第127話「三人、ばらばらの夏」
物理室の扉は、今日は誰にも開けられなかった。
七月の終わり。
かつては「合宿しようよ!」「虫が無理!」と騒いでいた時期。
けれど三年の夏は、いつの間にか、別々の道を歩くようになっていた。
◆
赤﨑蘭子は、図書館にいた。
冷房の効いた自習室の端で、膨大な参考書に囲まれながら、ひたすらノートに数式を書いている。
窓の外は、濃い青空とセミの声。
だけど蘭子の耳には、紙とペンの音しか聞こえていなかった。
──わかってる。夏が勝負。
それは受験勉強のことだけじゃない。
“本当に自分は、物理が好きなのか?”
“物理を武器にして、未来に立てるのか?”
……そんな自問と向き合う夏でもあった。
◆
佐倉涼子は、塾の教室にいた。
生徒じゃない。講師のアルバイトとして。
白板の前に立ち、苦手だったはずの力学を、今は中学生に教えている。
「なんでこうなるのか、先生わかる?」
そう聞かれたとき、一瞬戸惑う。
でも、それを必死に言葉にしようとする自分が、確かにそこにいた。
──教えるって、面白いかもしれない。
そう思ったのは、初めてだった。
物理を“説明する側”になって、やっと見えてきたものがあった。
◆
徳田加奈子は、美術室にいた。
窓全開の蒸し暑い部屋で、扇風機の風を背中に受けながら、
「理科とアートの交差点」みたいな展示をひとりで構想していた。
絵の具のにおい、木材を切る音。
「物理って、こういう色なんじゃない?」
そう思って描いた線が、キャンバスににじんでいく。
──どうしても、言葉じゃ足りない。
それを思い知ったのが、この3年間。
だからこそ、最後の最後まで、自分なりの“表現”を手放したくなかった。
◆
三人が、同じ時間に別々の場所で、別のことをしていた夏。
ばらばらなのに、不思議と孤独ではなかった。
物理室にいた時間が、それぞれの背中を支えている気がした。
きっとまた集まる。
でも、次に顔を合わせるときは、きっと少し違う“自分たち”になっている。
ばらばらの夏は、それぞれが自分を見つめるための、静かな分岐点だった。