第11話 えっ、ちょっ、長っ……!
『言ってるでしょ! あれはまだ生きていたの! 聖域を不潔なまま放置して逃がすなんて、エルフの誇りが許さないわ!』
「いやいやいや! 無茶言わないでくれよ!」
僕は、地面にぽっかりと開いた漆黒の穴から、首だけを突き出した状態で必死に反論していた。
目の前には、絵画から抜け出してきたような、透き通るような肌と金髪を持つ少女。
しかしその美貌は今、怒りで眉間に深い皺が刻まれている。
彼女が細い指先で激しく指差しているのは、ついさっき僕が「ダンジョン側」から吸い込み、この「穴の向こう側」へと勢いよく排出されてしまった、あの不細工なネズミ型モンスターの死骸だ。
「僕は……ダンジョンで、邪魔なモンスターを吸い込んだだけなんだ。そっちに繋がってるとか、そんな事情なんてこれっぽっちも知らないし、コントロールもできないんだよ!」
『知らないじゃ済まないのよ! 私の大事な聖域を汚しておいて、その態度はなんなの!? あんた、反省の色が全く見えないわね!』
少女は深緑のローブを風になびかせ、細い腕を組んで、上から僕を射抜くような視線で睨みつけてくる。
周囲を見渡せば(といっても穴から首を出しているだけだが)、そこはどこまでも深い緑が続き、幻想的な光の粒子が舞う静謐な森の中だった。
すぐ傍らには、長い年月を経て苔むした、神聖な気配を纏う石造りの祭壇らしき建物がある。
その手前の草むらに、現実の影をそのまま切り抜いたような、直径数十センチの黒い穴。
そこから、黒縁眼鏡をかけ、サイドを短く刈り上げた現代の高校生の頭だけが突き出ているのだ。
客観的に、そして冷静に考えて、これほどまでに異常でシュールな光景が他にあるだろうか。
『そもそも、あんた誰よ! 精霊の使いにしては顔が平たいし、魔族にしては恐ろしさが足りないし、ただの迷い人にしては頭の形が奇妙すぎるわ!』
「それ、こっちのセリフなんだけど。その耳、どう見ても特殊メイクじゃないよな。本物か?」
『特殊……何? よく分からない言葉を使わないでちょうだい。ここは由緒正しきエルフの聖なる森よ!』
少女はふわりとした金髪を揺らし、これでもかというほど誇らしげに胸を張った。
『勝手に穴なんて開けていい場所じゃないの! ましてやそんな、奇妙な頭だけをひょこひょこ出して、精霊たちを驚かせていい場所でもないわ!』
「いや、だから知らないって。わざとやったわけじゃないんだ、不可抗力だよ」
僕は穴の中で窮屈に身をよじりながら、食い気味に言い返した。
「僕はいつものように、ダンジョンでお掃除……モンスターの駆除をしてたんだ。掌の穴で一気に吸い込んでたら体当たりされて、バランスを崩して転んだ。それで、気づいたら地面に顔を突っ込んで、ここに出てたんだよ」
『ダンジョン?』
少女は整った眉をぴくりと動かし、これ以上ないほど不審そうな、怪訝な表情を浮かべた。
『何よ、そのダンジョンって。魔導書にも古文書にも、そんな不吉な響きの言葉、載っていなかったわ』
「……あれ?」
今度は僕が首をかしげる番だった。
現代社会において、ダンジョンの存在を知らないなんて、よほどの世捨て人か、あるいは本当に住む世界が違うのか。
「ダンジョンを知らないのか? 突如として街中に現れて、放っておくとモンスターが溢れ出す、あの危険な迷宮のことだよ。探索者が潜って、素材を剥ぎ取ったりする……」
『知らないわよ。そんな禍々しい場所、この村の近く、どこを探したって存在しないわ。あんた、さっきからデタラメばかり言っているんじゃないでしょうね?
それとも魔窟の事を言ってるの?』
「マジかよ……。常識が通用しないのか」
二人の間に、冷たく乾いた沈黙が流れた。
森を吹き抜ける風が、僕のツーブロックの刈り上げ部分を優しく撫で、頭皮を冷やす。
どうやら、話が決定的に噛み合わない原因は、住んでいる次元そのものが異なっているという、笑えない事実にあるらしい。
やがて、少女はふん、と可愛らしく鼻を鳴らして、僕を見下ろすように顎を引いた。
『……まぁ、いいわ。異界の迷い人か、あるいは出来損ないの召喚術の残滓か何かでしょうね。精霊の導きにしては、随分と冴えない外見だけれど』
『まず、名乗りなさい』
「ん?」
『名前よ、名前! 私たちの世界では、まず自分という存在を定義し、開示するのが最低限の礼儀なの。あんた、自分の名前くらいは覚えているわよね?』
「あー、そういうやつか。分かったよ、礼儀には礼儀で返さないとな」
僕は穴の中で、首の筋を違えないように慎重に頷いた。
「宮村コウ。漢字で書くと【洸】。さんずいに光るって書いて、コウ。コウって呼んでいいよ」
短く、いつも通りの自己紹介を済ませると、少女は翡翠のように澄んだ瞳を少しだけ丸くして、瞬きを繰り返した。
『……それだけ?』
「それだけ。苗字が宮村で、名前がコウ。至って普通、平均的な名前だろ」
『信じられない……短すぎるわ。下層民の隠語か、あるいは道端に転がっている石ころの識別番号か何かかしら?』
「失礼なやつだな。そっちこそ、そんなに立派な名前があるのかよ」
僕が軽く挑発するように聞き返すと、少女は待ってましたと言わんばかりに、凛とした仕草で背筋を伸ばした。
ローブの裾を整え、手に持った木の杖を静かに地面に突く。
まるでこれから、世界を救うための祝詞でも唱えるかのような、過剰なまでの厳かさで彼女は唇を開いた。
『当然。高潔なる森の守護者であり、万物の精霊に祝福された血統を持つ者として、我が名は――』
僕は最初、適当に相槌を打ちながら聞き流すつもりだった。
せいぜい、何とか・何とか、といった華美なミドルネームが一つ二つくっついている程度だろうと予想していたのだ。
だが、その予想は、少女の口から紡がれた最初の数秒で粉々に打ち砕かれた。
『エルフィナリエル・シルヴァリア・ルミナシア・エルドラシル・フェルディナリア・ミスティル・アルヴェリア・ラティシア・ノルディス・シェルフィーナ・リュミエール・アルカディア・ヴァルキエラ・セレスティア・エル=』
「えっ、ちょ、ちょっと……」
まだ止まらない。
少女の滑らかな舌は、音楽のようなリズムで、しかし呪文のような難解な音節を、途切れることなく次々と紡ぎ出していく。
彼女の表情は真剣そのもので、一音たりとも間違えるまいという執念すら感じる。
『――フローディア・イリスティナ・ラグナフェリア・ノエルシア・リリィヴェール・アストレリア・ミラルディア・セラフィナ・エルミナ・フィオレ・ラティアーナ』
…………。
…………。
一陣の強い風が吹き抜け、周囲の巨木の葉がガサガサと騒がしく音を立てる。
僕は、数秒間、完全に意識を飛ばして固まっていた。
そして、肺に残っていたすべての空気を、力なく吐き出すようにして、ぽつりと呟いた。
「…………えっ?」
少女はやり遂げたという達成感に満ちた、これ以上ないほど誇らしげな、勝ち誇った顔で言い放つ。
『これがエルフの里の名を継ぐ者として当然の、八百万の精霊の加護を証明する、我が真名よ。心して刻みなさい』
「ちょっと待って、待ってくれ」
僕は遮った。
穴から辛うじて自由に動く頭をブンブン激しく振って、彼女の尊大な語りを強引に止めた。
「待って。今の、最初から最後まで、全部」
僕は真顔で、脳内に蓄積された音の情報を整理しようと格闘しながら言った。
「……名前? 一つの固体を識別するための、記号としての名前か?」
『そうよ。一言一句、一音の狂いもなく聞き漏らすことは許されない、私のアイデンティティそのものよ』
少女は、これ以上ないほど自信満々に胸を薄く張る。
僕はしばらく沈黙を守り、自分の脳の記憶容量と、目の前の自称エルフの少女の正気を、天秤にかけてみた。
そして、ゆっくりと天を仰ぐように溜め息を吐き出し、隠しきれない本音を絞り出した。
「えっ、ちょっ……長っ……! 何それ、寿限無かよ! テストの時、名前書くだけで試験時間終わるだろ!」
『ジュゲム? テス……ト? 何よそれ、私の神聖な名前よりも古く、尊い響きを持つ言葉なの!?』
異世界の森のど真ん中で、名前の長さというあまりにも低次元で、しかし回避不能な問題に直面する少年。
その名は、宮村洸。




