第139話「残されたノート、めくられたページ」
(語り手:物理研究会・新1年生「日下部ゆら」)
物理研究会の部室は、理科棟の一番奥、廊下の曲がり角の先にある。
春の陽気に誘われて、なんとなくその扉を開けたとき、私はまだ入部届も出していなかった。
誰もいない部室は、埃っぽくて、でも変に居心地がよかった。
窓から差し込む光が、古い机の上のノートにすっと線を引いていた。
“それ”を見つけたのは、偶然だった。
鍵のかかっていない棚の奥、書きかけのレポートや回路図の束の下。
表紙には何も書かれていなかった。
でも、開いた瞬間にわかった。
これは——ただのノートじゃない。
最初のページ。
走り書きのような実験スケッチ。
「2023年度 5月〇日 風船ロケット、飛ばなかった」
その隣に、笑う顔のイラストが描かれていた。
ページをめくるたび、私は引き込まれていった。
「仮説:運動エネルギーをマシュマロで確かめる」
「加奈子、スピーカー破壊事件」
「涼子、文化祭ポスター案(→2時間で描いた!)」
「蘭子、また徹夜…!」
やがて、ページの端に、細い字でこう書かれていた。
「答えは出なかった。でも、それでよかったと思ってる。」
その瞬間、なぜか胸がぎゅっとなった。
“わからなかった”ことを誇らしげに残しているノートなんて、初めて見た。
私は気づいた。
このノートは、記録じゃない。
この場所で過ごした時間そのものが、綴られているんだ。
最後のページには、3人の名前。
「佐倉涼子」
「赤﨑蘭子」
「徳田加奈子」
その下に、矢印とこう書かれていた。
「Next → 君の番だよ?」
私はノートをそっと閉じて、両手で抱えた。
まるで、バトンを渡されたような気がした。
——たぶん、私もこの部に入るんだろうな。
まだ何も決めていないけど、それだけは不思議と確信があった。
その日、私は入部届を出した。
理由の欄には、こう書いた。
「なんとなく。でも、“わからない”が面白そうだから。」