出会い
二十年近く通っている美容院があります。
月末になると、ふと思い出す出来事です。
僕はもうずっと前から、月末には必ず美容院に行くことにしている。
通っているのは夫婦二人でやっている小さな店だ。居心地がよくて、気がつけば二十年近く通っている。
ただし問題がある。
腕はいいのだが、ちょっとおしゃべりなのだ。
しかも僕が話したい話題は大抵させてもらえない。会話が盛り上がっていても、僕が想定外の意見を言うと急に機嫌を悪くして黙り込む。扱いにくい人だった。
それでも毎回、僕のイメージ通りに仕上げてくる。
美容師とはこういうものなのだろうか。職人というべきか、あるいはアーティストというべきなのか。
ある月末の日のことだ。
どういう流れだったか忘れたが、「天然物と養殖物の魚の味の違い」という話になった。
「ユーサクさんは天然と養殖、どっちが好き?」
美容師がそう聞いた。
「まあ、その日の体調とか気分とかあるけど、それぞれの美味しさがあって、どっちも好きだけどね」
僕がそう答えると、美容師は言った。
「俺、味の違い全然わからん」
――そりゃあタバコの吸い過ぎで舌がバカになってるんじゃないの。
もちろん口には出さない。思っただけだ。
そこで僕は、ふと思い出して言った。
「そういえば、この前テレビで寿司屋の親方が言ってたけど、味の違いって十歳くらいまでに食べたもので決まるらしいよ。大人になってからじゃ遅いって」
その瞬間だった。
美容師の顔色が変わった。
何も言わない。
ただ鋏だけが動き続ける。
シャキッ、シャキッと乾いた音だけが店の中に響く。
――え? 何かまずいこと言った?
しばらくして美容師は別の話を始めたが、空気はどこか硬いままだった。
そのままカットは終わり、美容師はインターホンで二階にいる奥さんを呼び、交代して上がっていった。
陽気な奥さんの明るい声が店に広がる。
シャンプーをされながら、僕は考えていた。
何か、もやもやする。
何か悪いことを言ったような気がする。
そんなに変なことを言ったのだろうか。
誰か教えてほしい。
考えてみれば、この美容院では何度も似たようなことがあった。
話が噛み合わないこともある。
空気が凍ることもある。
それでも翌月になると、僕はまたここに来る。
予約の電話をかけると、向こうはいつもの声で答える。
「はい、いつもの感じでいいですか?」
鏡の中には、いつもの通りに整えられた僕の髪が映っていた。
その仕上がりだけは、いつも完璧だった。
あの美容師は去年、脳梗塞で倒れた。
今は施設にいると奥さんから聞いた。
歩くことも難しいらしい。
店はやめずに、奥さんが一人で続けている。
僕も今は、その奥さんに髪を切ってもらっている。
月末になると、いつものように予約の電話をかける。
受話器の向こうから、あの明るい声が聞こえる。
「はい、いつもの感じでいいですか?」
ときどき、あの美容師と話した日のことを思い出す。
鋏の音だけが響いていた、あの気まずい沈黙のことを。
あのとき僕は、いったい何を言い間違えたのだろう。
今となっては、それを確かめることもできない。
それでも僕は、来月もきっとあの店に行く。
人との関係というのは、不思議と続くものだと思います。
読んでいただきありがとうございました。




