第10話 穴の向こうの少女
それから、数日が経過した。
僕はすっかり、この墓場ダンジョンの「常連」として定着していた。
放課後のチャイムが鳴ると同時に校門を抜け、林の奥にあるあの山小屋のような受付を通り、冷たい霧が支配する異空間へと足を踏み入れる。
第二層付近まで深く潜り、青白い影を次々と掌の穴へデリートしていく。
ただ、それだけの単調な繰り返しの毎日だ。
効率は、おそろしく悪くない。
むしろ、効率の塊と言ってもいい。
数を吸い込めば吸い込むほど、あの【熱】は確実に、そしてより深く僕の体へと浸透してくるようになっている。
体は羽が生えたように軽く、視覚や聴覚といった五感も研ぎ澄まされ、動きのキレも増している。
何より、掌の穴から発生する吸引の射程と強度が、日を追うごとにわずかずつ拡張されているのを肌で感じていた。
だけど――。
「……うーん。なんだかな」
僕は立ち込める霧の中で足を止め、腕を組んで独り言を漏らした。
最近、少しだけ、いや、明確に感じ始めている違和感がある。
成長の速度が、目に見えて鈍くなってきているのだ。
ゴーストを吸えば、もちろん強くはなる。体の奥に熱は宿る。
でも、探索を始めたばかりの頃に味わったような、世界がひっくり返るような劇的な変化はもう感じられない。
例えるなら、高レベルになったキャラクターが、初期エリアの雑魚モンスターをいくら倒しても経験値ゲージがミリ単位でしか動かない、あの虚しさに似ている。
もちろん、この現実にレベルなんて数値は存在しない。
僕が自分の頭の中で、勝手にそう定義して納得しているだけだけど。
「……ゴーストも、そろそろ頭打ちってことか」
霧の奥で、未練がましくふわりと揺れた青白い影。
低評価ダンジョンの主、ゴースト。
僕は無造作に右手を向け、意識を集中させた。
【シュルッ!】
抵抗の余地もなく、影はあっさりと吸い込まれて消滅する。
やっぱり、弱い。
効率はいいけれど、一匹あたりの【経験値】の伸びが、今の僕の器に対して小さくなりすぎている。
このまま、ぬるま湯のような場所で作業を続けるより――。
「……そろそろ、別の獲物を試してみるか」
僕は眼鏡のブリッジを押し上げ、決意を固めた。
この墓場ダンジョンは、単なる墓石の羅列だけではない。
入口付近の墓地エリアからさらに奥、地形が複雑に折れ曲がった先には、崩れかけた建物が点在する【廃屋エリア】が存在する。
かつての管理小屋だったのか、あるいは資材倉庫だったのか。
古びた木造の建物が腐敗し、屋根が落ち、半分朽ちたまま異世界の空気に晒されている不気味な場所だ。
そして、その湿った床下や影には、霊体ではない実体を持つモンスターが潜んでいる。
「……ネズミ型、あいつらなら少しは手応えがあるはずだ」
僕は来た道を少し戻り、霧の向こうにぼんやりと浮かび上がる黒いシルエットを見つめた。
朽ちた木の壁。
半分崩落した茅葺きのような屋根。
静止した墓石ばかりだった景色の中で、そこだけが妙に生々しい生活感の残骸を漂わせている。
そこが、墓場ダンジョンの裏側、廃屋エリアだった。
✳✳✳✳✳
エリアに一歩足を踏み入れた瞬間だった。
カサカサッ……!
腐った床板の隙間を、何かが高速で走り抜ける音が鼓膜を叩く。
「……いた」
暗がりに光る、不吉な赤い二つの目。
灰色のゴワついた毛並みに覆われた体は、普通のドブネズミよりも一回り、いや二回りは大きい。
ダンジョンではポピュラーな、実体を持つネズミ型モンスターだ。
僕はゆっくりと、実験を行うような慎重さで右手を前に出した。
掌の奥底に、現実を削り取る黒い穴を、より密度濃くイメージする。
「……いけるか? 質量のある相手でも」
【シュルッ!!】
一瞬、空間が歪んだ。
ネズミ型モンスターの巨体が、抵抗する間もなく中心へと引き寄せられる。
鋭い爪で床を必死に引っ掻き、ギャッという短い悲鳴を上げるが、それも一瞬。
逃れることのできない吸引力に囚われ、ネズミは空間ごと削り取られるように僕の掌へと消えていった。
後に残ったのは、ネズミがいた場所の床板が、円形に綺麗に削り取られた痕跡だけだ。
「……おお、成功だ」
思わず感嘆の声が漏れた。
実体のある、肉と骨を持つモンスターであっても、僕の能力は問題なく機能した。
しかも、思っていたよりもずっと容易く、抵抗を感じさせないほどに。
スライム、ゴースト、そして今、ネズミを攻略した。
吸い込める対象の硬度と質量が増している。
僕の能力が、着実に次のステージへと進化している確かな証拠だった。
その時だった。
ドンッ!!!
「うわっ!?」
背中に凄まじい衝撃が走った。
不意打ちだ。
廃屋の影に潜んでいた、もう一体のネズミ型モンスター。
そいつが低く鋭い跳躍を見せ、僕の背後から体当たりを仕掛けてきたらしい。
不意を突かれた僕は、バランスを大きく崩した。
「ちょ、待っ――」
足がもつれ、視界が激しく回転する。
転倒を回避しようと、反射的に右手を地面に向けて突こうとした。
不運だったのは、さっきの吸引のために展開していた【穴】が、まだ完全には閉じていなかったことだ。
僕が倒れ込む先。
展開されたままの掌の穴が、僕の視界と重なるように地面へと押し付けられ――。
ズボッ!!
「……え?」
何かが、決定的に抜けた感覚がした。
次の瞬間、視界を覆っていた不気味な霧と、腐敗した墓場ダンジョンの光景が跡形もなく消え去った。
代わりに見えたのは。
突き抜けるような、どこまでも澄み渡った青い空。
そして、色鮮やかな緑に囲まれた、生命力溢れる深い森だった。
「……は?」
思考が完全に凍結する。
そこは、霧のダンジョンではない。
頬を撫でるのは心地よい本物の風で、耳に届くのは木々の葉が擦れ合う自然の音だ。
そして――。
少し離れた茂みの向こうから、一人の少女の叫び声が響いてきた。
『もうっ、なんでまた増えてるのよ。
今度は何!?
なんなの?この不潔なネズミは!!』
高く、透き通った声。
けれど、そこには明らかな苛立ちが混じっている。
視線を向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
眩いばかりの金色の髪。
人間よりも明らかに長く、尖った耳。
そして、森の風景に溶け込むような深緑のローブ。
どこからどう見ても、ファンタジーの挿絵から飛び出してきたような――エルフの少女だ。
少女は、ついさっき僕がダンジョン側で吸い込んだはずの、あのネズミ型モンスターに向かって、鋭い動作で手を突き出した。
『《ウィンドランス》!』
バンッ!!
空気が爆発し、透明な風の槍が放たれる。
ネズミ型モンスターは、その一撃をまともに受け、悲鳴を上げる暇もなく吹き飛んだ。
地面に激突し、動かなくなったネズミの死骸。
その瞬間。
ドクン、と僕の体の芯が、かつてないほど激しく熱を帯びた。
「……え?」
僕が倒したわけではない。
けれど、穴の向こう側でネズミが仕留められた瞬間、僕の体には確かな経験値……あの熱が流れ込んできたのだ。
僕は呆然としたまま、その光景を穴越しに見つめ続けていた。
すると、エルフの少女がゆっくりと、不審な気配を感じたようにこちらを振り向いた。
そして。
僕と彼女の目が、真っ正面から合った。
『……は?』
少女の綺麗な口元から、間の抜けた声が漏れる。
日本の、市内の、冴えない林の中のダンジョン。
その深淵に空いた小さな穴の向こうで。
異世界の森に生きるエルフの少女と、現代の探索者である僕は――。
運命というにはあまりに無作法な形で、初めて顔を合わせた。
ダンジョンの境界を越え、異世界の風を掌に受けた少年。
その名は、宮村洸。




