかないうちに、口の端が少し上がっていた。知識が正しかった。それだけではない何かが、胸の中にあった。
――
『黄金の粒子と、断たれた白身』
琥珀色の味付け卵に魂を奪われた翌朝。元聖女エルナは、寝起きのままシュウの焚き火の前でそわそわと落ち着かない様子を見せていた。
「シュウ様、おはようございます。……あの、今朝の卵は、どのような魔法を? 昨晩の琥珀色の奇跡を思い出すだけで、私、生ツバが止まらなくて……」
かつて清廉潔白の象徴だった聖女の姿は、そこにはない。彼女の瞳は、未知の快楽を求める探求者のような熱を帯びていた。
「おはようございます、エルナさん。今朝は魔法も、一晩の放置も必要ありません。これを使います」
シュウが鞄から取り出したのは、白い道具だった。それは細い棒の先に、波打つような曲線を描く不思議な「穴の開いたリング」が備わった、一見すると用途不明の奇妙な形をしていた。
「……それは、なんですの? 昨日の『四つの穴が空いた容器』に比べれば、あまりにも頼りない……その、失礼ながら、ただの細工棒に見えますけれど」
「エルナさん。これは【たまご溶き名人】です。道具の価値は見た目ではなく、どれだけ『目的』に対して純粋であるかで決まります。この奇妙なリングのカーブには、王宮の魔導師たちが一生をかけても辿り着けない、緻密な計算が宿っているのです」
シュウは、炊きたての白米を器に盛り、もう一つの別の器に新鮮な生卵を落とした。エルナの表情が、わずかに、しかし明確に曇った。
「あの……シュウ様。わたくし、生卵の、あの『ドロリ』とした白身の塊が、どうしても苦手でして。不敬な物言いかもしれませんが、飲み込む時に喉にズルリと障るあの感触が、どうにも食欲を削いでしまうのです。王宮の晩餐会でも、生卵だけは避けて通って参りましたわ」
「分かります。あの不快感の正体は、白身を構成する強固な結合組織……いわば白身の『コシ』です。普通の箸でどれだけかき混ぜても、奴らは巧みに逃げ回り、決して消えることはありません。だからこそ、この道具の出番なんです。見ていてください」
シュウは迷いなく、器の中で白いリングを動かし始めた。
普通の箸ではない。リングの絶妙なカーブが器の底に密着し、逃げ場をなくす。そしてリングの内側に設けられたエッジが、白身の強力な結合――カラザや濃厚卵白と呼ばれる強固なタンパク質の鎖を、すれ違いざまに物理的に断ち切っていくのだ。
シュウの腕が描く規則的な運動に合わせて、白身の不透明な塊が、黄身の鮮やかな色彩の中にみるみる溶け込んでいった。
「……えっ!? 白身の塊が……逃げる隙もなく、穴を通り抜けるたびに断ち切られて……一つの滑らかな液体に……?」
「わずか十秒。……この食べ方、この国にはないんですよ。生卵をご飯にかけて食べるという発想が、そもそも存在しない」
器の中には、ムラ一つない、完璧に均一な黄金の流体が出現していた。シュウはその黄金の液体を、湯気の立ち上る白米の上へと、滝のように注いだ。箸で軽く混ぜ合わせると、米一粒一粒が卵の膜で均一にコーティングされ、器の中が朝日を浴びた金粉のように眩い輝きを放った。
そこに醤油をひと回し。
「さあ、食べてみてください。究極のTKG……卵かけご飯です」
エルナは半信半疑のまま、黄金に輝く米を掬い上げ、口に運んだ。
「…………っっっ!!!!」
彼女の華奢な肩が、落雷に打たれたかのように激しく震えた。
「な、なんなんですの、この『滑らかさ』は……! 喉に引っかかるあの忌々しい不快感が、欠片もありませんわ! まるで、卵の旨味を凝縮した最高級のシルクを飲み込んでいるようですわ……っ! お米が、卵という名の慈愛に満ちた海に溶けて、噛まなくても喉を滑り落ちていきます……!」
エルナは、もはや淑女の礼儀も、聖女の誇りも全てかなぐり捨て、無我夢中で器を掻き込んだ。シュウも自分の分を口にする。
「…………くっ!? 知識では『物理的に結合を断つ』ことが味を均一にすると分かっていたが……これほどか。白身の余分な雑味が消えて、黄身のコクがダイレクトに脳に突き刺さる……っ!」
生卵をご飯にかけて食べる。それだけのことだ。だがこの国には、その発想がない。卵は焼くか茹でるか、魔力で加熱するか。生のまま口に入れるなど、王宮の料理長が聞けば眉をひそめるだろう。……だからこそ、誰も気づいていない。白身を完全に均一にした生卵が、米と合わさった時に何が起きるかを。
「シュウ様……おかわり……おかわりをくださいませんか?! この黄金の喉越しを知ってしまったら、私、もう昨日までの自分には戻れませんわ! 明日も、明後日も、私の喉をこの白いリングで導いてください……っ!」
エルナの瞳は潤み、頬は高揚で赤く染まっていた。それは祈りを捧げる聖女の顔ではなく、完全に卵の機能美に屈服した者の顔だった。
その反応を見ながらフッと笑みを浮かべ、静かに、そして確信を込めてつぶやいた。
(……この世界の住人には、これが銅貨十枚――100円で買えるものだとは、想像もつかないだろうな)
「この国はまだ知らない。100円の本当の価値を」
――
『肉汁の抱擁と、溶けゆく高慢』
二人で歩くようになって、四日が経った。エルナは道中ずっと、昨日食べたものの感想を言い続けていた。シュウはそれを、特に否定する理由がなかった。
街道沿いの宿場町。シュウとエルナが地元の猟師から分けてもらった猪肉を焼いていた時のことだ。
突如、街道を砂塵が舞い、豪華な馬車が二人の前で止まった。
「――見つけましたわ。こんな卑俗な場所で、野蛮な焚き火料理に興じているなんて」
馬車から降り立ったのは、扇子を優雅に揺らす公爵令嬢ベアトリーチェ。シュウの元婚約者であり、この国の「卵の贅」を支配する特権階級の象徴だ。
「ベアトリーチェ。追放された僕に何の用です」
「用? あなたが持ち出した『ゴミ』の中に、王宮の宝物庫の鍵が混ざっているという疑いがありますの。……あら、そこの汚らしい女は? まさか、あなたの新しい『猫ちゃん』かしら」
ベアトリーチェの刺すような視線がエルナを射抜く。エルナが「猫ちゃん……っ!?」と顔を赤くする横で、シュウは冷淡に、オレンジ色の二層構造の容器を取り出した。
「ベアトリーチェ、ちょうどいい。あなたは信じている。『手間暇こそが、高貴。価値とはそういうこと』と。しかし、価値とはそれだけではない。この【温泉たまご職人】一つで証明しましょう」
「そんな安っぽい箱で? お笑い草ですわ。わたくしを満足させるには、王宮の料理人が三日三晩、魔力火で温度を監視し続ける『極限の半熟卵』を越えねばなりませんのよ?」
「いいえ。必要なのは、熱湯。……そして『放置』という名の合理性だけだ」
シュウはお湯を注ぎ、ただ放置した。お湯が静かに容器の下へ抜けていく間、シュウは一つの器を用意した。
そして、待つ…………頃合いだ。
強火で表面を焼き上げた猪肉の丼。その中央に、シュウが卵を割り落とす。
トロン。
現れたのは、白身がうっすらと真珠色に曇り、黄身が「個体と液体の境界線」を維持する、完璧な温泉卵。
漂う湯気と肉の脂の香りに、ベアトリーチェの鼻がかすかに動いた。彼女は気づいていない。自分が半歩、前に出ていたことに。
「……どうぞ」
シュウが器を差し出す。
「……結構ですわ。道端の焚き火料理など、わたくしの口には——」
言いながら、彼女の視線は丼の中央に釘付けになっていた。黄身が、揺れていた。ぷるり、と。まるで今にも溢れ出しそうな、完璧な張力で。
ベアトリーチェの様子を見て、シュウはもう一度薦めた。
「是非」
ベアトリーチェは扇子を握り直した。
「……一口だけですわ。評価してあげるというだけで、決して——」
箸を取る。小さく、ほんの一口分だけ掬う。口に運ぶ。
瞬間、彼女の動きが止まった。
「…………」
猪の猛々しい脂を、温泉卵のまろやかさが飼い慣らすように包み込んでいた。熱と、柔らかさと、じわりと広がるコクが、喉の奥まで静かに落ちていく。
「……っ。な、なんですの、これ……」
声が、漏れた。意図せず。
しかしベアトリーチェは、扇子を素早く顔の前に広げた。立て直す。まだ立て直せる。
「……ま、まぐれですわ」と彼女は言った。「温度管理など、王宮の職人なら当然できること。これ一品で証明になどなりませんわ。……もし本当に価値があるというなら、もう一品見せてみなさい」
シュウは少し間を置いた。それから、静かに次の器に手を伸ばした。
---
茹でたての熱い麺に、削った硬質チーズと黒胡椒を和えたものを器に盛り、その中央に二つ目の温泉卵を乗せた。
「混ぜてください。麺の熱で、卵がソースになります」
「卵を……ソースに?」ベアトリーチェが眉をひそめた。「生煮えの白身など、不浄でしょう。こんなものを混ぜたところで——」
気がつけば、箸が動いていた。
脳が命令を出す前に、手が期待していた。黄身が崩れ、麺の熱を纏いながら、とろりとした黄金のソースへと姿を変えていく。チーズと溶け合い、黒胡椒の刺激を柔らかく包みながら、麺の一本一本に絡みついていく。
「あ……っ」
一口すすった瞬間、ベアトリーチェの肩が揺れた。卵が、熱の中でソースに変わっていた。王宮のどんな技巧も使わず、ただ温度と時間だけが生み出した、なめらかな感触。
「体が、熱くなって……止まりませんの……っ!」
器が、また空になった。
ベアトリーチェは口元を扇子で隠した。隠しながら、小さく息を整えた。
「……ま、まだ足りませんわ」と彼女は言った。声が、わずかに上ずっていた。「二品程度で分かったような顔をしないでくださいませ。あと一品、見せてみなさい。そこまで自信があるというなら」
エルナが隣でそっとシュウの袖を引いた。
「……あの、シュウ様。あれ、自分から望んでいますわよね?」
「そうですね」
「……意地を張る方向が完全に間違っていますわ」
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仕上げに、軽く炙ったパンに蜂蜜を滴らせ、三つ目の温泉卵を乗せた。
「最後です」
「……ふん。これで終わりなら、とっとと——」
一口食べた瞬間、ベアトリーチェの瞳から最後の理性が失われた。
「……っ! 蜂蜜の鋭い甘さを、卵のまろやかさが優しく包み込み……熱いパンと、少しだけ冷めた卵の温度差が……脳を、直接かき回すようですわ……。あぁ、もう……駄目……っ!」
ベアトリーチェの膝が折れ、大地の土に高価なドレスが汚れるのも構わず、崩れ落ちた。乱れた吐息を漏らし、虚空を見つめるその顔は、もはや公爵令嬢の威厳など微塵もない。三つの器は、全て空だった。
「わたくしは……わたくしが食べてきた『高貴な卵』は……。お湯を入れて放置しただけの、この箱に……っ。しかも……自分から、もっと見せろと……言って……っ」
誇り高き令嬢の顔は、屈辱と、それを上書きする圧倒的な食の快楽と、そして自業自得の自覚によって、溶けていた。
「ベアトリーチェ。熟練の技も、魔法も素晴らしいものだ。ただ、計算された物理法則だってそれに劣るものではない」
シュウは、地に伏したまま虚空を見つめているベアトリーチェを一瞥した。
エルナが隣で、その様子をしばらく黙って見ていた。それから、小さく言った。
「……シュウ様。この人、また来ますわよ、きっと」
「そうかもしれませんね」
シュウはそう言って、荷物をまとめ始めた。
「この国はまだ知らない。100円の本当の価値を。だけど、最後には知らしめてみせる」
面白かったら、本編も是非よろしくお願いします!
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