第2話 脅迫? いえ、雇用契約です
プシュッ。
静寂を取り戻した生徒会室に、炭酸が弾ける小気味よい音が響いた。
俺は持参していたハンカチでデスクの上の惨状――こぼれたスナック菓子の粉や、結露した缶の水滴を拭き取りながら、呆れを含んだ視線をその主へと向けた。
「……で。まずは状況整理といきましょうか、会長」
「うう……。なんで私、後輩に説教されなきゃいけないのよ……」
天王寺カレンは、高級そうな社長椅子の上で小さくなっていた。
一応、俺の忠告に従ってブランケットを肩からすっぽりと被っているが、その下がいまだにTシャツと下着のみであるという事実は変わらない。
彼女は不満げに頬を膨らませながら、俺がコンビニ袋から取り出した野菜ジュースをストローでちゅーちゅーと啜っている。
「説教じゃありません。確認です。いいですか、現状を整理しますよ」
俺は指を一本立てた。
「まず、貴女はこの学園の生徒会長であり、同時に超人気イラストレーター『カレラ』である」
「……はい」
「そして現在、三日後の締め切りを前にして進捗が絶望的であり、生活環境も崩壊。精神的にも肉体的にも限界を迎えている」
「……うっ。言葉にされると心が痛い」
カレンはビクッと体を震わせ、ブランケットの中にさらに深く潜り込んだ。まるで蓑虫だ。
俺はため息をつき、もう一本指を立てる。
「次に、俺こと九条蓮は、偶然その秘密を知ってしまった。そして貴女は、口封じ……もとい、秘密の共有を理由に、俺に協力を求めている。間違いないですね?」
「求めてるっていうか……命令? 会長命令?」
上目遣いでこちらの顔色を窺うカレン。
その瞳は、昼間に廊下で見せた冷徹なサファイアのような輝きとは程遠い。捨てられた子犬のような、あるいは雨に濡れた野良猫のような、庇護欲を理不尽に掻き立てる光を宿している。
俺はこめかみを指で押さえた。
「あのですね。俺にも生活があるんです。それに、俺は創作活動からは足を洗った身でして」
「えっ? 足を洗った?」
カレンが反応した。
彼女はジュースを飲むのを止め、興味深そうに俺を見る。
「九条くん、何かやってたの? クリエイターとして」
「……昔の話です。今はただの消費者。モブです」
俺は言葉を濁した。
まさか本人の前で、かつて『ナイン』という名でゲームを作っていたとは言えない。もし知られれば、この面倒な状況がさらに加速することは火を見るより明らかだ。
カレンはふうん、と目を細めたが、それ以上追及はしてこなかった。今は自分のことで精一杯なのだろう。
「とにかく! キミが何者でもいいわ。重要なのは、キミが『カレラ』のファンで、ある程度の手先が器用そうで、そして何より……」
彼女は言葉を切り、少し頬を染めて、モジモジと視線を彷徨わせた。
「……私の、この恰好を見ても、襲ってこなかったってことよ」
「……」
それは買いかぶりだ。
内心では心拍数が跳ね上がっていたし、Tシャツの裾から覗く太腿の白さに、今も視線を持っていかれないよう必死に理性を総動員している。
だが、そんな男の事情など知る由もなく、カレンはブランケットから片手だけを出して、デスクの引き出しを指差した。
「そこ。一番上の引き出しを開けて」
「ここですか?」
言われた通りに引き出しを開ける。
中に入っていたのは、綺麗に整理された文房具や印鑑……ではなく、無造作に放り込まれた一枚のカードキーだった。
黒いマットな質感のカード。表面には金色の文字で『Student Council : Executive Access』と刻印されている。
「それは、生徒会室のセキュリティキーのマスター権限用スペア。それと、アトリエ棟の夜間使用許可証も兼ねてるわ」
「……なんでこんな重要アイテムが、ポテチの袋と一緒に無造作に入ってるんですか」
「あはは……。まあ、それは置いといて」
カレンは居住まいを正すと、真剣な表情で俺を見つめた。
「九条蓮くん。貴方を正式に、生徒会執行部付き特別補佐……通称『会長のお世話係』に任命します」
「ネーミングの雑さが凄い」
「待遇は悪くないはずよ。生徒会予算からの特別手当も出すし、学食のフリーパスもつける。内申点も爆上がり。どう?」
提示された条件は、普通の生徒なら喉から手が出るほど欲しいものだろう。
特に『学食フリーパス』は、育ち盛りの男子高校生にとっては魔法のカードに等しい。
だが、俺が求めているのは平穏だ。
首を横に振ろうとした、その時。
ぐぅぅぅぅぅ……。
間の抜けた音が、静かな部屋に響き渡った。
音源は、カレンの腹部あたり。
蓑虫状態の彼女が、みるみるうちに赤くなっていく。
「…………」
「…………」
「……違うの。これは、その、私の創作意欲が鳴動している音というか……」
「空腹ですね。何日まともな物を食べてないんですか?」
俺が問い詰めると、彼女は視線を逸らし、指折り数え始めた。
「えっと……一昨日の夜にウィダーインゼリー飲んで、昨日はポテチとチョコで、今日は……エナドリ三本?」
「死にますよ!? 神絵師ってのは霞かカフェインを食べて生きてる仙人か何かですか!?」
俺は思わず声を荒らげた。
栄養失調寸前じゃないか。あの完璧な美貌とスタイルは、奇跡的なバランスで維持されている砂上の楼閣だったのか。
俺の中にある『オカン属性』――あるいは、かつてデスマーチ開発現場でスタッフの健康管理をしていた頃の習性が、猛烈に警鐘を鳴らした。
放っておけない。
このままでは、俺の最推しの絵師が、物理的に消滅してしまう。
「……はぁ。分かりました」
俺は観念して、カードキーを手に取った。
カレンの顔がパァっと輝く。
「本当!? 引き受けてくれるの!?」
「勘違いしないでください。俺は貴女の作品のファンとして、作者の健康を守るだけです。作品が完結しないままエタるのだけは御免ですからね」
「うっ……読者視点の圧が強い……」
「で、キッチンは? 生徒会室に給湯室くらいありますよね?」
俺は腕まくりをした。
制服の袖を捲り上げ、ネクタイを少し緩める。
スイッチが入った。
「あっち。奥の扉の向こう」
「了解。……まずは何か腹に入れましょう。話はそれからです」
***
生徒会室の奥にある給湯室は、ちょっとした1Kのアパートのキッチンくらいの設備があった。
IHコンロが二口に、中型の冷蔵庫。電子レンジに電気ケトル。
だが、冷蔵庫の中身は惨憺たるものだった。
賞味期限切れの調味料。干からびたネギ。そして大量のエナジードリンク。
まともな食材は、冷凍庫の奥で霜に埋もれていた冷凍うどんと、卵が二つだけ。
「……これで何を作れと」
俺は頭を抱えたが、文句を言っても食材は増えない。
あるもので最高の結果を出す。それがクリエイター(今は料理人だが)の仕事だ。
給湯室の棚を漁ると、使いかけのめんつゆと、未開封のツナ缶が見つかった。勝利へのピースが揃った。
十分後。
俺は湯気の立つどんぶりを二つ、お盆に載せて生徒会室へと戻った。
「お待たせしました。特製『釜玉ツナマヨうどん』です」
デスクの上にどんぶりを置くと、カレンが目を見開いた。
茹でたて熱々のうどんの上には、半熟気味に温めた卵、油を切ったツナ、そして刻んだネギ(生きていた部分)が乗っている。仕上げに、黒胡椒を少々。
シンプルな料理だが、空腹の胃袋には暴力的なまでの破壊力を持つ香りだ。
「わぁ……! すごい、お店みたい!」
「ただの手抜き料理です。さ、熱いうちに」
カレンはブランケットから手を出し、震える手で箸を割った。
そして、麺と卵とツナを豪快に混ぜ合わせ、一口すする。
ズルルッ。
「ん……っ!」
彼女の動きが止まった。
サファイア色の瞳が、とろりと潤む。
「……おいしい」
「そりゃどうも」
「すっごく、おいしい……! なにこれ、麺がつるつるで、卵が濃厚で、ツナの塩気が絶妙で……!」
彼女は夢中で箸を進め始めた。
まるで何日も食事を与えられていなかった小動物のようだ。口の端にタレがついているのも気にせず、ハフハフと麺を頬張る。
その姿は、昼間の『完璧な生徒会長』からは想像もできないほど無防備で、そして愛らしかった。
(……やばいな)
俺は自分の分のうどんを啜りながら、冷静さを保つのに必死だった。
目の前で、下着姿の美少女が、俺の手料理を食べて感動している。
しかも、食べている最中に暑くなったのか、無意識にブランケットをはだけさせている。Tシャツの胸元が、呼吸に合わせて上下し、薄い生地の向こうに柔らかな膨らみのラインが透けて見える。
健全な男子高校生に対する、あまりにも高度な精神攻撃だ。
「あー、生き返ったぁ……」
ものの数分で完食したカレンは、満足げに息を吐いて、背もたれに体を預けた。
その顔には、憑き物が落ちたような安らかな表情が浮かんでいる。
「九条くん、キミ天才ね。料理の神様?」
「ただのオカン気質なだけです。……で、腹も満たされたところで、仕事の時間ですよ」
俺は空になったどんぶりを回収しつつ、彼女の視線をモニターへと誘導した。
「締め切りまであと三日。進捗率は?」
「……線画が終わって、下塗りが半分くらい」
「つまり、一番重い塗りの工程が丸々残っていると」
「ううっ……。だって、構図が決まらなくて……何度もリテイクしてたら……」
「言い訳は不要です」
俺は彼女の背後に回り込み、モニターを覗き込んだ。
改めて見ても、凄まじい画力だ。
だが、レイヤーの構成がぐちゃぐちゃで、作業効率が悪すぎる。
「まず、レイヤー整理から始めましょう。俺が不要なレイヤーを統合してリネームします。その間に、貴女は背景のパースを取り直してください。右奥の建物の消失点がズレてます」
「えっ? ……ほんとだ。よく気づいたわね」
「これでも元……いや、昔ちょっとかじってたんで」
危ない。元ゲーム開発者の目線で指摘してしまった。
だが、カレンは素直にペンタブを握り直した。
「分かった。……ねえ、九条くん」
「なんですか」
「さっきの契約、訂正していい?」
「断るって言うなら大歓迎ですが」
カレンは振り返り、悪戯っぽく、それでいて少し熱を帯びた瞳で俺を見上げた。
その顔は、ほんの数十センチの距離にある。
「『お世話係』兼『制作パートナー』。……最後まで、付き合ってくれる?」
その言葉に含まれた『付き合って』という響きに、心臓が不覚にも跳ねた。
彼女は無自覚なのだろうか。それとも、計算高い小悪魔なのだろうか。
どちらにせよ、今の彼女は『カレラ』としてのオーラを纏い始めていた。クリエイターが本気モードに入った時の、あの独特の鋭い空気。
俺は短く息を吐き、口角を少しだけ上げた。
「……乗りかかった船です。地獄の底まで……いや、入稿の瞬間までお供しますよ、カレラ先生」
こうして、俺たちの奇妙な共同作業が始まった。
だが、俺はまだ知らなかったのだ。
この『お世話』の範囲が、単に生徒会室での作業サポートだけには留まらないということを。
彼女のズボラさが、この部屋だけに留まるはずがないという、当然の事実に。
「あ、そうだ九条くん。悪いんだけどさ」
「なんですか、今いいところなのに」
「……家に、画材と参考資料、忘れてきちゃって」
「は?」
「取ってきてほしいなー、なんて。……私の家の合鍵、渡すから」
カレンはテヘッと舌を出して、胸元(Tシャツの襟ぐり)から、チェーンに通された鍵を取り出した。
人肌に温められたその鍵を、俺の手に握らせる。
「……まさか、俺一人で行けと?」
「だって私、この格好だし。着替える時間も惜しいし」
「……女子高生の部屋に、男一人で入るリスクを分かってます?」
「九条くんなら大丈夫だよ。私のパンツ見ても平気だったし」
「平気じゃありませんでしたが!?」
俺の抗議も虚しく、俺は女子の園――天王寺カレンの自宅へと、パシリに行かされることになったのだ。
そこで俺を待ち受けているのが、生徒会室をも凌駕する『魔境』であるとも知らずに。




