第7話 不人気ダンジョンの効率狩り
視界を遮るほどに濃い霧が立ちこめる墓場の通路を、僕はゆっくりと歩いていた。
どこまでも続く、ひんやりとした静寂。
時折、パキリと乾いた音を立てて足元の枯れ枝が折れる。
左右には、長い年月を経て角が丸くなった欠けた墓石や、今にも倒れそうなほど傾いた木の杭が等間隔に並んでいる。
足元を這い回る白い靄は、まるで生き物のように僕の足首にまとわりついてくる。
その異様な光景の中を、青白い影がふわふわと、重力を忘れたかのように漂っている。
ゴーストだ。
「……いた。まずは一体目」
僕の体温に反応したのか、一体のゴーストがこちらに気付き、ゆっくりと距離を詰めてくる。
足音もなく、ただ滑るように近づいてくるその姿は、初見なら背筋が凍るほど不気味だろう。
普通の探索者なら、ここで聖水に浸した銀剣を構えたり、魔力を込めた防具の紐を締め直したりするはずだ。
でも、僕は違う。
右手を軽く、無造作に前に出した。
サイドを短く刈り上げたツーブロックの境目を冷たい風が通り過ぎる。
掌の中心に、すべてを呑み込む漆黒の穴を作るイメージ。
昨日よりも、少しだけ鋭く。
この空間そのものを、ピンポイントで削り取るような鋭利な感覚。
次の瞬間。
【シュルルッ!!】
短い風切り音と共に、ゴーストの半透明な体が糸のように細く引き絞られ、掌へと吸い込まれて消えた。
あとに残ったのは、かき乱された霧の残像だけだ。
墓場には、また元通りの静かな霧だけが漂っている。
「……やっぱり、いける」
僕は小さく呟き、掌を閉じた。
吸い込んだ直後の今、僕の体の中には、まだ何の変化も起きていない。
昨日もそうだった。
スライムを何体も吸い込んだ時、その場ですぐに力がみなぎるようなことはなかった。
しばらくダンジョンを歩き回り、緊張が少し解け始めた数分後。
忘れた頃にやってくる、体の奥がじんわりと温かくなるあの独特の感覚。
あれがたぶん、僕という存在の器が、モンスターを取り込んで強くなる瞬間なんだ。
だから、今はまだ、何も起きなくていい。
この【タイムラグ】こそが、僕の能力の性質なのだと理解しつつある。
「……あとで、まとめて来るんだよな。あの熱が」
僕は眼鏡のブリッジを押し上げ、霧のさらに奥を凝視した。
青白い影が、視界の端々でまたいくつも漂っているのが見える。
このダンジョン、レビューで『ゴーストが多すぎて嫌になる』と書かれていた理由がよく分かる。
普通の武器では仕留めるのに手間がかかる敵が、これだけ密集していれば、探索者にとっては悪夢でしかないだろう。
でも。
僕にとっては違う。
目の前に広がるこの光景は、全部、僕を成長させるための「餌」に見えていた。
右手を軽く振る。
【シュルッ!】
一体。
【シュルルッ!】
二体。
【シュルッ!】
三体。
ゴーストたちは抵抗らしい抵抗も見せず、次々と僕の掌へと吸い込まれていく。
実体がない分、スライムよりずっと「軽い」。
まるで、空気清浄機で薄い煙を吸い込んでいるような感覚だ。
吸い込みの邪魔になる質量がほとんどないため、一瞬で処理が終わる。
「……これ以上ないくらい、相性がいいな」
歩く。
吸う。
歩く。
吸う。
気付けば、それは探索というより、単調な「作業」に近いものになっていた。
僕は静かに、迷路のような墓場の通路を曲がった。
すると、視界が少し開けた広場のような場所に出た。
そこには――。
「うわ……すごいな、これ」
ゴーストが群れていた。
十体、いや、それ以上か。
霧の中に揺れる青白い影が、まるで無数の提灯のように密集している。
普通の探索者なら、即座に踵を返して逃げ出すか、全滅を覚悟する光景だろう。
けれど、僕は足を止めて少しだけ考えた。
そして、確信を持って右手をゆっくりと持ち上げた。
「……まとめて吸えたり、するかな」
試してみる価値はある。
掌の穴を、今までよりも強く、より広範囲にイメージする。
より深く。
より鋭く。
この空間の座標そのものを、根こそぎ引き裂くように。
その瞬間。
【ゴオオオオッ!!!】
轟音と共に、墓場の空気が一気に収束を始めた。
停滞していた霧が激流となって流れ込み、その中心にいたゴーストたちが一斉に体を引きずられる。
【シュルルルルルルルルルッ!!】
十体以上の青白い影が、巨大な糸束のように圧縮され、悲鳴を上げる暇もなく掌の穴へと吸い込まれていった。
静寂。
再び、霧だけがゆっくりと流れる静かな墓場に戻る。
「…………」
僕はその場で、呆然と自分の手を見つめた。
今のは明らかに、今までとは次元が違った。
一撃で十体以上を無に帰した感覚。
でも、やはり僕の体の中には、まだ何の反応も起きていない。
心臓の鼓動も、体温も、吸い込む前と変わらないままだ。
「まあ……今は、こうだよな」
僕は軽く肩をすくめた。
変化はいつも、忘れた頃に、少し遅れてやってくる。
「あとで、どれくらいの熱が来るんだろ……」
ゴースト一体分でもそれなりの熱量だったのに、今みたいに十体まとめて吸い込んだら、一体どうなるんだろう。
少しの不安と、それを上回るほどの期待が、胸の中で小さく火花を散らす。
その時だった。
背後の通路の奥から、話し声が漏れ聞こえてきた。
「……あれ? おかしいな」
野太い男の声。探索者だ。
「この辺、もっとゴーストが密集してる区画じゃなかったか?」
「地図のデータだとそうだったはずだがな……。おい、スカスカじゃねえか」
二人組の探索者が現れた。
革の鎧や頑丈そうな防具を身につけた、ベテラン風の男たちだ。
「……なんか少なすぎねえか?」
一人が不気味がるように周囲を見回す。
「ギルドの巡回記録だと、ここは結構湧くはずなんだが。誰か先に抜けたのか?」
「いや、あのおっさんの小屋に他に誰かいたか? まあ、こういう日もあるか」
「だな。気味が悪いが、進むぞ」
二人は短く言葉を交わすと、僕の存在に気づくこともなく(あるいは眼中の外だったのか)、そのまま通路の奥へと消えていった。
僕は霧の中で、ぼんやりとその背中を見送った。
特に声をかけて説明する理由もない。
ダンジョンの中で他の探索者とすれ違うなんて、珍しいことでもないからだ。
やがて彼らの足音が遠ざかり、墓場にはまた、僕一人の静かな霧が戻ってきた。
僕は少し斜めに傾いた眼鏡を押し上げる。
霧の奥には、まだ淡く光る青白い影がいくつか漂っている。
「……よし。もう少し、奥まで行ってみよう」
右手を前に出す。
掌の先に、静かに、けれど貪欲な暗黒の穴が開く。
このダンジョン。
ネットのレビューは散々だったし、他の探索者には不評みたいだけど――。
僕にとっては、これ以上ないほど「効率的」な、最高の成長の場になりそうだ。
誰もいなくなった墓場で、独り霧を吸い込み続ける少年。
その名は、宮村洸。




