第138話「卒業式の夜、黒板に残したもの」
(語り手:佐倉涼子)
第138話「卒業式の夜、黒板に残したもの」
卒業式が終わった夜、私は母に「ちょっと寄るとこあるから」とだけ言って、制服のまま高校へ向かった。
鍵を借りるために職員室へ寄ると、物理の先生が「ああ、そうだろうと思ってた」と笑った。
夜の物理室は静かだった。
蛍光灯をひとつだけつけて、ドアをそっと閉める。
机の配置は少し変わったけど、窓際の実験台は、私たちがよく座っていたあの場所のままだった。
蘭子はすでに来ていて、モーターの残骸のようなものをいじっていた。
「来たか」
「来たよ」
すっかり大人びた顔つきになった蘭子が、少しだけ、あの頃の顔に戻る。
しばらくして、加奈子も合流する。
相変わらず大きなリュックに、何やらごちゃごちゃした工具を詰めて。
「……で、何するの?」
「特に何も。来たかっただけ」
「でも、たぶん、書くよね?」
黒板は、最後に掃除されたまま、何も書かれていなかった。
でも、私たちにはそこにたしかに“何か”が残っている気がしていた。
私は、チョークを手に取った。
何を書こうか、ずっと考えていたけど、やっぱり決めてこなかった。
そして、静かに一行。
「答えは出なかった。でも、問いは生きている。」
加奈子は隣に、「未来のバネ定数=不明」と大きく落書きした。
蘭子はその下に、記号のような詩のような、彼女らしい式を書いた。
私たちの実験は、いつもどこか歪で、不完全だった。
でも、試行錯誤のその連続が、私たちをここまで連れてきた。
私はふと思う。
「あのとき、“物理研究会に入ってみた”って、
ただそれだけのことが、私の人生の方向を少しずつ変えていったんだ」
3人とも、それぞれ違う道を歩いている。
でも、どこかでこの“問いの連なり”は続いていくと、私は信じている。
気がつけば、夜が更けていた。
私たちはそれぞれ、黒板の隅に名前を記した。
あの頃と同じように。
「佐倉涼子」
「赤﨑蘭子」
「徳田加奈子」
もう制服で物理室に集まることはないかもしれない。
でも、この夜に書いたチョークの跡は、しばらく消さずに残しておこう。
帰り道、誰も多くを語らなかった。
でも、あの黒板の前で交わした静かな笑い声だけで、すべては伝わっていたと思う。
あの頃の私たちは、問い続けることが不安だった。
でも今は違う。
「問い続ける人生って、悪くないかもね」
加奈子の言葉に、私も蘭子も、ただ静かに頷いた。