*第七日目 五月十八日(日)
お酒が入って妙にハシャいだ翌朝は、顔を合わせると、テレが入ったよそよそしさを見せる人がある。
夕べは部屋に蚊がいたが、朝晩は冷えるせいか、羽音に悩まされる事も無く・刺される事も無く、朝を迎える。
元々、蚊には好かれない体質?…血液型B型の人間だ。それは、そばにO型の人間がいると、いっそう顕著。何が違うのか?…詳しい理由は知らないが、みんな向こうに集まってくれる。
初めてそれに気づいたのは、まだ小学生の頃。真夏の夕方近い屋外プール。弟と二人で遊んでいた時の事。閉園まぎわになり、陽射しが大きく西に傾き・人波が退くと同時に、蚊が大量発生。O型の弟は、全身蚊に刺されボツボツになりながら、逃げるように退散。なのにこちらは、そのおこぼれ程度。
そしてそれは、蚊に限った事ではないし、今でも実感する事。一例を挙げれば…どういう訳か最近までやっていた仕事、ほとんどがB型とO型の人間ばかりなのだが…
(一部A型もいるが、ナゼか「O型みたいな」A型ばかりだ。そして、「親方」をはっているのは皆「O型タイプ」。ただし、結局は「お山の大将」の域を出ない。一方のB型は、束縛される事が嫌いな「自由人タイプ」。大勢でやる仕事ながら、一人でできる仕事を探しては、群れから離れ、一人勝手に仕事をしている。どちらにしろどちらも、人の言う事に耳を貸さない「サラリーマンには向いていない人種」ばかり。「組織」というものは、「報告に始まり・報告に終わる」仕組みになっている。実作業など、やって当たり前。途中経過に過ぎない。「他人の事など、どこ吹く風」といった人間には、向いていないのだ。そう言う自分もそんなタイプだが、先に述べた事を知っているだけ、まだマシだ)
…とある現場での休憩時間。夏の日の屋外に、対面に置かれたベンチ。
向かいに座る二人の頭上には、それぞれ小虫が逆三角形の渦を作って舞っている。フト、こちら二人の頭上を見上げれば、綺麗な夏の青い空。
こちら二人はB型コンビ。向こうの二人はO型ペアーだった。
『なるほどな』
自分の仮説に自信を深めた瞬間だった。
(事実これは…理由や根拠は未だ不明ながら…科学者も医学者も認める事実らしい。実際、身近な現象などは、すべて解明済みかと思いきや、「ナゼ水は液体より固体の方が体積が増えるか?」「ナゼ虫は闇の光に寄ってきて、自ら火中に飛び込むか?」などの原因は不明なのだ)。
話は変わって…
朝食は六時からとの事で、六時前に起床。
目覚めに、昨晩夕食後、隣りの酒屋前自販機で購入しておいた缶コーヒー。
サプリメントにテーピング。
すでに先客あり。後にもう一人。
(そこから宿を出るまでは、玄関で靴をはいている光景のみ)。
今日は日曜。それでなくても静かな街並なのだろう。お参りを済ませ、境内を出る。
昨日やって来た道を少し進めば、右に入って行く方角に「舌洗の池」と書かれた案内板。
目標の「左前方」とは異なる「右前方」方向。
でも、昨日入って来た新道角に、コンビニにがあったはずだ。先ずは食料調達のため、そこに向かおうと思っていたのでちょうど良い。
その場所に着くと、小さな屋根付き休憩所。まだわずかな距離しか歩いていないが、早々に一休み。
ここは「義経伝説」の地。掲げられた解説の看板によると…
元暦二年(1185)、二月十七日。
「小松島」付近に上陸した「義経」公一行。「屋島」に籠る「平家」進攻の途上、ここで馬に水を飲ませ休憩を取ったと云う。
里人に地名を尋ねると「勝間の井戸」と答え、幸先良いと喜んだとの由。またここは、灌漑用水としても大切にされてきたそうだ。
でも…枯れた石造りの小さな井戸があるだけ。湧き水なのだろうが、出ていなかった。
そこに座っていると…来た来た。宿で二回も行ったのだが…出物・腫れ物、所かまわず。最近、少々「トイレ恐怖症」気味。
元々、好き嫌いはまったく無い。
(ここで他人の悪口を言わせてもらえば、貧しい育ちを語る人間に限って「好き嫌い」が多かったり、食べ方が汚い…つまり「食べ残し」が多かったりするのはナゼだろう? 「皿までなめろ」とは言わない。しかし、ゴハン粒の残った茶碗は見苦しい。また、「過食・飽食の時代」と言われ、自制も必要だろう。でも、「出された物くらい、文句を言わずに綺麗に食べろ。それが礼儀というものだ」と言いたい。最近の付き合いは、「三分でメシを食い、二分でタバコを吸う」なんて、「早食い」を自慢するような奴等ばかりでウンザリしていたところだ。「花粉症」や「アトピー」などのアレルギーにしてもそうだ。偏食な人間に多いように思われる。だから、遺伝もあるのだろうが、同じ食生活・同じ家庭環境、親子でそうなってしまう訳だ)。
さらに、こんな健康的な毎日だと、ハラは減る・メシはうまい…で、ついつい食べ過ぎる。
(修行の基本「粗食に耐え、食べ過ぎに気をつける」とは逆行した行為だが…)。
だから朝に一度や二度のトイレでは足りないのだ。
毎度の事で恐縮だが、生身の人間。映画やドラマでなら、うまい具合に場面が切り替わるのだろうが…
クソも出ればションベンもする。それが現実。そうして毎日、生きてゆかなくてはならない。
「生きる」という事は、そんなに都合良くはいかないものだ。
「ふ~!」
時間切れとなる前に、路地を抜け、コンビニ到着。レジの前にザックを置かせてもらい、先ずはトイレに直行。
ここで、お昼用におにぎり三ケ購入。
その後、新道右側を南下。
数百メーターほど行った所で、前方遥かを、笠に黒い法衣を纏った僧(?)が、右から左に道を横切る。
そこは信号のある交差点。辿り着いて道路の向こう、左側を見れば「四国のみち」の道標と、トタン板にペンキ文字の小さな三角形の看板が…。
あの人がいなかったら、片側一車線とはいえ中央分離帯のある広い道。見落としていたかもしれない。ここで右に行くのが、次のお寺へのコースらしい。
(本当は、宿を出てまっすぐ一本道。先ほどから、ずっと右側に平行して見えていた街並が「遍路道」なのだろう。ガイド・ブックには無い、大きな新しい道ができてしまったのだ)。
見えていた街並に入る。ここも、古い建物が建ち並ぶ。
人気の無い道を標識通りに進んだが、お寺の裏手をグルッと…過ぎて行く。ここは、車用の経路のよう。
そこで目星を付け、人が通れるほどの路地を抜けると、ちょうどお寺の門前。
《第十五番札所》
「薬王山 国分寺」
本尊 薬師如来(伝 行基菩薩作)
開基 行基菩薩
宗派 曹洞宗
「聖武天皇」(在位724~729)の勅命で建立された寺。
弘法大師が刻んだ「鳥瑟沙摩王尊」像が祀られている。
山門の所には、お接待の白髪混じりの男性。細身の五十歳前後か? 穏やかな口調で、荷物を両脇のベンチにどうぞ…と言ってくれる。
日の光が燦々と降り注ぐが、カラッとしており気持ちが良い…と思っていたが、ザックを降ろすと、接する背中の部分にはすでに汗。
ベンチに腰掛け、しばし雑談。
手作りの布製ケースに入った、ポケット・ティッシュを頂く。とある熱心な篤信家の女性…かなりの高齢との事…に頼まれたものなのだそうだ。
もう、自分では歩けない。つまり、「お接待をする」という行為は、「自分の思いを巡礼者に託す」ことなのだ。
たとえば、「餞別」という行為。「お伊勢参り」が発祥ではないか?…といった話を聞いた事がある。
江戸時代の頃に盛んに行なわれた「伊勢詣出」。かと言って、誰もが出掛けられるわけではない。発つ人に「餞別」を渡して、自分の代わりに・自分の思いを託したという次第らしい。
「お接待は断ってはいけない」…でもそのせいで、事件も起きている…などといった話も聞かされる。
特に若い女性は要注意だが、こちらは齢四十。そんなにウブではない。
「さて!」
時刻はまだ八時代だが、歩き遍路さんの姿もチラホラ。一息ついたところでお参り。
ここも「国分寺」址。遺構が残り、本堂も古めかしい。ケバくなくて、古臭くて、いかにも遺跡といった風情。見ているだけでカビ臭さが漂ってきそうで、かなり良い。
帰り際、先ほどのおじさんからお茶のペット・ボトルを一本頂き、次を目指す。
狭い道。静かで閑散とした家々の間を抜け800メーター。溜池から少し上がった所に…
《第十四番札所》
「盛寿山 常楽寺」
本尊 弥勒菩薩(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 高野山真言宗
弘仁六年(815)、「弘法大師」がここで「弥勒菩薩」の像を刻み、堂宇を建立して安置したお寺。
ゴツゴツした岩盤の上に建っている。
納経所は新しいが、ここも前のお寺同様、販売機も無い静かなお寺だ。
でも、今日は日曜。まだ八時半ほどだが、「国分寺」と同じく、ポツポツとではあるが人が絶える事はない。
山門を少し入った、納経所前のベンチに座ってしばし。
先ほど頂いたお茶を飲みながら、本堂を眺めたり…隣りに座った太ったおじさんとふたこと・みこと、言葉を交わしたり…と、少々長居。
車利用や団体さんばかりでなく、歩き遍路の人も(否、歩きであるからこそ、いっそう)やる事やったらサッサと立ち去る人が多いが…お経もあげなければ、納経もしていないニセ遍路だが、せっかくの札所では、できるだけ長い時間を過ごしたいものだ。
次のお寺までは、標識によれば2・3キロとの事。
右に左に細い道。少し登ると、溜池や水田。やがて下って、裏から集落に入る感じで「県道207号」に突き当たる。ここを右。
さらに進んで、「鮎喰川」を渡る「一宮橋」へ。歩道のある右側歩行。緩やかに下る長い橋。
対岸に着いた所で、自転車・歩行者用の、橋の真下へ降りるスロープ。ここに「へんろマーク」発見。そこを通って右下に降りる。
「へんろマーク」や「四国のみち」の標識に従い、田んぼに囲まれた道。
『?』
道路左脇を流れる用水路(それとも小川?)。
フトのぞいてみれば…「おっきなカエルにオタマジャクシ」。
昨日のあの娘が言っていたのは、コイツらの事か?
『気候が良いからデカくなるんだよ』
そう思う。
そこを過ぎるとほどなく、けっこう車も通る道に出る。「県道21号」。周辺には宿が数軒。右折したすぐ右側が、次のお寺。
《第十三番札所》
「大栗山 大日寺」
本尊 十一面観世音菩薩(伝 行基菩薩作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗大覚寺派
弘仁六年(815)、護摩修法中の「弘法大師」が「大日如来」の霊示を受け、「大師ケ森」(現在の徳島市入田町海先)に建立。
元亀・天正の兵火で焼失後再建されるも、「一宮神社」の別当寺としてここに移転される。
道路のすぐ脇にへばり付くように建つ、狭いお寺だ。
中に入ると…先ほど十四番や十五番で見掛けたマウンテン・バイクのおじちゃんと若者のコンビ。巡礼なのか? 逆打ちなのか?
それに、「昔はツッパリ風」庭師のおじさんが、仕事をしているだけ。
「ふ~…」
今日は日曜。本日は「休足日」。
お参り後、道路向かいの「一宮神社」の境内で、先ほどからボ~ッとしている。
歩いているルートは、第十二番への道。ここは、道中いくつかある難所「遍路ころがし」の一発目を、逆にたどるコース。
(「八十一番 白峯寺」への「遍路ころがし」は、前に述べた通りだ)。
本日出て来た宿から、宿坊のある第十二番を過ぎて、麓の街まで降りるには行程が長過ぎる。
そこで、本格的な登りに掛かる前の地点に、今晩の宿を決めてあった。
しかしそこまでなら、時間も距離も十分過ぎる。石のベンチに腰掛け、しばし境内を眺めていた。
訪れる人はポツン…ポツン。こういった「無」の時間を、こういった場所で過ごせるなんて…良いものだ。
でもいつまでも、こうしてはいられない。
時は十時二十分。目の前の道を、上に向かって歩き出す。
『こんな夏なら最高なのに』
梅雨入り前の晴天の日は、いつもそう思う。日向は暑いがカラッとしており、日陰に入れば涼しいくらい。
でも、路肩はあるがそれほど幅のある道ではないし、車通りも結構ある。郊外のせいか飛ばしている車も多く、少々歩き難い。
それに、『この道でいいのだろうか?』。
このまま行ったのでは、本日の宿泊地に早く着きすぎてしまう。そこで、左に入った十三番の奥之院、番外霊場「建治寺」を経由しようと思っていたのだが…
「入田町」の少し大きな集落に入ったところで、右側を流れているであろう川の方向に向かってみる。数百メーター入った所にあった橋の名は「春日橋」。
『しまった!』
目的地への左折路は、すでに通り過ぎている。
先ほど、不安のままに通過した道の左上に、宗教風建物が見えた場所があった。そんなに近いはずはないが、あそこが入口かもしれない。
とりあえず…アセッても仕方ない。橋の手前にあった、公共の物と思しき新しい建物。そこの道路沿いに設置されたベンチに座り、一息入れるが…『ハテ?』。
先ほどから、大勢の人が車で乗り着けては、建物に出入りしている。
今日は「徳島県」の「出直し知事選」。どうやらここが、この地区の投票所になっているようだ。
ただし、「大勢」とは言っても、この街にしては…という意味。
それにしても、投票に来るのだからそれなりの年齢なのだろうが、こんな所(失礼)にも、けっこう若い女性がいるようだ。
そんな光景を眺めながらしばし。
その後、少し戻って、進行方向左、山側にある小高い丘を目指す。
上には、お寺らしき建物が見える。たどり着いてみれば、二段瓦屋根の古いお寺。
「紫雲山 西福寺」とある。
人気のまったく無い本堂には、赤・黄・緑・紫の幕が垂らされて、怪し気な雰囲気がとても良い。
そのすぐ先には、古ぼけた神社。
でも、この道は違ったようだ。間もなく下って、民家が点在するあたりに出てしまう。
突き当たった左角の家。垣根の所に、補聴器を着けたおじいちゃん。少し大きな声で、はっきりと道を尋ねると…予想に反して、ハキハキと教えてくれる。
今突き当たったこの道を、左に登って行けばいいそうだ。
ツイてる。運が良い。その細い道を上へ。
やがて分かれ道には「へんろマーク」。さらに細い道を右へ。
民家も畑もまったく無い山の中。先ほど下の県道で見掛けた、ドカヘルでスクーターに乗るおじちゃんが降りて来た。会釈。
左下には沢が流れ、少し湿り気を帯びた森の中に入る。
でも、いつの時代の物か? いったい何があったのか? 家の土台とも思われる、草に覆われた石垣が残っていたり…昔ここは、どんな感じだったのだろう?…などと思いを巡らしてしまう。
道は細いが、まだ舗装。
やがて、二つ目の分岐点。左には「車両通行不可」の文字があったのだが…ちょうど右上から、おじさん二人が乗った軽乗用車が降りて来て、そちらに入って行く。
こちらは滝経由の道。車の後を追うかたちで、こちらもそちらへ。
道はさらに細くなり、間もなく地道。いくつか登ったつづら折れ。カーブの途中で、先ほどの車が切り返し。方向転換をしているようだ。
ここで、そのおじさん達と少々立ち話。地元の人ではないのだろう。滝があると聞いたので入って来たと言う。「歩いて行こう」などと話し合っていたが、こちらはサッサと先へ。
気がつけば、道はすっかりハイキング・コース。崩れ落ちそうな木の鳥居から先は、かなりきつい登り。
おまけに、木が倒れていたり…急斜面で倒木をまたぐのは、けっこう骨の折れる仕事だ。それに、下草で隠されているが、足場も悪い。こんな所、訪れる人はあまりいないのだろう。荒れ放題といった観。
山の中の石ころなんて、誰かが手を触れなければ、永遠にそのままそこにありそうなものだが…雨も降れば、霜柱も立つ。大気の存在する地球では、たとえば月面に見られるようなクレーターも消えてしまう。この地上に、不変・不動、永遠不滅の物などありえ無い。
だが、「唯物論」的に考えれば、月面の・木星や土星の衛星の・果ては未知の惑星の石ころは永遠不滅。太古の昔からそこにあり、永劫の未来までそこにあるはずだが…
「唯心論」によれば、それらは誰かによって認識されて、初めて「存在」する事になる…らしい。
(この考えを、さらに推し進めたものに「人間原理宇宙論」とういものがある。この「宇宙」を認識してくれる存在がなければ、この「宇宙」は存在する意義がない。ゆえに、人類が誕生したのは「必然」によるものだ…とする考え方だ)。
電子や素粒子など、ミクロの世界を扱う「量子力学」などは、こういった考え方をしないと理解できないそうだ。
かなり曖昧で、偶然に支配されているように見える世界。
「神はサイコロを振らない」
晩年の「アインシュタイン」先生の言葉だ。自らの理論により導き出された、この世の矛盾。高名な天才科学者も、失意のうちに亡くなったのだ。
(もっとも、すでにご存知の事とは思うが、生来のヘソ曲がり。「アインシュタイン」先生とて、言われているほどの天才だったとは思っていない。多眠で知られた大先生。『相対性理論』のヒントも、夢の中でひらめいたと云う。単なる「運の良い夢想家」だったのではないだろうか?)。
しかし科学者なんて、因果な商売だ。頭が良ければ良いほど、自分が「究極の真理」にたどり着けない事に気づくのだろう。
そういった意味では、「ニュートン」先生などは、かなりの幸せ者だ。いったんは、彼の理論をもって、物理学の「終息宣言」が出されたのだから…つまり、「すべての物理法則は解き明かされた」とされたのだ。確かに「ニュートン力学」は、この地球上に於いては、ほとんど完璧に機能する…らしい。
だが、この地球環境というものは、全宇宙から見れば、いたって特殊な場なのだそうだ。
たとえば、誰でもが良く知っている物質の三態「気体・液体・固体」にしてもしかり。宇宙規模で見れば、四態目の「プラズマ体」の方がポピュラーなのだそうだ。
(原子から電子が遊離した状態。大気圏突入時のスペース・シャトル表面は、高温のため、この状態にあるそうだ)。
また宇宙の平均温度3Kは、「摂氏」で表わすとマイナス270度。
(「絶対0度」はマイナス273度だ)。
これは、物質の粘性が消える「超伝導」状態が当たり前に起こる環境だ。
(ちなみに、絶対温度の単位「K―ケルビン」は、物理学の終息を宣言した科学者「ケルビン卿」を讃えたものだ)。
しかし、そこに天才「アインシュタイン」博士が登場し、『相対性理論』を創唱!
(『光量子理論』―光は「粒子」と「波」という、相反する性質を併せ持つ…とする理論。大先生が「ノーベル物理学賞」を受賞したのは、かの有名な『相対性理論』ではなく、先に発表されたこの理論によってだ)。
『相対性理論』―この理論が提唱された当初、「理解できるのは世界で数人しかいない」と言われたそうだが、今や「古典物理学」と呼ばれる。一言で述べるなら…
『特殊相対性理論』=すべてのもの―時間・長さ・質量は相対的。この宇宙で唯一不変のものは「光の速度」だけ…となる。
(『光量子理論』で光の性質を解き明かした、「アインシュタイン」先生の面目躍如といったところだ。しかし…ならば、この地球を宇宙の中心に据える「天動説」だって、可能となるのではないか?)。
『一般相対性理論』=「万有引力」等、「重量場」に関する理論。
…など、当時の人には考えもつかなかった理論を提出し、振り出しに戻ってしまったわけなのだ。
現在では、『超ひも理論』や『M理論』が提唱されている。
(「M」とは「膜」という意味だ)。
それによれば…物質の最小単位は、限りなく「ゼロ次元」(縦・横・高さの無い、究極の「・」の事)に近い点ではなく、ある程度の広がりを持った「ひも」状の物が振動した状態である…これが「スーパーストリング理論」。
ところが、ロープも遠くから見れば線になり、筒も切り開けば面になる。「ひも」を切り開いた「膜」状の物が物質の最小単位であるとするのが「M理論」。
(しかし、分子の先に原子・原子の先に素粒子があったのと同様、まだまだ先があるかもしれない)。
ちなみに、その理論によれば、この世は10(超ひも理論)~11(M理論)次元で構成されているそうだ。
たとえば、高さの無い空間が横倒しになっていたら、その空間には気づきもしないだろう。この世界は、複雑に巻き上がった空間で出来ている。今のところ、人類の技術では、その理論を実験・実証する手立てすら無いのだ。人間には知覚・測定できない次元や空間があるとしたら…
天文学的問題「暗黒物質」―この宇宙は、人間が観測できる物質だけでは、あまりにも質量が少な過ぎるそうだ。人間が知覚できるのは(つまり、私達が「物質」と呼んでいる物は)、たったの4パーセントにすぎないという。目には見えない、「暗黒物質」と名付けられた「なにか」が必要らしい。
物理学的発見「真空のエネルギー」―からっぽの「無」とされている「真空空間」から、突如素粒子が誕生する事があるらしい。
また、素粒子レベルでは、「空間移動―テレポーテーション」すら確認されているのだ。
最近では、空間自体「物質」である…との説がある。なるほど、「重力場理論」によれば、「質量を持った物質の近くでは、空間が歪む」とされるが、何も無いなら歪むはずはないわけだ。
「色即是空 空即是色」
「空」は読んで字のごとし。「空間」を意味しているのかもしれない。
案外、前述の「暗黒物質」とも関わりがあり、ひいては「ビッグバン」の謎に近づけるかもしれないし…さらには科学ばかりではない。「霊」や「悟り」、「神」や「仏」に…
『西洋物質文明・唯物主義に限界を感じた科学者・哲学者・思想家・芸術家が、東洋思想に傾倒するのも当然の成り行きだ』
そんなこ難しい事を考えながら歩く。汗が吹き出す頃、滝に到着。
しかし、滝とは言っても小さなもの。流れる量も、銭湯の打たせ湯並み。水量が少ない時期なのか? 岩肌に沿って、湧き水が落ちて来る程度。
祠と案内板のある右側に回る。
ここは「建治の滝」。落差もそれ程ではないが、雰囲気はある。
そして「滝行」の場。
「修行」というと滝に打たれる場面を思い浮かべるが、門外漢が不用意に行なうと身の危険すらあるそうだ。「その道」の人にとっては、心身の汚れを洗い流し、水のパワーを吸収する行為だが、その分あたりには、洗い落とされた穢れや低級な霊が漂っている。先達に着いてきちんとした手順を踏まないと、それら悪霊に憑依され、金縛りや乱心する事があるという。冗談半分にやっていいものではないようだ。
(意外に、銭湯や温泉の「打たせ湯」、お湯が止められ使用不可になっている所が多い。案外、何か理由があっての事だろう…と思っている)。
かつて若かりし頃、訪れた南の島の滝つぼで泳いだ事もあるが、そういった事には割りと敏感、人に言われなくとも「百も承知」なところがあった。
人並みに悪戯をする子供ではあったが、昔から、ナゼかそういったものには用心深かった。だから「コックリさん」が流行った時にも一切近づかなかったし、学校行事など以外で「きもだめし」に参加した事もない。心霊モノの映画やドラマもなるべく見ないようにしているし、心霊スポット巡りなどといった行為はもってのほかだ。「臆病だから」ではない。そういったものを、半ば信じているからだ。
「興味本位で、無闇にそういったものを冒すべきではない」
それが持っている持論だ。
(そうそう、映画「エクソシスト」が公開され、「コックリさん」が流行した中学生の頃は、「トイレット・ペーパー買い占め騒動」で有名な「オイル・ショック」のまっただ中。「バブル景気」崩壊後の現在も、ちょっとしたオカルト・ブーム。景気が良いとスポーツカーが売れるようになり、モーター・スポーツは盛り上がる。しかし景気が後退すると、オカルト・心霊ものが頭をもたげるものなのだ)。
祠の所で、小径は二股に分かれている。ここからさらに登り。
左はロープのある岩場。その先には、鉄製ハシゴが崖上まで掛かっている。
右は、古くなった木製ハシゴが並んでいる場所もあるが緩やかな道。
ここがコースだと思い、左のルートをよじ登るが…かなりの急角度。直立近くに立て掛けられたハシゴでは、重たいザックを背負っているので重心が後ろに掛かり、少々怖いくらい。
そして登ったはいいが、今度は崖っぷちに張り付いて行かなくてはならないような場所。
「う~ん…」
子供の頃に見た冒険モノか、「インディアナ・ジョーンズ」ばり。先を見ても、右に回り込んだ断崖は、果たして続いているのか???
事件・事故・災害で、九死に一生を得た…ゆえに運が良い・強い霊に守られている…などといった論を展開する人もいるが…こちらは、そんな人達よりも、もっと強運だ。なにしろ、そんな場面に出くわした事は一度も無い。もし「本当に運が良い」「なにものかに守られている」なら、始めから危険な場所・場面などには出くわさないはずだ。
どちらにしたって、背中に重い荷物を背負って、オーバーハング気味の崖沿いなんて…足がすくんでしまう。
高い所は嫌いではないが、無用なリスクは避けるべき…言いたいのは、落ちる落ちない以前の話。
高所作業での、こんな話を聞いた事がある。
高層ビルの工事現場。ついさっきまで、細い梁の上をヒョイヒョイと歩いていた男が、何かのキッカケで恐怖心にかられ、行った先で身体がまったく動かなくなってしまったそうだ。半ベソをかきながらうずくまっているところを、鳶の仲間に引きずり戻される…独りでそんな事態に陥ってしまったら、もう戻っては来られない。「下を見るな」は、案外本当なのだ。
(現在までの仕事でも、多少の高さに登る必要があった。そこまでいかなくとも…『これ以上はヤバい』…それに近い経験はした事がある。自分の限界はわきまえているつもりだ)。
“Fear Will Not Kill You”―恐怖では死なない―
とある映画で、拳法の達人が、ビルの屋上の縁を走り回る訓練をしている時に、弟子に語ったセリフだ。
集中力で恐怖心を追い払うためのトレーニング。でも、果たしてそうだろうか?
モーター・スポーツでは、よくこんな話が引用される。曰く「地上で1メーターの幅を跳び越すのは簡単だ。でも、数十メーターの高さでそれができるか?」。
(ちなみに、地上十階ほどの高さ、つまり、適度に下が見えるくらいの高さが一番恐怖心をあおるそうだ。スカイ・ダイビングほどの高度まで上がってしまうと、かえって怖さが薄れると言う)。
極限の状態では、簡単にできる事もできなくなる。心理的な要素が強い命題ではあるが、恐怖にかられて我を見失えば、「恐怖」に殺されかねない。
『たぶんここは、展望台みたいなもの』
さほど眺めは良くなかったが、そう割り切って降りて来る。
(確認はできなかったが、滝で身を清めた後、「鎖の行場」へと続く「梯子の行場」であるようだ。どちらにしろ、素人が安易な気持ちで立ち入ってよい場所ではない)。
降りてみれば、すぐ脇が道のようだ。そこを行けば「へんろマーク」出現。「緩やかな道」と思われる小道が右から合流。
少し行けば、左上に向かう鎖場があるが『もうコリゴリだ』。
そのまま進むと…上方に石の柵が見えてきて…石段になってお寺の下。さらに階段を登ると…
番外霊場「大滝山 建治寺」
コーラの赤い自販機が見える。先ずは、まっすぐそこへ。
コーラの百円缶。ガブガブ飲みながら、息を整える。もう汗グッショリ。
本日は、山道に少々危ないと思いながらも、先ほど休んだ麓の街からTシャツ一枚。ここで脱いだTシャツをザックの背に掛け、素肌に長袖シャツを着る。
「ふ~!」
やっと一息、あたりを見回す。
ここは山の上方。周りは木々に覆われており、詳しい様子はわからないが…山の傾斜地の、ネコの額ほどの敷地に、押し込められるように建てられた小さなお寺。
でも造りは立派で、手入れも行き届いている。
掲げられた縁起によると…
開基は白鳳時代、「天智天皇」(在位661~667)の頃、役行者「神変大菩薩」による。
弘仁年間(810~824)、四国巡錫中の「弘法大師」が修行場所として逗留。
ある夜、「金剛蔵王大権現」を感得。斎戒沐浴して御本尊を彫刻。本尊として祀られる事となった。
(ここで一言。「縁起」とは仏教用語で、「事物の起源・由来」。つまり、社寺・宝物などの由来、あるいはそれを記した文書の事)。
こんな場所の番外霊場、参詣客はもちろん、お遍路さんの姿も無い。お参りをし、同じ銘柄の缶のお茶を、減ったペット・ボトルに足して…時間はちょうど12時代。
でも、お寺の人しかいないここで、昼飯を広げるのは気が退ける。それに、景色も見渡せないし…境内を出て、先に見える駐車場の方へ向かうと、左上に登る小道がある。『時間もあるし』と行ってみる。
「◯◯明神」を通り、鐘撞き堂の少し上手。上部に祠風の二重屋根が載った、2~3メーターほどの高さの石垣の塔。「大瀧山」と刻まれてある。横には「皇太子御成婚記念」の碑。
その塔の正面下。下界を見下ろせる、たぶん東側に、プラスチック製のベンチ。
背もたれは無いが、石垣がちょうど良い角度で末広がりになっている。ここで、朝買ったおにぎり三個。食後、石垣に背をもたれていると…霞んでいて遠望は利かないが、見晴らしも良く、塔で日陰になっており、最高のお昼寝タイム。「う~ん…」と、少々まどろんでしまう。
1時少し前。フッと我に返り、ここを発つ。
駐車場先に、目指す方角へと延びている道。そこを下って行くと「へんろマーク」。舗装路から、ハイキング・コース風の遍路道へ。狭くて急な小径を下る。マムシやハチの出そうな場所を降りて行くと、間もなく綺麗な舗装路に出る。
たぶん、この道路向かいあたりに遍路コースが続いていたのだろう。しかしそうとは気づかず、その舗装路を、下っている右の方角へと向かってしまう。
ガイド・ブックに記載は無いが、今ではこのあたり、「森林公園」になっている。そのせいか車も通るが、歩道は無し。道幅はまあまあ広いので、どんどん下る。
緑地帯があったり…ゲートボール場で楽しむ、お年寄りの集団がいたり…やがて下方に、県道らしき道と橋・その周辺に広がる集落が見えてきた。
下りてみると…出た所は、予定よりずっと手前の「高瀬」という集落。
この時になって、先に述べたように、「遍路道を見落としていた?」あるいは「反対方向に向かってしまった?」ことに気づく。まあ時間もあるし、問題無い。
ここで県道に左折。再び、前のお寺から続いている「21号」。目指す次のお寺方面から降りて来る「お遍路バス」も多い。
道はおおむね川沿い。峡谷や谷底とまではいかないが、高度を増すにつれ、川幅は狭くなり、両側から山々が迫ってくる。
先ずは、進行方向に向かって川の左岸。対岸にも、旧道なのだろうか? ずっと川沿いに道がある。時おり地図を見ながら進む。渡る場所を間違えたら大変だ。深い谷では渡れない。
ここは、すでに何度か登場した「鮎喰川」。それにしても、綺麗な水だ。まっさらに澄んでいる。川底の石もくっきり見える。清々と流れており、コケも生えなければノロも着かない…といった感じ。
四国の川は、どこへ行っても、一歩入れば清流だ。ここだって、徳島市内まで、それほどの距離があるわけではない。なのに、こんなに水が澄んでいるのは、距離が短いし、すぐに山だから、上流にヘンな物が無いからだろう。
『こんな所で育っていたら…』
「高度経済成長期」のまっただ中に育った。地方都市とはいえ、県庁所在地の、駅まで歩いて数分の所に住んでいた。近くを流れる川は、どこもドブ川だった。「魚釣り」とはまったく縁の無い人生を歩んでいるのは、そのせいか?
(もっとも、たとえそれが生きていなくとも、魚を触るのは大の苦手なのだが…それもその弊害?)。
『こんな所で育っていたら…』
釣り遊びに興じていたやもしれぬ。
(しかし、「高い山を志して行く」。そんな大そうな名前とは裏腹に、「そこに山があったって」、決して登ろうなどと考える人間ではなかった。なのに、どうしてこんな風になってしまったのか?)。
『あの頃は、海も汚かった』
「海無し県」に住んではいたが、年に一度は太平洋岸に海水浴に出掛けたものだ。
『黒潮っていうくらいだから黒いんだ』
あの頃は、本気でそう思っていた。
『本当は澄んでいる』
その事に気づいたのは、三十も後半になり、イイ年になってサーフィンを始めてからだ。
数々の規制のおかげだろう。今では同じ海岸でも、浅瀬なら海底が見えるほどだ。そういった点では、現代もまんざら悪くない。
テクテクテクテク、歩く歩く歩く。
途中の、細い旧道が残っている箇所で…本来通ろうと思っていた、「建治寺」からと思しき道との合流前だったか? 後だったか? とにかくその近辺。道幅が極端に狭くなっている場所で、正面から続けざまに二人、お遍路さんがやって来る。前を行くのは、十番で見掛けた、大きなザックの白髪混じりのおじさん遍路さん。
(かなりお疲れのご様子だ)。
続いて、九番にいた、荷物満載の学生遍路さん。車では、交互通行しなくてはならないほどの道幅。大学生の彼とは、狭い道の“あっち”と“こっち”で声を掛け合う。
やがて「広野」の集落の入口付近。
道端にあった自販機前で、缶ココアをガブ飲み。でも、ユックリできるような場所ではない。
すぐ先の下方に、吊り橋が見える。学校脇の細い道に入って、その吊り橋を渡る。歩行者・自転車用。学校があるからだろう。
対岸には、細いが時おり車も通る山際の道。先に進めば、車が通れる橋のたもとに出る。
酒屋・ガソリンスタンド・JAの建物などがある。このあたりにしては大きな集落。
そこを過ぎ、右岸側をさらに・さらに進む。集落は抜けたが、民家は点々と点在している。
綺麗な川なので、川原に降りてみたいと思っていたのだが…今日は日曜日。降り口のある先では、バーベキューをやっていたり…畑仕事用の農道だったり。結局えんえんと歩いていた。
そのうち、ガイド・ブックによると、左に渡らなくてはいけないあたり…で、「へんろマーク」発見。左下の川原に降りるようだ。
下を見ると木の橋。両の枠木の間に、縦長の木板を三列に並べただけ。良い雰囲気だが、でも…足を載せるとギシギシきしむ。
『抜け落ちないだろうか?』
少々不安だが、ここも潜水橋なのだろう、すぐ下を水が流れる。橋の長さは2~30メーターほどだろうか。そろりそろりと歩く。これでは人しか渡れない…といった感じ。
橋を渡り切ると、左側の川岸に良い岩場。多少ゴツゴツしているが、靴を脱いで座り込める大きさの岩の上。乾パンなどをかじりながら、ここでしばらく時間調整。時刻はまだ三時代。宿は、先に見える小高い丘を越えればあるはずだ。
少し上流に釣り人ひとり。黒いアゲハが飛び回っている。川の流れる音を聴きながら、しばし寛ぐ。こわごわ渡っていた橋を、自転車で駆け抜ける、中学生の男の子が一人。
やがて、四時少し前。靴を履いて、本日最後の歩行。
きついが短い登りを登ると、川の両岸に広がる集落が見える。先ほどの「広野」ほどではないが、大きめの集落。ここから若干下った、開けた地形に広がっている。
キョロキョロしながら入って行くと、右手で畑仕事をしているおじいちゃん。宿の所在地を尋ねると、すぐ対岸に見える家を示して「あそこだ」と教えてくれる。
「あそこに見えるカーブ・ミラー。そこを右に曲がれば橋がある」
言われた通りに進んで、橋を渡る。
その先で突き当たった道のすぐ右側に、本日の小さなお宿。「○○旅館」。控え目な看板が出ているが、それが無ければすっかり民家。こういうのも、悪くない。
今NHKで、七十年代の歌謡曲をやっている。
小学・中学・高校の頃。「カギッ子」という言葉が登場し、「もやしっ子」と言われ、「シラケ世代」と呼ばれて育った。あの頃は、「ん~、べっつに~」が口癖だった。
(ならば、今の子供達はどうだ? 「体力の低下」「無気力・無関心」等が嘆かれるのは、いつの時代も同じなのかもしれない)。
そして今、四国を歩いている。だから…「今の若いモンは…」。そんなセリフだけは吐かないように、気を付けているつもりだ。
今日の宿泊客は…もしかしたら、たった一人?
ここは、変な歩き方をしている人間には好都合だが、通常の「歩き遍路」からすると、地理的に中途半端な場所。
四時ジャストに宿に入り、旅に出て初めてのビールを飲んでいる。
風呂上りの瓶ビール。フワフワして、何だかとっても良い気分。
(早い時間に入ったので、宿のおばちゃんは敷地の脇でゴミ燃し&草むしり。「まだゴハンが炊けなくて」と恐縮していたが、あまり早くてはこちらが困ってしまう)。
イナカの家にありそうな、脚の太い、大きな・重そうなテーブルに向かって、本日の記録を書いている。
それにしても、これも何かの縁?
今、「香川」・「徳島」は、全国ネットの七時のニュースの一番・二番。
一番は…ただ今、東南アジア方面で大流行中の新型肺炎「SARS」(重症急性呼吸器症候群)。ちょうど四国入りした頃、「サーズ」保菌者の台湾人医師が、観光で「京都」などを回った後、つい先日通ってきた「高松」の「栗林公園」などを訪れていたのだそうだ。
そして次は、本日行なわれていた「徳島」の「出直し知事選」。
「ふあ~」
欠伸が出る。
部屋は、サッシの引き戸の玄関を入り、上がったすぐ右側の和室。
中もすっかり民家の一室。床の間もあり、この家一番の部屋なのだろう。
部屋の反対側。トイレへの廊下に出ると木の香り。
(最近、トイレとお風呂は改装したのだそうだ)。
まわりはカエルや虫の鳴き声があふれていて…おばちゃんとおばあちゃん、二人でやっているこの宿に、今晩の宿泊客はただ一人。
(夕食は部屋で。食後、寝床の用意をしてくれているおばちゃんと少々世間話。近くの温泉に宿ができたので、客足が減ったとグチをこぼしていた)。
足にはマメと靴ズレ。手にはペンダコができ始めた。
「ふあ~」
アクビをもう一発。そろそろ十時、もう寝よう。
今日は札所も三つ回ったし、距離の割りには盛りだくさんな一日となった。
本日の歩行 25・66キロ
33329歩
累 計 218・08キロ
283259歩