第109話「涼子、進路決定す」
(語り手:佐倉涼子)
放課後の準備室。文化祭の準備物に囲まれたその隅で、
私は一枚の紙を持って、しばらく動けずにいた。
進路志望票。
とうとう、書いてしまったのだ。
自分の未来の輪郭を、ペンでなぞってしまった。
「……書いたの?」
後ろから、蘭子の声。
私はうなずいた。
「うん。理工学部、物理学科」
「……おおお。“物理”に進んだか!」
「うん。結局、物理が一番“長く考えてられる”って思ったから」
それは、確信というよりは、
“あきらめきれなかった”という感覚に近かった。
「研究者とかじゃなくていい。教員とか、企業とか、今はまだ先が見えなくてもいい。
でも、“わからない”を考えることだけは、やめたくなかった」
蘭子が頷いてくれる。
その表情に、私はちょっとだけ救われた気がした。
「なんで悩んでたか、やっと言葉にできた気がする」
私はポツリと言った。
「物理って、“正しさ”があるじゃん。
間違いなく計算できるとか、公式が美しいとか。
でも、私、ずっとその“正しさ”に合わせなきゃいけない気がしてた。
自分の考えが浅かったり、感覚で話したらいけないって思ってた」
蘭子が、小さく笑った。
「でも、涼子ってさ――“感覚を言葉にする”のが、上手いんだよ」
「……え?」
「“なんとなく”の気配を、ちゃんと文章にできる。説明できる。
私、それに何度も助けられたから」
私は、その言葉を聞いて、
やっと肩の荷が降りたような気がした。
自分の“苦手”だと思ってたものが、
いつの間にか、“力”になっていたのかもしれない。
「でさ」
加奈子が準備室に顔を出す。
「……あ、決めた?」
「うん」
「じゃ、パフェでも行く?“進路決定祝い”」
「賛成!」
3年目、夏のはじまり。
私はようやく、自分の“これから”に、言葉を与えられた。
それはまだ、真っ白なページだけど――
物理研究会で書いてきたノートの続きみたいで、ちょっとだけ誇らしかった。