第1話 完璧生徒会長の裏の顔
世界は、二種類の人間で構成されている。
何かを生み出す『クリエイター』と、それを消費する『オーディエンス』だ。 かつて、俺こと九条蓮は前者だった。それも、ほんの少しばかり名の売れた、狂った側の前者だ。
だが今は違う。
俺は、消費する側に回る。いや、消費すらせず、ただ流れていく情報を右から左へと受け流す、背景Aになりたい。
それが、この『私立・想星学園』に入学した、俺の唯一にして絶対の目的だった。
「――おい九条。聞いているのか?」
不機嫌そうな低い声が、俺の鼓膜をノックする。
意識を現実の解像度に戻すと、目の前には生活指導担当の坂木先生の脂ぎった顔があった。職員室特有の、古紙とインスタントコーヒーが混ざったような淀んだ空気が鼻をつく。
「……聞いてますよ。進路調査票の再提出、ですよね」
「違う。それは昨日言った。今日呼んだのは別件だ」
坂木先生は、分厚いファイルをデスクの上に放り出した。バサリ、と重たい音がして、周囲の教師たちがちらりとこちらを見る。
「生徒会への届け物だ。予算委員会の決算資料。今日中に天王寺会長に渡さなきゃならん」
「ええと、それをなぜ俺が? クラス委員でもない、帰宅部の俺が」
「帰宅部だからだ。他の連中は部活やら創作活動やらで忙しい。暇なのはお前くらいだろ、九条」
ぐうの音も出ない正論だった。
この想星学園は、文部科学省から『次世代クリエイター育成指定校』に認定されている特殊な進学校だ。校内にはプロ仕様の機材が揃った『アトリエ棟』が完備され、生徒たちは日々、イラスト、小説、音楽、動画編集、プログラミングといった創作活動に明け暮れている。
ここでのスクールカーストは、喧嘩の強さでも親の年収でもない。『何を作れるか』で決まる。
フォロワー数、再生数、販売部数。数字という暴力的なまでの実力が、生徒の価値を可視化する場所。
そんな環境において、入学以来ペン一本握らず、PCの電源すら入れようとしない俺は、まさにカースト最底辺の『無産』市民だった。
「……分かりました。届ければいいんですね、届ければ」
俺は溜息を噛み殺し、ファイルを受け取った。
反論するカロリーすら惜しい。さっさと終わらせて、家に帰って寝よう。俺の『隠居生活』に、面倒ごとは不要なのだ。
***
放課後の校舎は、奇妙な熱気に包まれていた。
廊下の至る所から、楽器のチューニング音や、演技練習の声、キーボードを叩く打鍵音が漏れ聞こえてくる。
西日が差し込む渡り廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちの会話が耳に入ってくる。
「昨日の動画、もう一万再生いった?」
「いや、サムネが弱かったかも。クリック率が伸び悩んでてさ」
「次の即売会の配置、壁サークルだって!」
誰も彼もが、目をぎらつかせて『何か』になろうとしている。
その光景は、かつての俺を見ているようで、少しだけ胸が苦しくなった。
焦燥感、承認欲求、締め切りの恐怖、評価への渇望。
それら全てを『青春』というオブラートに包んで飲み込むには、俺は少し、擦れすぎてしまったのかもしれない。
アトリエ棟の最上階。そこに、学園の支配者たちが集う場所――生徒会室がある。
特別扱いされたそのエリアは、床のワックスの輝きからして違っていた。静寂と清潔感。選ばれし者だけが足を踏み入れることを許された聖域。
俺が重い足取りで階段を上りきった時だった。
廊下の向こうから、数人の女子生徒に囲まれて歩いてくる一人の少女がいた。
「――はい。今回の予算配分については、実績ベースで再考します。文芸部の部誌、とても素敵でしたよ」
鈴を転がすような、とは陳腐な表現だが、他に言いようのない美しい声。
透き通るような銀髪のロングヘアが、歩くたびにサラサラと揺れる。
制服の着こなしは一分の隙もなく、白のブラウスには一点のシワもない。知的なフレームレスの眼鏡の奥には、すべてを見通すような理知的なサファイア色の瞳。
天王寺カレン。
この想星学園の生徒会長にして、全校生徒の憧れの的。
容姿端麗、成績優秀、品行方正。
入学以来、主席の座を一度も譲ったことがなく、昨年の学園祭では統括プロデューサーとして過去最高の来場者数を叩き出したという、まさに『完璧超人』だ。
「きゃああ! 会長、ありがとうございます!」
「会長に見てもらえるなんて、私たち死んでもいい!」
「会長、今日の髪型も素敵です!」
取り巻きの女子たちの黄色い声援に、彼女は優雅な微笑みで応えている。
まるで、中世の貴族か、あるいは女神か。
同じ高校生とは思えないオーラに、俺は思わず壁際に寄って道を空けた。関わり合いになりたくない。あんな眩しい存在と目が合ったら、俺のような日陰者は蒸発してしまう。
だが、すれ違いざま。
ふわり、と柑橘系の香水が鼻をかすめた瞬間、彼女の視線が一瞬だけこちらに向けられた気がした。
冷たく、研ぎ澄まされた刃物のような視線。
背筋がゾクリとするような感覚。
しかし、俺が振り返った時には、彼女はもう取り巻きたちと共に階段を降りていくところだった。
「……すごいな。別世界の人種だ」
俺は独りごちて、再び歩き出した。
彼女のような完璧な人間が、この学園のトップに君臨している。それが、この学園が『実力至上主義』であることの何よりの証明なのだろう。
俺には関係のない話だ。
そう自分に言い聞かせ、俺は生徒会室の重厚なマホガニーの扉の前に立った。
時刻は午後六時を回っている。
窓の外は茜色から群青色へとグラデーションを変え始めていた。
生徒会役員たちはもう帰宅しただろうか。坂木先生は「今日中に渡せ」と言ったが、誰もいなければデスクに置いて帰ればいいだろう。
俺は一呼吸置いて、ノックをした。
コン、コン。
反応はない。
やはり、もう誰もいないのか。
もう一度、少し強めにノックする。
「失礼します。教員の坂木から書類を預かってきました」
返事を待たず、俺はドアノブを回した。
鍵は開いている。
ガチャリ、という金属音が静寂に響き、俺はゆっくりと扉を開けた。
――その瞬間。
俺の目に飛び込んできたのは、『聖域』とは程遠い光景だった。
「あー……もう、無理。しんど。マジで死ぬ」
広々とした生徒会室。
その中央にある豪奢な会長用のデスクの向こう側から、怨嗟のような独り言が聞こえてくる。
部屋の照明は消されており、頼りは窓からの月明かりと、デスクの上に置かれた三台の大型モニターが放つブルーライトだけだ。
そして、そのモニターの光に照らし出されていたのは――。
「え……?」
俺は絶句した。
思考が停止し、持っていたファイルを取り落としそうになる。
そこにいたのは、昼間に見た完璧な女神ではなかった。
いや、同一人物なのは間違いない。あの美しい銀髪と、整った顔立ちはそのままだ。
だが、その恰好が、あまりにも常軌を逸していた。
上は、首元が伸びきった大きめのTシャツが一枚。
そして下は――何も履いていなかった。
いや、正確には、Tシャツの裾から、淡い水色のレースがあしらわれたショーツが、あまりにも無防備に覗いているだけだ。
足元には、飲みかけのエナジードリンクの空き缶がピラミッドのように積み上げられ、スナック菓子の袋が散乱し、脱ぎ捨てられた制服が、まるで抜け殻のように床に転がっている。
ブラウスは袖が裏返しだし、プリーツスカートは無残にも踏みつけられていた。
椅子の背もたれにふんぞり返り、片膝を立てて、一心不乱にペンタブレットを走らせているその人物。
牛乳瓶の底のような分厚い黒縁メガネをかけ、モニターを睨みつけるその横顔は、まぎれもなく――。
「くそっ、このレイヤー構造どうなってんのよ! 線画統合した馬鹿は誰!? 私だ! 昨日の私を殺してやりたい!」
天王寺カレン、その人だった。
さっきまでの優雅なオーラはどこへ行った? あの完璧な着こなしは? 今の彼女は、どう見ても『締め切り三日前の修羅場にいる限界クリエイター』そのものだ。 そして何より、目のやり場に困る。Tシャツから伸びる白くしなやかな太腿と、そこから覗く繊細な下着のコントラストが、薄暗い部屋の中で妙に艶めかしく光っていた。
俺は動けなかった。
見てはいけないものを見てしまったという本能的な警鐘と、あまりの事態に脳の処理が追いつかない。
その時、俺の視線は、彼女が操作しているモニターの画面に吸い寄せられた。
そこには、一枚のイラストが表示されていた。
瓦礫の街に立つ、傷ついた少女の絵。
圧倒的な画力。光と影の緻密なコントロール。吐息まで聞こえてきそうな色彩感覚。
その絵柄を、俺は知っていた。
いや、知っているどころではない。
俺が創作を辞めてからも、唯一フォローを外し、通知をオンにし続けている、世界で一番好きなイラストレーター。
画面の右端、レイヤーウィンドウのタイトルバーに表示されているファイル名。 『C99_新刊表紙_calera_final_v3.psd』
「……『カレラ』……?」
無意識に、その名前が口から漏れた。
SNSフォロワー数一〇〇万人超え。正体不明の神絵師、『カレラ』。
その正体が、まさかこの学園の生徒会長、天王寺カレンだったなんて。
俺の呟きは、静寂な部屋に予想以上に大きく響いた。 キーボードを叩く手が、ピタリと止まる。 カチ、カチ、カチ……というペンの音が止み、部屋が恐ろしいほどの沈黙に包まれた。
ゆっくりと。
本当に、錆びついた機械のようにギギギと音を立てそうな動きで、椅子が回転する。
ブルーライトに照らされた分厚いメガネの奥の瞳が、入り口に立つ俺を捉えた。
「…………」
「…………」
目が合った。 彼女は、右手にペンを持ったまま、左手には『ポテトチップス(コンソメ味)』をつまんでいた。
口の端には食べかすがついている。
そして、その視線が俺の顔から下へ、自分が何気なく広げていた足元へと移動し――。
数秒のフリーズ。
彼女の脳内で情報処理が行われているのが手に取るように分かった。
侵入者の確認。
自分の現状の確認。
社会的死の確率計算。
彼女の顔色が、青から白へ、そして瞬時に沸騰したような真っ赤へと変化していく。
震える唇が開き、
「――――ッ!?」
声にならない悲鳴が上がる寸前。
彼女は超人的な反射神経でデスクの上のリモコンを掴むと、ボタンを連打した。 ウィイイイン……!
電動でカーテンが閉まり、同時に部屋のメイン照明が煌々と点灯した。
眩しい光が、部屋の惨状を――ゴミ溜めのような生徒会室の真実を、白日の下に晒し出す。
「み、みみみ、見た!? 今、見たわよね!? 私の下着! じゃなくて画面! いや、どっちも!!」
彼女は椅子から飛び退き、脱ぎ捨ててあった制服のスカートを慌てて拾い上げようとして、足がもつれて派手に転倒した。
ドガン! ガラガラガラ! 積み上げられていたエナドリの空き缶タワーが崩壊し、アルミの雨が降り注ぐ。
「あだっ……! うう、痛い……」
床に這いつくばり、半泣きでこちらを見上げる天王寺カレン。
Tシャツがめくれ、白い背中とショーツが丸見えだ。
昼間のカリスマ性は微塵もない。そこにいるのは、ただのドジでズボラで、無防備すぎる少女だった。
「えっと……大丈夫ですか、会長。とりあえず、その……隠した方が」
俺は目のやり場に困り、視線を逸らしながら声をかけた。
彼女はビクッと体を震わせ、自分の格好に気づくと、さらに顔を赤くして後ずさった。
「こ、来ないで! 見ないで! 私の尊厳が! 私の完璧なイメージが!」
彼女は近くにあったブランケットを頭から被り、ダンゴムシのように丸まった。 そして、毛布の隙間から、消え入りそうな声で呻く。
「……終わった。私の高校生活、終了のお知らせ……。お嫁に行けない……」
俺は頭を抱えたくなった。
帰りたい。今すぐ回れ右をして、自宅の布団に潜り込みたい。
だが、入り口のドアは俺の背後にあり、俺はすでに完全に部屋の中に入ってしまっている。
そして何より、俺の目の前には、俺が崇拝してやまない神絵師『カレラ』先生が、あまりにも情けない姿で転がっているのだ。
見捨てるわけにはいかなかった。
元・同業者としての哀れみか、ファンとしての義侠心か。
あるいは、この完璧に見えた少女の、あまりにも人間臭い一面に、少しだけ親近感を覚えてしまったからか。
俺は大きな溜息を一つ吐くと、散乱したエナドリの缶を拾い上げながら言った。
「とりあえず、落ち着いてください、カレラ先生。……話はそれからです」
毛布の塊が、ピクリと反応した。
隙間から、涙目で充血した瞳が覗く。
「……キミ、私のこと知ってるの?」
「ファンです。初期の『機械仕掛けの歌姫』時代から見てます」
「古参!?」
カレンは驚愕に目を見開いた。
そして、次の瞬間、彼女の表情が変わった。
怯えと羞恥が消え、代わりに、荒波の中で浮き輪を見つけた遭難者のような、切実な光が宿る。
「……ねえ、キミ。名前は?」
「一年の九条です。九条蓮」
「そう、九条くん。……キミ、口は堅い?」
嫌な予感がした。
全身の細胞が「逃げろ」と警報を鳴らしている。
だが、遅かった。
カレンはブランケットを羽織ったまま(相変わらず下は下着のままだ)、メガネの位置を直すと、崩壊したエナドリの山の上に立ち上がり、ビシッと俺を指差した。
「採用よ!」
「はい?」
「キミを、私の『専属管理官』に任命します! 拒否権はないわ。バラされたくなければ、私の部屋を片付けて、ご飯を作って、締め切りまでのスケジュールを管理しなさい!」
……は?
俺は耳を疑った。
口封じのために脅されるなら分かる。だが、なぜ世話係?
「見ての通り、私は今、非常にっ、追い詰められているの! あと三日でカラー表紙と挿絵二枚! でも部屋は汚いし腹は減るし洗濯物は溜まるし、もうキャパオーバーなのよ!」
「知ったことですか。自業自得でしょう。それに、俺は他人です」
「冷たい! ファンなんでしょ!? 推しが過労と栄養失調で野垂れ死んでもいいの!?」
彼女はなりふり構わず叫んだ。
その目には、本気の涙が浮かんでいる。そして、ブランケットがずり落ち、また無防備な肩があらわになる。本人は気づいていないようだが、その隙だらけの姿が、彼女の切羽詰まった状況を雄弁に物語っていた。
「頼むからぁ……助けてよぉ……。私、絵を描く以外、何にもできないんだもん……。一人じゃ、服も選べないし、カップ麺のお湯もこぼすし……」
最後は泣き落としだった。
天下の生徒会長が、鼻水をすすりながら、一年生男子に懇願している。
俺は天井を仰いだ。
平凡な学園生活。空気のようなモブ人生。
それらが音を立てて崩れ去り、代わりに『面倒ごと』という名の瓦礫が降り注いでくるのが見えた。
だが。
チラリと見えたモニターの中の、未完成の少女の絵。
その瞳の輝きだけは、嘘偽りなく美しかった。そして、目の前でなりふり構わず創作にしがみつく、この不器用な少女の姿もまた、ある種の『本物』だと感じてしまった。
「……はぁ」
今日何度目か分からない、一番深い溜息。
俺は観念して、足元のゴミ袋を拾い上げた。
「分かりましたよ。……ただし、条件があります。まずは何か羽織ってください。目の毒です」
こうして。
隠居志望の元天才と、ポンコツ神絵師・天王寺カレンとの、秘密の共犯関係が幕を開けたのだった。




