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第3話 ゴミ屋敷の住人

 学園から徒歩十五分。

 駅前の喧騒を抜けた先に広がる高級住宅街。その一角に、威圧感すら漂わせる白亜の巨塔が聳え立っていた。

 『グランド・メゾン想星ヶ丘』。

 エントランスにはコンシェルジュが常駐し、床は大理石張り、ロビーには意味不明な現代アートが飾られている、いわゆる「億ション」だ。


「……まじかよ」


 俺は自動ドアの前で立ち尽くし、手の中にある小さな鍵を見つめた。

 天王寺カレン。彼女がただの優等生でないことは分かっていたが、住んでいる世界が物理的に違うとは思わなかった。

 俺のような一般庶民が、ジャージ姿(制服だが気分的にはジャージだ)で足を踏み入れていい場所ではない気がする。


「不審者として通報されないか、これ」


 俺は周囲を警戒しながら、おずおずとオートロックの操作盤に鍵をかざした。

 『ピッ、認証しました』

 無機質な音声と共に、重厚なガラス扉が音もなく開く。

 どうやら、この鍵は本物らしい。俺は覚悟を決めて、エレベーターホールへと進んだ。


 最上階、ペントハウス。

 エレベーターが滑るように上昇し、耳がツンとする感覚と共に扉が開く。

 そこには、フロア全体を占有するたった一つの扉があった。


「ここが、あの完璧超人・天王寺カレンの城か……」


 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

 さっきまで生徒会室で下着姿の彼女を見ていたせいで感覚が麻痺していたが、冷静に考えれば、これは「女子高生の自宅に、男子が一人で潜入する」という、極めて法的にグレーかつ背徳的なシチュエーションだ。

 もし親御さんと鉢合わせたら? いや、カレンは「一人暮らし」とは言っていなかったが、あの生活能力のなさで一人暮らしなら自殺行為だ。きっと家政婦さんとかがいるに違いない。

 そう自分に言い聞かせ、俺はインターホンを鳴らさずに――鳴らしても誰もいないのだから――鍵穴にキーを差し込んだ。


 ガチャリ。

 重たい手応えと共に、錠が外れる。


「お邪魔します……」


 俺は恐る恐るドアを開けた。

 広々とした玄関ホール。間接照明に照らされた、モデルルームのような洗練された空間。

 靴箱の上には季節の花が生けられ、ほのかに高級なアロマの香りが漂っている。


「なんだ、綺麗じゃないか」


 俺は安堵の息を吐いた。

 生徒会室があれだけ荒れていたから警戒していたが、やはり自宅は別らしい。家政婦さんがいる説が濃厚になった。

 俺は靴を脱ぎ、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を進む。

 目指すは、カレンが言っていた「リビングの奥にある作業部屋」だ。


 だが。

 リビングへのドアを開けた瞬間、俺の安堵は粉々に打ち砕かれた。


「…………は?」


 そこは、異界だった。

 玄関までの「モデルルーム」は、敵を欺くための擬態だったのか。

 三十畳はあるだろう広大なリビングダイニングが、完全に死んでいた。


 床が見えない。

 文字通り、フローリングの木目が一切確認できないのだ。

 脱ぎ捨てられた服、服、服。制服、私服、ジャージ、そして下着。それらが地層のように堆積し、道なき道を作っている。

 テーブルの上は、コンビニ弁当の空き容器、ペットボトルの山、読みかけの漫画雑誌、開封されたままの郵便物で埋め尽くされ、辛うじてリモコンを置くスペースだけが確保されている。

 そして何より、臭い。

 生ゴミの腐敗臭ではないのが救いだが、甘ったるい香水の香りと、カップ麺の残り香と、洗濯していない衣類の湿った匂いが混ざり合った、独特の「生活の澱」のような空気が充満していた。


「……撤回する。ここは人の住処じゃない。魔窟だ」


 俺はハンカチで鼻と口を覆った。

 これがあの、天王寺カレンの生活空間?

 学校では一分の隙もない完璧な美少女が、このゴミの海で暮らしている?

 情報の処理が追いつかない。ギャップ萌えなどという生易しいものではない。これはもはや、一種のホラーだ。


「えっと……目的は、画材と参考資料……」


 俺は帰りたい欲求を必死に抑え込み、ミッションの遂行を優先することにした。

 足の踏み場を探す。服を踏まないように進むのは不可能だ。俺は「ごめんよ、ブランド物の服たち」と心の中で謝罪しながら、服の山を慎重に踏み越えていった。


 作業部屋と思しきドアを開ける。

 そこもまた、カオスだった。

 だが、リビングの「怠惰による汚れ」とは少し種類が違っていた。

 壁一面の本棚には、美術解剖学書、ファッション誌、武器図鑑、背景写真集などがぎっしりと詰め込まれている。入り切らなかった本が床に塔を成している。

 部屋の中央には巨大なイーゼルと、アナログ作画用の机。そこには描きかけのキャンバスや、無数のスケッチブックが散乱していた。


「……うわ」


 俺は足元に落ちていたスケッチブックを一冊拾い上げた。

 パラパラとめくる。

 そこには、手のデッサンだけが数百ページに渡って描かれていた。

 指の関節、爪の形、握った時の筋肉の隆起。納得がいかなかったのか、いくつもの手に赤ペンで×印がつけられ、『もっと力を抜く』『骨格を意識』といった走り書きが添えられている。


 別のクロッキー帳には、今回の新刊の表紙ラフだろうか。

 構図のパターン出しが何十通りも描かれていた。

 今の完成形に至るまでに、これだけの試行錯誤があったのか。


「……努力の天才、かよ」


 俺はため息をついた。

 彼女は、ただ才能だけであそこまで登り詰めたわけじゃない。

 生徒会室で見せた「描けない」という苦悩も、この膨大な泥臭い積み重ねの上にあるものだったのだ。


「こんなの見せられたら、見捨てるわけにいかないじゃないか……」


 俺は指定された画材(コピックのセットと、特殊な紙)と、資料本を数冊カバンに詰め込んだ。

 ミッションは完了だ。あとは生徒会室に戻ればいい。

 だが。

 俺の足は、リビングの入り口で止まってしまった。


 目の前に広がる、服とゴミの樹海。

 もし今、俺がここを立ち去れば、カレンは今夜帰宅して、またこのゴミの中で眠るのか?

 あの下着姿で、この衛生状態の悪い床に寝転がるのか?

 埃による気管支へのダメージ。ダニやハウスダストのアレルギーリスク。精神衛生への悪影響。


「……あー、もう!」


 俺はカバンを床《比較的マシな場所》に叩き置いた。

 ブレザーを脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツの袖を限界まで捲り上げる。


「やってやるよ! やればいいんだろ!」


 俺の中の『オカン』が覚醒した。

 クリエイターの環境を整えるのも、マネージャーの仕事だ(と自分に言い聞かせる)。


 まずは換気だ。

 窓を全開にする。新鮮な夜風が吹き込み、淀んだ空気を押し流していく。

 次に分別。

 明らかなゴミ(空き容器、ティッシュ、チラシ)を、キッチンの下に押し込まれていた45リットルのゴミ袋に放り込む。

 迷うな。慈悲をかけるな。床が見えるまで止まるな。


 ペットボトルはラベルを剥がして洗って潰す。

 コンビニ弁当の容器も水洗い。

 雑誌は紐で縛る。

 開始から三十分。リビングの床の三割が姿を現した。


 次は衣類だ。これが一番の難敵だ。

 洗濯済みのものと、着用済みのものが混在している。匂いで判断するしかない。

 俺は心を無にして、女子高生の服を一枚一枚手に取り、仕分けていく。

 ……時折、レースのついた小さな布切れが出てくるが、それらは見なかったことにして、専用のランドリーボックスへシュートした。思考するな。俺は全自動洗濯仕分け機だ。


 洗濯機を回している間に、掃除機をかける。

 ダイソンの轟音が部屋に響き渡る。

 埃が吸い込まれていく快感。

 ソファの上に積み上がっていた服の山を崩すと、下から行方不明になっていたであろうテレビのリモコンや、片方だけの靴下、そして――。


「……なんだこれ」


 クッションの下から出てきたのは、一冊のノートだった。

 表紙には『ナイン様 攻略ノート』と書かれている。

 ナイン。俺のかつてのハンドルネームだ。

 魔が差した。見てはいけないと思いつつ、俺はそのノートを開いてしまった。


『ナイン様のゲーム構成要素分析』

『第3章の演出における色彩心理学的アプローチ』

『ナイン様がインタビューで語っていた「理想のヒロイン像」メモ』

『もしナイン様に会えたら言いたいことリスト(100個)』


 びっしりと、俺の作ったゲームに関する考察と、俺への想い(?)が書き連ねられていた。

 中には、


『今日、夢にナイン様が出てきた。顔は見えなかったけど、優しく頭を撫でてくれた。死ぬ。尊い』


 といった、限界オタク特有のポエムまである。


「……重い。愛が重いよ、会長」


 俺は顔が熱くなるのを感じながら、そっとノートを閉じて元の場所《クッションの下》に戻した。

 まさか、俺の推しが、俺の強火ファンだったとは。

 この事実、墓場まで持って行こう。絶対に本人には言えない。


 二時間が経過した頃。

 リビングは劇的な変貌を遂げていた。

 床が光っている。空気が澄んでいる。テーブルの上には何もない。

 洗濯物はベランダに干され(夜干しだが仕方ない)、部屋干しのいい香りが漂っている。


「……ふぅ。こんなもんか」


 俺は額の汗を拭った。

 完璧だ。これなら人間が住める。

 最後に、冷蔵庫の中身をチェックする。やはり壊滅的だ。

 俺は持参していたエコバッグ(常に持ち歩いている)を取り出し、近くのスーパーへ買い出しに行くことにした。

 作り置きがあれば、数日は生き延びられるだろう。


 ***


 生徒会室に戻ったのは、午後十時を回っていた。

 両手には画材と資料、そしてタッパーに入った作り置き料理《煮込みハンバーグとポテトサラダ》が入った袋を持っている。


「ただいま戻りました」


 部屋に入ると、カレンはデスクに突っ伏して眠っていた。

 PCの画面はスリープモードになっており、部屋には規則正しい寝息だけが響いている。

 俺は荷物を静かに置き、彼女に近づいた。


 ブランケットにくるまり、幸せそうな顔で眠るカレン。

 メガネが少しズレている。

 俺はそのメガネをそっと外し、デスクの脇に置いた。

 長い睫毛。通った鼻筋。黙っていれば、やはり彼女は天使のように美しい。

 あのゴミ屋敷の主とは思えない。


「……お疲れ様です、カレラ先生」


 俺は小さく呟き、彼女の肩を優しく揺すった。


「会長、起きてください。資料、持ってきましたよ」


「んぅ……」


 カレンが身じろぎし、ゆっくりと瞼を開ける。

 焦点の合わない瞳が俺を捉え、ふにゃりと緩んだ。


「あ……おかえり、九条くん……」

「はい、ただいま。……それと、家の掃除と洗濯、あと三日分の食事の作り置き、済ませておきました」


 俺が事もなげに言うと、カレンは「へ?」と間抜けな声を上げた。

 数秒後、言葉の意味を理解したのか、彼女の目がバチッと見開かれる。


「えっ!? 掃除!? あの部屋を!? 全部!?」

「全部です。あ、洗濯物は夜露に濡れる前に取り込んでくださいね」

「う、嘘……。あの魔窟を、短時間で……?」


 彼女は信じられないものを見る目で俺を見た後、わなわなと震え出し、そして――

 ガバッ! と俺の手を両手で握りしめた。


「結婚して!!」

「……は?」

「もう離さない! 一生私のそばにいて! 私の生活ライフ管理マネジメントして!」


 下着姿の美少女からの、熱烈なプロポーズ。

 俺は呆れながらも、握られた手の温かさに、悪い気はしなかった。


「お断りします。……とりあえず、今は原稿を完成させてください。それが終わったら、考えてあげなくもないです」

「ほんと!? やった! じゃあ描く! 私、描くよ!」


 単純なやつだ。

 カレンは元気よくメガネをかけ直し、ペンを握った。

 その背中を見守りながら、俺は苦笑する。

 どうやら俺の隠居生活は、完全に終わったらしい。

 だが、この騒がしくも手のかかる「推し」との日々も、そう悪くはないかもしれない。



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