第142話「教室、夏の光、ノートの続き」
(語り手:日下部ゆら)
夏休みの午後だった。
蝉の声が遠くから聞こえていて、
日差しは痛いくらいまぶしかった。
「……今日、来るって言ってた?」
私はそう言いながら、物理室のドアをそっと開けた。
そこに、見知らぬ先輩が立っていた。
白衣の袖をまくって、
黒板に向かって何か数式を書いている。
でもその表情は、どこか懐かしそうで、優しかった。
先輩は私たちに気づいて、振り返った。
「あ、こんにちは。……えっと、物理研究会の人?」
「はい。あの……あなたは?」
少し照れくさそうに、先輩は答えた。
「佐倉涼子っていいます。三年前の卒業生。今日、教育実習でちょっとだけ戻ってきてて」
その名前を聞いた瞬間、私は声を漏らした。
「……えっ、ノートの“涼子”先輩……!?」
そう、あの分厚い研究ノートの中で、
いつも「難しい」が口ぐせで、でも大切な言葉をたくさん残していた人。
佐倉先輩は驚いたように笑って、
「うわ……まだ、あのノート残ってたんだ……! 加奈子が爆発したページとか?」
「読みました……すごく、おもしろかったです」
「というか、今、あれが“私たちの教科書”みたいなもので……」
私たちは、机を囲んで座った。
夏の光が斜めに差し込む、物理室の午後。
「私、正直ずっと物理が得意じゃなかったんです」
そう佐倉先輩は言った。
「でも、問いを手放さずにいられる場所がここだった。
だから、ずっと残したかったんだよね、あのノートに」
私は言葉を飲み込んで、それから、少し勇気を出して聞いた。
「……先輩にとって、物理って、なんだったんですか?」
先輩は少し考えてから、黒板を振り返った。
「んー……“わからない”を許してくれる時間、だったかも」
「何もできなかった私にも、問い続けることだけは、できたから」
そのとき、黒板に書かれていた一文に、私は目をとめた。
「答えは出ない。でも、問いはつながる。」
それは、ノートの最後のページにも書いてあった一文だった。
夏の光の中、私はふと思う。
私も、いつかこんなふうに“問い”を渡すことができるんだろうか。
佐倉先輩は立ち上がり、白衣を脱ぎながら言った。
「じゃあ、またね。ノート、もう一冊分くらい書いてね」
「書きます。今度は、私たちの言葉で」
物理室のドアが静かに閉まり、蝉の声がまた響き出す。
私たちは、ノートの続きを開いた。
この夏、私たちが書くべき“問い”を、
そっと、ページに刻むために。