第147話「記録係は語り部になる」
(語り手:朝比奈みく)
私が「記録係」になったのは、たまたまだ。
日下部がぼそっと、「書くの、苦手で」と言ったのがきっかけ。
誰かがやらなきゃ、って思って手を挙げた。
それだけのことだった。
最初の頃のノートには、事実だけを書いていた。
実験開始 15:40
音叉A、振動時間 約7秒。傷の形状は不明瞭。
朝比奈コメント:「次はもっとしっかり固定しよう」
そういう、淡々とした記録。
でも最近、少しずつ、言葉が変わってきた。
実験は、やっぱり難しい。
でも、今日のゆらの顔は、たぶん“悔しがってる”んじゃなくて、“考えてる”顔だった。
それって、すごいなって思った。
うまくいかなくても、問いは止まってない。
そういうことを書くのが、だんだんと増えていった。
私のノートは、「データ帳」じゃなくて、
“この日、何があったか”を未来の誰かに伝える本になっていた。
「みく先輩のノート、面白いですよね」
ある日、新しく入った後輩がそう言ってくれた。
「データより、人間っぽくて」
私はちょっとだけ恥ずかしくなって、でも嬉しかった。
その日の記録には、こう書いた。
人に“伝わる”って、ちょっと怖くて、すごい。
私の記録が、誰かの物語になるなら——
それはもう、ただの実験ノートじゃないのかもしれない。
私は理屈で物理が得意なわけじゃない。
公式も、よく抜ける。
でも、「こうだったよ」って言葉にして残すことなら、できる気がした。
そして今日の最後のページに、私はそっとこう書いた。
2025年 8月某日
今日も、私たちは何かを“残している”。
うまくいかなかった実験も、
笑ったことも、
黙って観察した風の動きも。
記録係は、語り部になる。
誰かに伝えるために、今を見つめる。
ノートの紙が、夕暮れの光を透かして柔らかくなっていた。
私たちの物語は、まだ終わらない。
たぶん、これからが本番なのだ。