第2話 スライムが消えた日
「え……消えた?」
帰宅途中の薄暗い道。
僕は、自分の掌に開いた『穴』を、まるで未知のUMAでも見るような目で見つめていた。
指先に残っているのは、ぷるんとした、ある意味では美味しそうに見える青いアイツを彷彿とさせる感触。
粘り気があって、それでいて弾力に富んだ、あの無機質なゼリーの余韻だ。
偶然。
そう、あれは間違いなく、交通事故的なラッキー
……いや、アンラッキーだったはずだ。
けれど、掌に開いた漆黒の穴は、確かにスライムを『シュゴォッ』という海外製掃除機顔負けの快音と共に飲み込んだ。
塵一つ残さず、この世界から不法投棄物として処理してしまったのだ。
周囲を見渡すと、通りかかった人たちが足を止め、一様に僕を見てざわついている。
家路を急ぐ社畜オーラ全開の会社員も、特売のタイムセールに命をかける主婦も。
誰もが足を止め、スマホを構え、僕の手元を凝視していた。
『な、なんだ今の!? 最新のAR広告か?』
『掃除能力……?
嘘だろ、あんなダイレクト・アタックでモンスターが消えたぞ!』
ひそひそと交わされる、困惑と少しの興奮。
小さな子どもが僕の指をさして、「ママ、あの人掃除機なの?」と無邪気すぎる質問を投げている。
僕は何も答えられず、ただ掌を強く握りしめたまま、その場に固まっていた。
アスファルトから伝わる冷気が、妙に現実に引き戻してくれる。
ドクドクと、耳元で心臓の音がうるさい。
でも、不思議と嫌な気分じゃない。
むしろ、長年使い古したフィルターを交換した時のような、妙なスッキリ感がある。
頭の中では、「僕、今世紀最大の掃除をやらかした?」という問いが、ループ再生されている。
信じられない。けれど掌はまだ、あの異質な『ぷるん』を記憶している。
恐る恐る、ゆっくりと指を開いてみた。
手の中を見る。そこには、先ほどまで蠢いていたゼリー状の塊など、跡形もなくなっていた。
粘液の一滴すら、僕の安物の制服を汚してはいない。
「……吸ったのか? 僕……。」
震える声が、夜の空気に溶けていく。
✳✳✳✳✳
家に帰る途中、僕は何度も足を止め、冷たいコンクリートの壁に寄りかかった。
肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、乱れた呼吸を整えようとする。
昨日までの「掃除」の能力とは、明らかに手応えが違う。
消しゴムのカスを吸って「おー」なんて言っていた、あの平和な日常とは違う。
一つの意志を持ち、僕に向かってダイブしてきたモンスターを、一瞬で「なかったこと」にする快感。
しかし、僕の頭はまだ、目の前で起きた超展開を拒むような混乱でいっぱいだった。
「スライムだけ……なら? 」
僕は、小さな声でつぶやいた。
昨日までは、ただのゴミを吸い込むだけの、お掃除ボランティア推奨能力だと思っていた。
履歴書の特技欄に書くのも憚られる、落ちこぼれの能力。
だが、今は掌の奥にスライムを吸い込んだ時のあの重みが、確かに沈殿していた。
それは、僕の人生という名のゴミ溜めを一気にクリーンにしてくれるかもしれない、恐ろしいほどの可能性だった。
✳✳✳✳✳
その夜。
家で夕食を囲んでいても、僕の意識はどこか異世界へとログアウトしていた。
カチャカチャと響く箸の音だけが、不自然にリズムを刻んでいる。
テレビから流れるどうでもいい芸能ニュースも、両親が「今日は唐揚げを少し揚げすぎた」なんて話している声も。
今の僕にとっては、異世界の言語を聞いているような気分だ。
返事は、三文字以内の上の空。
「……洸、あんた大丈夫?
モンスターに魂でも吸い込まれたような顔してるわよ」
母さんの鋭すぎるツッコミに、僕は慌てて首を振った。
今、僕が逆に「吸い込む側」に回ったなんて言ったら、どんな顔をされるだろう。
けれど、心の奥底。
暗い部屋の隅に灯されたゲーミングキーボードのLEDのように、ほんの少しだけ、カラフルな希望が芽生えていた。
「……スライムなら、いける。
これ、いけるやつだ」
自室に戻り、ベッドにダイブして天井を見つめる。
その可能性を反芻するたび、自分でも気づかないうちにニヤけてしまう。
特別な剣も、伝説の杖も、親譲りのチート能力も持たない僕。
クラスで「背景」扱いの僕。
けれど、この小さな穴さえあれば。
あのダンジョンから湧いてくる不法投棄モンスターたちを、一網打尽にできるかもしれない――。
期待は、炭酸飲料のようにシュワシュワと全身に回っていく。
ちょっとだけ、自分が物語の主人公になったような、そんなポップな錯覚。
それでも、拭いきれないビビりな自分が、背筋を冷たく撫でた。
もし、吸引力が足りなくて詰まったら?
そんな「掃除機あるある」的な不安を抱えたまま、僕は深い眠りへと落ちていった。
✳✳✳✳✳
翌日。
学校の校門をくぐった瞬間、僕を包む空気の解像度が上がった気がした。
昨日、路上で僕がスライムを「バキューム」した光景。
それがSNSで「【速報】掃除くん、まさかの吸引力
」的なノリで拡散されたのだろうか。
昇降口へ向かう間も、廊下を歩く間も。
クラスメイトたちの視線が、まるで新発売のガジェットを見るような熱を帯びて集まっている。
『なあ、聞いたか?』
『掃除くん、マジでスライム消してたぜ。吸引力凄すぎwww』
投げかけられる言葉には、これまでの嘲笑に、微かな「ご機嫌取り」が混じっていた。
これまでは背景だったのに、いきなり注目されている気分だ。
軽くからかわれはするが、僕はそれを受け流し、鼻を鳴らす。
いつものように椅子に座り、窓の外を眺めた。
周囲の喧騒は、もはやBGMだ。
彼らが何を言おうと、僕の手の中に深淵がある事実は変わらない。
僕の頭の中は、昨日のあの瞬間の出来事で、パンパンに膨れ上がっている。
教科書を広げるフリをして、右手の掌をそっと確認した。
(でも、スライムだけ……なら……。
キングサイズもいけるかな?)
希望の火が、小さく、けれどネオンサインのように激しく、胸の奥で点滅し続けていた。
それは、冴えない僕の日常を照らす、唯一の光源だった。
✳✳✳✳✳
放課後。
部活の掛け声が「青春!」って感じで響く中、僕は一人で校門を出た。
オレンジ色の夕陽が、まるでステージのスポットライトのように僕を照らす。
僕は昨日と同じ場所に立ち、自分の掌に意識を全集中させた。
雑音をカットし、掌の「吸い込み口」にだけ神経を注ぐ。
小さな穴が、昨日よりも少しだけ、その存在感を主張しているような気がした。
まるで見えないブラックホールが、そこに居候を始めたかのように。
スライムを吸い込む。
あの、異次元にデリートするような爽快感。
その感触を思い出すだけで、ワクワクと疼く。
「これ……商売にできるレベルかも」
誰に聞かせるでもない冗談が、つい口をついて出た。
けれど、僕にとっては違う。
これは、冴えない凡人が世界をクリーンにする、新しい日常のキックオフだ。
誰に理解されなくてもいい。僕の掌だけが、この「吸引力」の真実を知っていれば。
夕暮れの森の端を通り過ぎる時。
僕は、フェンスの向こう側に広がる不気味な緑を見つめ、昨日を思い出していた。
フェンスの向こう。
そこは、立ち入り禁止のヤバいエリア。
でも今の僕には、そこが宝の山……いや、掃除しがいのあるゴミ屋敷に見えていた。
「……よし、ちょっとだけ、大掃除してみるか」
胸の奥で、期待がヘリウムガスを吸ったみたいに膨らむ。
恐怖を上回るほどのワクワクが、僕の足を一歩前へ進ませた。
僕の手のひらに開いた、この小さな穴。
それだけが、僕の新しい日常の開幕を、確かに告げている。
僕はゆっくりと、昨日よりも軽い足取りで歩き出す。
いつもなら俯いて「石ころ」を探すこの道を、今は「獲物」を探して。
掌をきつく握り締め、不敵な笑みを隠そうともせず。
未知の力。
まだ見ぬ可能性。
それらに胸を躍らせ、僕は夜の帷が下りる街へと、ポップに、軽やかに溶け込んでいった。
宮村洸の、本気の「大掃除」は、まだ始まったばかりだ。
作者です。
作者はメンタルが雑魚なので、批判はマイルドにお願いします。
作者は単純ですので、評価していただけると創作意欲が湧き上がりまくります。
続きよんでやってもいいよ。って方は、何らかのリアクションしていただけると凄く嬉しいです。




