第110話「ありがとう物理室」
(語り手:赤﨑蘭子)
文化祭の夜。
片づけが終わった物理室は、どこか広く見えた。
天井の蛍光灯は半分が消えていて、
カーテンの隙間からは、花火の音だけが届く。
静かな、でも、心に響く音。
「……終わったね」
涼子が椅子に腰をかけながら、ポツリと言った。
「うん、まじで全力出した」
加奈子が黒板に書いた「物理の入り口」という文字を見つめる。
私はというと、例によって“片づけの途中でぼーっとしてた”わけで、
机の上には、まだ質問カードの束が残っていた。
「これさ、あとでまとめて、先生に渡そうかな」
「研究会の“記録”ってこと?」
「そう。最後くらい、形に残したくなった」
誰かの“なんで?”に、全力で答えたこの数週間。
自分の言葉で考えて、説明して、
わかってもらえたとき、目が合う感じがして。
それは、物理が人をつなぐ瞬間だった。
「高校での物理、終わりが見えてきたな」
涼子がぽつり。
「でも、ここからが“本番”って気もする」
私は言った。
「“わからない”に向かい合い続ける。
それって、もう一生やることになるんだなって、ちょっとワクワクした」
加奈子がにやっと笑った。
「まー、私はあれだね。“工作と好奇心とおしゃべり”があればなんとかなるって確信した」
「うん、それは君の才能」
涼子がすかさずツッコむ。
3人で笑ったあと、私は立ち上がり、
物理室の一番奥にある古い実験器具棚の前に立った。
錆びた分銅、動かないアナログスケール、歪んだ音叉。
全部、手に取って、笑ったり悩んだり、あーでもないこーでもないと、
試した記憶の残骸みたいだった。
「ありがとう、物理室」
そう口にしたとき、思っていたより少しだけ、
喉の奥が熱くなった。
教室じゃなかった。
部室でもなかった。
この準備室と、実験室と、そこにあった沈黙と音と、においと――
それが、私の居場所だった。
「来年は、私たちいないんだね」
涼子がつぶやく。
「でも、誰かが入ってくるんだよ。
“なんで?”って顔してさ」
「その時はもう、私たちの名前は残ってないかも」
「でも、机に刻まれた傷とか、使い込んだ器具とか、
そういうのに、ちょっとでも伝わってたらいいな」
私はそう思った。
ふと、加奈子が言った。
「この部屋さ、“思い出”ってより、“今”だよね」
“懐かしい”とかじゃない。
ここでまだ、心が動いてる。
私は深くうなずいた。
「うん。たぶん、私の物理のはじまりは、ここなんだよ」
最後の文化祭が終わっても、
私たちの“なんで?”は終わらない。
物理室よ、ありがとう。
私たちの、最初の“研究室”。