第144話「問いのない日、でも心は動いてる」
(語り手:日下部ゆら)
その日は、なんでもない放課後だった。
部室の窓を開けると、風が吹き抜けて、
風鈴のように吊ってある試験管が、かすかに揺れた。
「今日、実験やめとく?」
朝比奈さんが言った。
「うん、今日はなんか……集中できない」
私もそう返して、机に頬杖をついた。
私たちはノートも開かず、黒板も使わず、
ただ椅子に座って、冷たいお茶を飲んだ。
部室の中には、ゆるい沈黙が流れていた。
「こんな日もあるんだね」
「ねー」
問いも仮説もない。
“今日の目標”すら、ない。
でも、そんな日でも、なぜか私はここに来たかった。
壁に貼ってある古いポスター。
去年の先輩たちの文化祭展示のタイトルは、
「なんで?って聞ける場所」 って書いてあった。
たぶん、今日はその「なんで?」すら、浮かばなかった。
でも。
ふと、朝比奈さんがぽつりと言った。
「ねえ、風ってどうしてこんなに気持ちいいんだろう」
私は、少し笑った。
「それ、物理で説明するなら——」
「いや、しなくていい!今日はいいの。感じるだけ!」
そのあと、私たちはただ黙って、
窓の外の空を眺めた。
屋上の手すりの影が、ゆっくり伸びていくのを見ながら。
“問い”はなかったけど、
私はずっと“考えていた”。
なにか特別なことをしたわけじゃない。
でも、この空気のなかに、確かに自分の心が動いているのを感じていた。
家に帰って、私はノートのすみにこう書いた。
「今日は、なにも思いつかなかった。
でも、それでもここにいたかった。
物理が好きって気持ちは、問いがなくても消えなかった。」
問いがない日も、意味がある。
それを、今日知った。