第141話「過去の式と、いまの私たち」
(語り手:日下部ゆら)
物理研究会のノート——あの分厚くて、少し黄ばんだ記録。
今日はその中から、一つのページを引っぱり出してきた。
ページ上部には、こう書かれていた。
「仮説:鉄球の加速度変化を記録し、音と重力の関係を探る」
——が、途中でデータが消えた。わからん。以上。
その下に、式がいくつも並んでいた。
でも、途中で矢印が乱れていて、式の展開が止まっている。
なぜか、横に「加奈子、なぜこの式を書いたのか自分でも不明」と書いてある。
「なにこれ……笑えるけど、ちょっと悔しくない?」
私はつい口に出していた。
先輩の伊東さんが笑う。
「未完成って、たまに“挑戦状”みたいに見えるよね」
私たちは、当時の装置を再現してみることにした。
幸い、引き出しの奥には鉄球と、マイクロフォンの古いコードが残っていた。
再挑戦の実験は、泥くさかった。
音の記録はうまくいかないし、マイクはノイズだらけだし、
何より、式の途中から先が“ない”というのがつらい。
「ていうか、これ、正しく解こうとすると微積じゃない?」
「嘘でしょ……私、まだ習ってないんだけど」
私たちは、途中でカフェオレ片手にノートを囲みながら議論した。
気がつけば、話題はなぜか「時間って何だろう」になっていて、
式は進まないのに、考えごとだけが前に進んでいた。
でも、それがすごくよかった。
“解けなかった式”が、今の私たちを動かしてる。
たとえ、解けなくても。
「ねえ、解けなかった式って、
たぶん、次の誰かが触れるために残されたものなんだよ」
朝比奈さんがそう言ったとき、私は静かに頷いた。
私たちは、あの日の3人がたどり着けなかった続きを、少しだけ書き足した。
まだ式は完成していない。
でも、最後の行にこう書いた。
「この問い、今も有効です。」
物理って、式を“終わらせる”ことじゃない。
問いを“残す”ことも、未来につながるんだ。
実験ノートの余白に、私はそっと書いた。
「このページを、次にめくるのは——私たちの後輩かもしれない」
誰かが残した問いに向き合い、
今度は、自分たちの問いを残していく。
それが、“部活”という時間の、いちばん静かで強い継承だと思った。