第9話 少しずつ広がる穴
放課後。
僕はまた、あの不気味な山小屋のような受付がある、墓場ダンジョンの入口に来ていた。
周囲を木々に囲まれた薄暗い林の中、スマートフォンの液晶画面だけが青白く僕の顔を照らしている。
画面に表示されているのは、最新のアップデートが施された探索者専用の地図アプリだ。
「……便利な時代だよな、本当に」
独り言が、冷えた空気に小さく溶ける。
アプリ上には、昨日まで僕が歩いた軌跡に加えて、他の探索者たちが共有した最新の階層マップがレイヤーとして重ねられていた。
いくつかの通路には、吹き出しのような小さなコメントまで付いている。
『この付近はゴーストの密集地帯。囲まれ注意』
『北東の行き止まり、罠あり。低ランクは回避推奨』
『第二層への階段付近、少し強い個体の目撃情報あり』
ネットにリアルタイムで上がっている情報を、誰かが善意……あるいは承認欲求のために書き込んだものだろう。
今の僕にとっては、これ以上ない【攻略本】だ。
僕は画面を二本指でピンチアウトし、さらに詳細な階層図を拡大する。
「……狙うのは、ここか」
表示されているのは、昨日の探索では足を踏み入れなかった、さらに奥へと続く通路。
そして、第一層の最深部、少し下の階層へとつながる下り階段のルートだ。
入り口付近の上の階層でも、ゴーストの数は十分すぎるほどだった。
けれど口コミを見る限り、下の方に行けば行くほど、もう少し密度の高い、つまりは「強い」個体が出るらしい。
僕はスマホをポケットにしまい、サイドを短く刈り上げた頭を一度撫でてから、眼鏡の位置を直した。
「まあ、吸えるかどうか試してみる価値はあるな」
そう呟いて、僕は小屋の奥にあるゲートをくぐり、深い霧の奥へと歩き出した。
✳✳✳✳✳
冷たく湿った空気の中、緩やかな傾斜の階段を降りると、劇的に空気が変わった。
相変わらず視界を遮る霧は濃い。
けれど、肌に刺さるような冷たさが一段と増し、空気そのものが重く澱んでいるように感じる。
崩れた墓石の影から、ゆらりと、今までよりも一回り大きな影が揺れた。
ゴーストだ。
けれど、昨日まで入り口付近で吸っていた連中とは少し様子が違う。
半透明の輪郭が以前よりもはっきりとしていて、中心部に核のような、ぼんやりとした光の塊が透けて見える。
僕は逃がさないよう、素早く右手を前に出した。
掌の奥底に、すべてを無に帰す漆黒の穴を最短距離で形成するイメージ。
【シュルッ!!】
ゴーストの体が螺旋を描いて細く伸び、悲鳴を上げる暇もなく掌へと吸い込まれていった。
「……いける。問題ないな」
手応えは、上の階層の個体とそれほど変わらない。
吸い込みの途中で抵抗を感じることもなく、まるで水溜まりをモップで拭い去るような手軽さだ。
僕はそのまま通路を奥へ進みながら、視界に入るゴーストを次々に、効率的に処理していく。
【シュルッ!】
【シュルルッ!】
霧の中で揺らめく青白い影が、一掃されるたびに空間の透明度がわずかに上がる気がする。
そして、数分後。
ドクン、と心臓の裏側が重く波打った。
「……来た。やっぱり、質が違う」
例の、タイムラグを置いてやってくる成長の感覚だ。
胸の奥底から広がる濃密な熱。
それが血管を伝い、腕の先や足の指先まで、ゆっくりと、けれど力強く流れ込んでいく。
僕は軽く右の拳を握り、そのパワーの余韻を確かめた。
昨日よりも、感覚が明らかに鮮明だ。
個体数が多かったせいか、あるいは一つ一つのゴーストの密度が高かったせいか。
どちらにせよ、自分の中の【器】が拡張されていくのがはっきりと分かった。
✳✳✳✳✳
霧の奥から、また別の影が現れた。
今度は二体、左右から挟み込むように近づいてくる。
僕は両方の個体を視界に収め、その中間地点に向けて手をかざした。
掌の穴を、一点集中ではなく、扇状に広げるようなイメージで展開する。
「……まとめて、デリート」
【シュルルルルッ!!】
二体のゴーストが、巨大な目に見えない渦に巻き込まれたかのように一気に引き寄せられた。
そして、ぶつかり合うようにして掌へと吸い込まれ、消滅する。
「……お」
僕は少しだけ驚き、自分の右手を見つめた。
今までよりも、明らかに吸い込む力が強くなっている。
それに、今。
一瞬だけ展開された穴の「直径」が、以前よりもわずかに大きかった気がする。
掌の皮膚自体に変化はない。
もちろん、実際に肉体に穴が開いているわけでもない。
けれど、空間に干渉できる穴のサイズが、僕の成長に合わせて確実に拡張されている。
試しに、少し離れた場所に漂っていた別のゴーストに掌を向けてみる。
【シュルッ!】
「……やっぱりだ。射程も、広さも変わってる」
吸い込みがよりスムーズになり、空間を削り取る範囲がミリ単位で大きくなっている。
僕は少し考えを巡らせ、独り言を呟いた。
「……これ、もしかして」
吸い込む力が強くなっているだけじゃない。
穴そのものが、僕のレベルアップ(と勝手に呼んでいるもの)に合わせて成長し、大きくなっているんじゃないか?
もしそうなら、この先に待っている可能性は……。
「……ネズミとか、ウサギとか。実体のある小動物サイズなら、もう吸えるようになるかもしれない」
今まで吸い込んできたのは、液体に近いスライムか、気体に近いゴースト。
どちらも「形が曖昧」なモンスターだった。
けれど、もしこの穴がさらに大きくなれば。
固形物、それも骨や肉を持つ生物であっても、空間ごと削り取って消し去ることができるようになるはずだ。
僕は、まだ見ぬ次のステップに、胸が激しく高鳴るのを感じた。
まだ試したことはない。
けれど、もし本当に「実体」を吸い込めるようになったら。
僕の探索者としての立ち位置は、今の「掃除屋」から、もっと別の何かに進化するのではないか。
「……近いうちに、実体を持つモンスターが出る場所で試してみるか」
僕はそう呟いて、再び霧の深い通路を歩き出した。
霧の中では、まだたくさんの青白い影が漂っている。
今はまだ、この効率的な「墓場の掃除」を続けるのが一番の近道だ。
右手を向ける。
【シュルッ!】
また一体、僕の中へと消えていく。
体の奥底に、また少しずつ、重厚な熱が溜まっていく感覚があった。
僕は霧の奥へと進みながら、ぼんやりと空想に耽る。
もし、この掌の穴が、もっと、もっと大きくなっていったら。
僕は一体、最終的にどこまで吸い込めるようになるんだろうか。
人か。
車か。
あるいは、このダンジョンそのものか。
そんな底知れない予感に身を震わせながら、僕はまた次の獲物に向けて手を伸ばした。
自らの内に広がる無限の空腹を自覚し始めた少年。
その名は、宮村洸。




