第132話「だけど、私たちの時間」
(語り手:赤﨑蘭子)
夕暮れどきの物理室。
カーテンのすきまから、赤みがかった光が差し込む。
見慣れた空間なのに、今日は少し、違って見えた。
久しぶりに集まった、私、涼子、加奈子の3人。
それぞれ進学して、別々のキャンパスで生活して、
もう毎日顔を合わせるわけじゃなくなって、
でも今日、ひさしぶりに「高校の物理室」で再会した。
「あれ、机こんなに小さかったっけ?」
加奈子が笑いながら言った。
「……ていうか、こんなに狭かったっけ?」
涼子もぽつりとつぶやいた。
でも私は、言いたくなった。
「狭くなんてなかったよ。たぶん、今の私たちが広くなっただけ」
高校時代のノートを、私はいま手にしている。
開けば、グチャグチャの計算。
途中で力尽きた考察。
“わからない!”って書きなぐったメモ。
でもそのすべてが、かけがえのない時間だった。
「やり残したこと、あるかな」
涼子が静かに言った。
私は答える。
「ううん、たぶん**“やりきる”ってこと自体、なかったんだと思う**」
そう、私たちはいつも途中だった。
結果を出せないまま終わった実験もたくさんあった。
文化祭でうまく説明できなかったこともあった。
でも、だからといって無駄じゃなかった。
答えが出なくても、
結論にたどりつけなくても、
それでも進んでいた。問い続けていた。
——それが、私たちの“物理”だった。
窓の外、夕暮れがゆっくりと夜に変わろうとしている。
涼子がノートを閉じて、加奈子がペンを置いた。
「高校生活って、あっという間だったね」
加奈子がぽつりと言う。
私は笑って答える。
「うん、でも……たしかに“あった時間”だよ」
その瞬間、誰も何も言わなかったけど、
静かな物理室に、私たちの時間だけが流れていた。
実験の音も、笑い声も、紙がめくれる音もない。
でもそこに、ちゃんと“3年間の空気”が残っていた。
成果でもなく、成績でもなく、
ただ、この空間で問い続けた記憶。
それが、私たちの“時間”だった。
帰り道。
何も語らず、でも並んで歩く3人の背中に、
あの頃の「未完成の問い」が、まだついてくる気がした。
この道の先に、何があるのかはわからない。
でも、それでも進む。問い続ける。
それが、私たちの時間の“これから”だから。