第146話「“わからない”の価値を、信じられるか」
(語り手:日下部ゆら)
「この仮説って、誰が書いたんだろうね」
古いノートの一ページ。鉛筆書きで、少しにじんだ文字。
仮説:音叉を振動させた状態で板に接触させると、振動数に比例した形の“傷”が生じるのでは?
ページの余白にはメモがあった。
実験できず。理由は機材不足。くやしい。——蘭子
赤﨑蘭子先輩。
あのノートの中でもひときわ熱い言葉を残していた先輩だ。
「これ、やってみたい」と私が言ったとき、
朝比奈さんはちょっとだけ眉をひそめた。
「でも、どうせうまくいかないよ? 振動数、精密に測れないし……」
「それでも、やってみたい」
私はそう言った。
“失敗したままの問い”に、何か触れてみたかった。
週末、私たちは音叉と鉄板を用意した。
簡単な装置だけど、叩くたびに振動が手に伝わって、
空気の中で音が揺れているのがわかる。
最初の一回、結果は出なかった。
傷はついたけど、規則性は不明。
2回目、3回目も……よくわからない。
「やっぱり……無理かも」
朝比奈さんが呟いた。
でも私は、その“わからない”結果をノートに書きながら、
なんだか不思議と満ち足りていた。
「これって、“失敗”なのかな」
私の問いに、朝比奈さんは答えなかった。
でも、しばらくして言った。
「なんか……“未解決の問題”って感じだね。
誰かがまた、続きをやるかもしれない。私たちじゃなくても」
そうだ。
物理って、全部が“答え”にたどり着けるわけじゃない。
でも、わからないままの仮説にも、価値がある。
私はレポート用の別ノートにこう書いた。
「わからない」は終わりじゃなく、
「わかろうとした」記録は、
次の誰かの問いになる。
音叉の振動が、まだ指先に残っている。
目に見えない“揺れ”を感じながら、私は思った。
わからないことを、信じてみよう。
それは、いまの私ができる、
一番まっすぐな“研究”かもしれない。