第125話「誰にも見せてなかった草案」
(語り手:赤﨑蘭子)
大学の図書館の、いちばん奥の静かな席。
私が今いるのは、前期の中間レポートの提出〆切一日前。
追い詰められた末に逃げ込んだ、半分“避難所”のような場所だ。
でも私は、ワードを開けないでいた。
代わりに、バッグからそっと取り出したのは――
一冊のノート。
黒表紙。中身は真っ白に近い。
誰にも見せてなかった。“草案ノート”。
それは、私が高校の頃から書きためていた、
「いつか自分で発表したい物理のテーマ」のメモ帳。
ふと思いついた仮説、読んだ論文の気になる引用、
加奈子の爆笑プレゼンで使えそうだと思った比喩、
涼子の“なるほど”メモに便乗した図解――
全部、断片で、未完成で、ぐちゃぐちゃなまま。
大学の授業を受けるうちに、
このノートの中身が、“子どもっぽい”と思えてきた。
仮説は甘いし、前提も浅い。
思いつきばっかりで、正直、読み返すのが怖かった。
でも、今日。
課題レポートの参考に、どうしてもひとつ、
高校時代のアイデアを見直したくなって、ノートを開いた。
ページの端に、こんな一文があった。
「たとえば、“好き”の力を物理で説明できたら、
世界はちょっとわかりやすくなるんじゃないか」
私は、思わずペンを止めた。
論理じゃない。数式でもない。
でも、これを書いた“私”が確かにいた。
今の私なら笑うかもしれない。
でも、これを笑ったら、物理を始めた理由ごと捨ててしまいそうだった。
私は、新しいノートを開いた。
そして、書き写す。
草案。仮説未満。願望に近い問い。
でも、これが私の“出発点”だった。
人に見せられる完成稿だけが、物理じゃない。
誰にも見せなかった草案こそ、私の“核”だった。
パソコンを開いて、レポートの題名を書く。
タイトルはまだ決まっていない。
でも、ひとつ決めたことがある。
最初の一文は、このノートの言葉にする。
「私がこのテーマを選んだのは、昔こんな問いを持ったからだ――
“好き”の力は、エネルギーに換算できるか?」
そうだ。
私の物理は、たぶんずっと、“そういう問い”から始まってきた。
なら、今さら取り繕っても仕方ない。
私は、誰にも見せなかったノートを、
今の自分の論文の一行目にした。
これが、
私の物理が“続いている”って証明。