*第五日目 五月十六日(金)
毎日行く所があるというのは、良いものだ。変化があって、退屈しない。本日は、「終点」から「始点」方面を目指す。
夕べは良く眠れなかったが、朝は五時起き。外は山間のせいか、まだ少し薄暗い。
夜半に強まった雨も上がり、雲は多いが降り出す心配はなさそうだ。
先ずは、毎日の日課…「朝のお勤め」テープ巻き。
洗濯物は、まだ生乾き。
すっかり支度を整えて、六時ジャスト、一番に一階の食堂へ。すぐ後に、昨日お寺で見かけたおじさんが入って来て、正面に座る。
(といっても、若干年上程度。五十は行ってないと思われる)。
こちらがどこからやって来たのか、すでに知っている様子。「群馬の藤岡」からやって来たと話し出す。
『へえ~』
仕事で頻繁に訪れる場所だ。
ここのおばちゃんの孫が、「高崎」(藤岡の隣りだ)の実業団(?)のソフトボール部の○○さんだ…とか、「百名山」回ってる…とか。
(でも、登っているわけではないようだ)。
写真が趣味らしい。
(そう言えば、昨日も三脚を構えていたっけ)。
関東の人なのに、言葉以外は見かけも態度も関西風の「オッチャン」といった雰囲気。
昨晩のおじさん二人組みも降りて来るが、少々飲み過ぎの体。
一番に席を立ち、宿代を払い、荷物を担いで六時半、宿を出る。
と、宿の向かいに自販機あり。
『少し行ってからコーヒーでも飲もう』と、先ず百円玉を入れたのだが…
『ん?』
すかさず一つだけ、「販売可」の赤いランプが灯る。
値札には「120円」とあるので、残り二十円を入れると、全商品の赤ランプ点灯。
でもせっかくだ。「ヨーロピアン・テイスト」とサブ・タイトルのついたその缶コーヒーをセレクト…すると、商品プラスおつり百十円。実質十円の缶コーヒー。
今日も朝からツイている。
「さて」
宿の前の道は、昨日上って来た「国道377号線」。
道はここで頂上を極めるので、本日は下り。方角は、おおかた東向き。路面はまだ濡れているが、時おり日も差し始めた。
しっとりと濡れた木々。湿り気を帯びた空気。山の上なので少しひんやりするが、このまま雨が降らなければ、かえって歩きやすいだろう。
国道は、所々拡張された箇所もあるが、旧態然とした場所は超極細。そんな所に差し掛かった折、クラクション一発、「群馬のオッチャン」の軽のワンボックスが走り去る。
以降も、ず~っと下り。時々集落。
「ワン! ワン! ワン!」
ここに限らず、こちらの、特に田舎は、犬を飼っている家が多い。
「ワン! ワン! ワン!」
やかましくもあるが、前にも書いた通り、「鳴かない犬では番犬にならぬ」と納得する事にしている。
野犬も多いが、野良はまず吠えかかってくる事は無い。
脇道に逸れる事も無く、下りが続く。
やがて、歩き出して一時間弱。「長野」の分岐に至る。
赤いランドセルを背負った女の子と朝の挨拶。国道を逸れ、女の子がやって来た右の道に入る。
話も脇道に逸れるが、「ランドセル廃止」を提案する者。
ランドセル製造業者さんには悪いが、小学生の女の子が事件に巻き込まれる確率は、圧倒的に下校途中が多いような気がするのだが…
その一因に、「黄色い帽子」と「赤いランドセル」が大いに関係していると思えるのだ。
コスプレに限らず、昔から「制服フェチ」というものは存在した。それに相通じる心理があると思う。
朝は集団登校しているから安心だが…いらぬトラブルを避けるためにも、専門家に分析してもらい、一考の余地があるのではないだろうか?
集落を抜け、田畑の一本道を行けば、「徳島県市場町」の標識。
歩いて県境を越えるなんて、生まれて初めての経験。朝日も、進行方向に見える山の向こうから顔を出す。感動もひとしお。ここでパチリと写真を一枚。
この後、「大影」までの1キロほどの区間は、狭くて日陰側の川沿いの道。
その後、広い県道に合流。合流地点には、消防団の建物と、公民館と思われる建物のある広場。ここで小休止後、「県道2号」を右へと歩き出す。
傾斜は緩くなってくるが、まだまだ下り。両側を連なる山々に挟まれ、流れる「日開谷川」を右に左に…といった道。
『あっちが旧道かな?』と、対岸を走る細い道に気を取られながらも、県道を行く。
「鴨長明」(あるいは「かものながあきら」)翁も言っている…
「人と棲処」、その移り変わりは早いもの。
今ほどにテンポは速くないだろうが、「平安」の昔にだって、そう感じていた人がいたわけだ。
『無理して旧道にこだわる必要もない』
段々と、「本に書かれたルート通り」という意識も薄れてきた。
『度重なるコース・ミス。これからだってあるだろう。だいたい、出発点からして普通ではないのだ。気にする事など無い』
チェック・ポイントさえ押さえていれば、自分なりの遍路コースがあってもいいわけだ。
『永遠不滅・厳密に定められたルートがあるわけでもない』
自分で造る「お遍路の旅」くらいの方が面白い。
…などと、あれこれ考え、言い訳を探してしまうのは、やはり「旧道」「遍路道」という存在が気にかかっているからだ。
しかし…話は前後してしまうが、この日・この後、そんな思いを抱えながら辿り着いた九番のお寺で、うまい具合に納得できる解答を得た。
そこで出会った、作務衣を着たおじさん。
(お遍路さんではない。そこのお坊さんなのだろうか?)。
曰く「いろんな打ち方がある」…囲碁・将棋みたいな表現だが、その言葉に納得。
短い時間ではあったが、「かつてはお大師様の故郷『善通寺』から出発した時代があった」等々…
また、その後のコース取りの参考になる話も聞けた。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」
単調な道に、思わず口に出る。
「鴨長明」翁の著。『方丈記』の出だしの一節。
(「方丈」とは、面積の単位。「広さ」を表す言葉だ。出世競争に敗れ、「都落ち」した「長明」翁が住んだ、移動可能な組み立て式庵の広さの事。『そんな暮らしも悪くない』。いずれ、「動産」として税金の安いトレーラー・ハウスに住むのが夢だ)。
「よどみに浮かぶ泡沫は…」
四十に手が届く頃に読んだのだが、ここの部分はお気に入り。ここだけは暗誦できる。
「かつ消え・かつ結びて、久しく留まりたるためし無し」
景色の変化はあまりない。
まあ、北海道よりはマシだろう。思い出す…その昔、学生の頃。
(「学生」という語は、「大学生」を指すのだそうだ。中・高校生は「生徒」、小学生は「児童」と言う)。
オートバイで、オホーツク海沿岸の、単調な直線道路を駆け抜けていた時の事。歩き旅をしているバック・パッカーを見かけた。
(最近ではトンと見かけないが、パイプ・フレームのザック全盛の頃だ)。
あの時は『気が知れない』と思っていたのに…今、こんな事をしている自分がいる。不思議なものだ。
「あの時の自分」と「今の自分」。果たして「同じ自分」なのか?
やはり学生の頃、同級生の女の子同士が、こんな会話をしていたのを憶えている。
「カラダの細胞って、三ヵ月ですっかり入れ替わるんだって」
「じゃ、子供を作る三ヵ月前にタバコ止めればいいんだ」
タバコの是非はともかく、もしそうなら、三ヵ月前と現在では、少なくとも物質的には違う存在という事になりはしないか? 残っているのは「記憶」だけ?
『同じ自分だけど、まったく違う自分』
最近、そんな不思議な思いに囚われる事がしばしばだ。
実際…幼稚園の頃・小学生の頃…同じ自分と言えるだろうか?
それにしても、『ずいぶん長い事、生きてきたものだ』。
最近、つとにそう思う。
恋に目覚めた小学校高学年。
「レーシング・カート」を始めた中学時代。
「レース」と「サイクリング」に終始した高校時代。
「毎日が日曜日」だった浪人時代。
「ツーリング」三昧だった学生時代。
「モトクロス」の全日本選手権を追って北から南のフリーター時代。
大多数の普通の人々には、一生縁が無いであろう「テスト・ライダー」時代。
恋の回数だって、一つや二つじゃない。結婚・出産、そして離婚も経験した。
『老後の暇つぶしには、十分すぎるくらいの「思い出作り」は、すでにやった』という自負もある。
だが、まだまだ止められないわけだ。
とにかく、「やれるうちにやっておく」主義。だからこうして、四国を歩いているのだ。
「ふう~」
右側に砕石場があるあたりで、歩道が切れてしまう。
ここから先、大型ダンプが通る道。路肩は広いが、歩道が再開するまでは気が気ではない。
そうこうするうち、午前九時頃、山間の平地「川北」に出る。
道沿いの、まだ開店前のうどん屋脇。自販機が並んだ敷地に、プレハブの休憩所。
中にはベンチと、カエルの先客あり。ここで、靴を脱いで大休止。
ここは、周りを田んぼに囲まれた集落のハズレ。窓から景色を眺めていると、おもてにタバコ購入の来客あり。
でも、このあたりは大変そうだ。『ちょっとタバコを』と思っても、車を出さなくてはならない。北海道で見た「コンビニ13キロ」の看板を思い出す。「1・3」の見間違いだと思っていたのに、やっぱり「13」だった…という経験だ。
ここで三十分ほどユックリした後、「川北」の集落を過ぎ、こんもりした丘を越えると…まっすぐ下る道の先に、「徳島自動車道」の高架が見える。
さらに、そのずっと先には、広がる街並が遠望できる。
山間部ももう終わり。ここからしばらくは「徳島平野」を歩く事になる。
天気は回復方向。時々日も差す薄曇り。
下りが平地に変わった頃、「上喜来」の街へ。
(ちなみに、地名に仮名がふっていない場合は、正式な読み方が不明な場所とご理解いただきたい)。
遍路道に左折し、調子良く歩いていたのだが…本日も、左足の薬指。突然「ニュルッ」ときた。
『しまった!』
ビッコを引きつつ、交通量の多い道に出て左。
『どこかで休もう』
すぐ先で「上喜来橋」を渡ると、目指す十番のお寺の看板。
(一番から十番までは、全体の行程から見ればほぼ一直線上。30キロ弱の区間に立て続けに並んでいる。八十八番から「結願」・「お礼参り」で一番を目指すなら別なルートもあるが、十から一まで、逆上するつもりだ)。
左折とあるが…でもこれは、自動車用の案内板のよう。
直進し、新道が右に大きく曲がっている所を、さらに直進。旧道と思われる、細い道に入る。
入ってすぐの右手に、人気の無い公民館。そこの軒先に座り込んで、テープを巻く。
まあ何とか大丈夫。
そこから少し進むと…左側に建つ家の垣根の角に、小さな何かの看板。まったく消えているが、何か気にかかる。そこから左奥に、竹藪の小道が続いているのだが…
『う~ん?』
方角的には悪くない。
思案していると、すぐ脇にあったゴミ集積所、燃えないゴミに入っていた空缶が、「カラン」と音をたてる。『きっと何かのお導きだ』と思い、入って行く事にする。
細いが、舗装された小道。
竹薮を抜け、田んぼ道に出ると、古ぼけた瓦屋根の神社。板張りの外壁は、すっかり色が剥げ落ち、元の色彩は想像もつかない。全体は、屋根瓦と同色の薄い灰色。
『さて』
まっすぐ進んでは、行き過ぎてしまいそうだ。神社正面に向かい、右から突き当たっている道に右折。
先の新築民家の前には、大きな黒い犬。物も言わず、黙ってこちらを見ている。
このあたり、緩やかな起伏のある田園地帯。二度の小さなつづら折れを下り、その先をグッと登ると…
『?』
視界が開けた前方に、御神木と小さな祠。「白鳥○○の道」なんて標識はあるが(「○○」の箇所、記憶不明)…「?」。
そこから、小さな丘を迂回する道…人しか通れない小径…林の迫った細道。
遠く、自動車道の向こうの山の中腹に見えるのは神社? 目指すお寺ではないようだ。
ガイド・ブックを読み返すが、反対方向から向かっているのでわかりにくい。
あたりに人影はまったく無いし…見当を付けて東の方角に進んでいると…
あった、あった、ありました。「お遍路マーク」。
やがて標識も出てきた。まもなく左に、十番のお寺への参道入口。
(でもこのルート、痛む足でとんだ無駄足。何の御利益も無かった。地元の「なにもの」かにイタズラされ、少々振り回されただけ?)。
《第十番札所》
「得度山 切幡寺」
本尊 千手観世音菩薩(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗高野派
ここの名の由来は…
「弘法大師」が四国巡礼中、山麓に住む信心深い機織りの乙女に、七日間施しを受け、七日目に布を乞うと、惜し気も無く、織っていた布を切り渡した…との故事によると云う。
そして乙女の望み通りに「千手観音」像を彫り、時の天皇に願い出て本堂を建立。像を安置したと云う。
「女人即身成仏」の寺としても知られ、「得度山 灌頂院」の院号も併せ持つ。
おみやげ物屋の続く参道を登り、長い石段の手前で、トイレに寄ってベンチで一休み。
近くに、仮設の白いテントを張ったおみやげ物屋。そこのおばちゃんと、少々あれやこれや。
それから三百三十三の石段を登り始める…と言っても、これくらいなら大した事は無い。
登り切ると、本堂・大師堂。
ここで、お賽銭用小銭を作るため、缶コーヒーを一本。それを飲みながら、団体さんが去るのを待つ。
その間、納札でも書こうとフト見れば、ベンチ横に置かれた金属製・縦長の大きな灰皿の上に、赤いシャープペンシル。有り難く頂戴致します。
お参りの後は、さらに登って塔。
(二代将軍「徳川秀忠」が、堺の「住吉神宮寺」に建てた物。明治六年、この地に移転された国の重要文化財)。
またさらに登って「奥之院」。
(「八祖大師」を祀っている)。
一休みがてら景色を眺めた後、先ほどのおばちゃんの所まで一気に下る。
ここで飴を一袋購入。参道を戻る。
時刻は、ちょうどお昼時。
『このあたりでお昼でも…』と思っていたのだが…
前を行くお遍路さん…ま新しい白衣に菅笠・金剛杖、大きなザックを担いだ白髪混じりのおじさん。参道最後のうどん屋へ入って行く。
こちらはニセ遍路。何だか気乗りせず、ついつい先へ。
参道を出て左折。やって来た道をさらに先へ。続くお寺を目指して東へ向かう。次は九番だ。
途中、生い茂る雑草で覆われ始めた「四国のみち」に入ったり…「秋月城跡」とある林を眺めたり…あたりをキョロキョロしながら歩く。
ひたすら前だけ見て、セッセと歩く人が多いが…もちろん、辛い時・疲れている時などはそうなりがちだが…退屈しのぎ? 否、せっかくの景色、楽しまなくてはソンだ。
(この旅を通して、ずっとそんな調子だったと思う。マラソン大会に参加した時などもそうだ。でも、遠くを見るのは、かえって疲れる…と、三重県は「伊賀上野」のお城の忍者屋敷。「忍者走りのコツ」に、そう書いてあった。でも、ホントにそう? 「船酔い」防止に「遠くを見ろ」と言う人がいる一方で、「遠くを見ると酔う」と言う人もいる。どちらが正しいのだろう?)。
行く道は、大きな上り下りも無く、民家が点在する田園風景。相変わらずの曇り空だが、薄日が差すと暑さを感じる。
それにしてもこのあたり、「坂東(ばんどう?)」という姓が多い。
(やはり関東では馴染みの薄い「蛭子(えびす?)」もあった)。
「坂東」とは、その昔、足柄・箱根から東…つまり「関東」を意味する言葉だったはず。
(かつては暴れ川だった、関東平野を流れる「利根川」には、「坂東太朗」という、人格化されたような別称がある)。
『それなのに、関東に「坂東」姓がほとんど無いのはナゼ?』などと思いながら歩いていると…
『ん?』
道路右手に、怪しげな建物。
小さな物だが、四面の三角形の瓦屋根を持つ、木造・二棟続きの、お堂のような建物。色の褪せ具合からすると、少々古い物。
心魅かれるものがあり、立ち寄ってみると…
「ショキ・ショキ・ショキ」
「番外霊場 小豆洗い大師」の文字が…
「ショキ・ショキ・ショキ」
しかし、「あずきあらい」といっても、妖怪「小豆洗い」とは関係無いようだ。
『ガッカリ』
水に困っていた当地の農民のため、お大師様が小豆の洗い水に加持し、水を出したと云う。
(「弘法大師」と水。そういった場所は、全国各地にあるのだろうか? 遠く離れた関東にも、そんな云い伝えの場所がある。実際、中国帰りの「空海」は、最新の土木・治水技術を伝えたと云う)。
横には小さな池…と言うより、お堂はこの池の上にかぶさるように建っている。
ここは湧き水なのか?
踏み石に踏み降りて、下をのぞくと…
『ここの主?』
カメがいる。こちらに気づき、身を潜める。
ここで、敷地の境目のコンクリート段差に腰掛け、腹ごしらえ。
ドライのパン(つまり乾パン)にペットの水で、いたってシンプル。
(乾パンは昨晩、九州のおじさんにもらった物。昨日「満願」をむかえ、帰路に就くおじさんに、もう非常食は必要無いわけだ。ペットはこの少し手前、したり顔のワンちゃんがいた店先の販売機で購入)。
その後、意味もなく良い気分になって歩き出したのだが…間も無く、今度は左足・親指の付け根のあたりにズキンときた。
でも九番まで、もうそんなにないはずだ。軽くビッコを引きつつ、止まらずに行く。
小さな橋を渡り、田んぼの中を大きく左・右・左とクランク状に曲がると…
《第九番札所》
「正覚山 法輪寺」
本尊 涅槃釈迦如来(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗高野派
弘仁六年(815)、「弘法大師」により、ここより北に建立される。
天平年間、「長宗我部」の兵火で焼失。
正保年間に当地に移るが、安政六年に焼失。明治に再建されたお寺。
東側にある山門をくぐり、先ずは座れる場所を探す。
境内に入ってすぐ右側。屋根の下にベンチのある休憩所。
大きなパイプ・ザックを置いた、お遍路姿の若者が座っている。
(『最近、トンと見かけなくなったパイプ・ザック』と思ったのは、今朝の事なのに…)。
向かいに腰を降ろし、話をしながら足にテープを巻く。
細身で色白。休みの時期ではないが、学生さんだそう。話の内容から察すると、仏教系の学校…? だとすれば、あながち学業と無縁な行動でもなさそうだ。
テープを巻き終える頃、やはり大きな荷物を背負った歩き遍路の男性。
年はこちらより若そうだが、年齢不詳タイプ。関西訛りで、独り言のようにブツブツ話す。何を考えているのだか…『?』。よくわからない「お変路さん」。
こういった人達、懐かしい気もするが…長期の貧乏旅行に出かけると、変わった人にもずいぶん出会ったものだ。でも、流儀は合いそうにない。
そこに、短髪に藍色の作務衣を着た、五十代と思しき男性。ここの「寺男」?
(先に述べた人物だ。「一番から十七番に出る方法もある」の言葉に、この後のアウト・ラインが見えてくる)。
そんなこんなで、ついダラダラと長居してしまう。
二人が立ち上がったのを機に、こちらも腰を上げる。もっとも、向かう方向は、彼等とは正反対。それに、まだお参りも済ませていないのだ。
そこを出ると、もう二時半。次のお寺までは約2・5キロ。
そこの近くの宿にTELしてみるが…録音音声で「ただいま営業しておりません」との事。
『さて、どうしよう?』
このまま遍路コースを辿るとなると、次の宿まで、途中三つのお寺を通過して10キロ弱。この時間から向かうには、少々長め。
『県道に出て、ビジネス・ホテルでも探した方がよいのでは?』と、行きつ戻りつコースをはずれ、県道っぽい道に出てみるが…このまま行っても、果たして宿があるかどうか?…そんな雰囲気だ。
結局、「土成町役場」方面の標識に従い左折。このまま進めば次のお寺。とにかく、そちらを目指す事にする。
新しい道が、まだ工事中の区間になり、そこを過ぎると「土成」の官庁街(?)。左に役場と資料館。右に体育館と図書館。
図書館前の駐車場に、電話ボックスと自販機。電話帳を見るが、このあたり、観光ホテルが一軒あるだけ。それとて、歩いて行ける場所かどうかは不明。
今出て来た九番「法輪寺」近くの宿の番号は控えてあるが…今さら戻る気にはなれない。
『まあいいさ』
ビタミン系炭酸飲料を飲んで出発。
スタ・スタ・スタ…とこのあたり、かなりアセッていた。もう午後三時だというのに、今日は宿のアテすら無いのだ。
「ふう~、暑い!」
そうそう、この時刻には、天気はすっかり回復。西に傾き始めた強い日差しは、左正面に近い位置からこちらを射てくる。
自動車道の高架をくぐると、お寺の山門が見えてきた。
そこに達すると…山門下の通路両側に、木製ベンチを並べて、おばちゃん三人・おじちゃん一人。
接待所だ。宿も決まっておらず、少々アセッていたが、『お接待は断るわけには行かない』。
勧められるままに腰を降ろす。だいたいこういった人達、こういう事をするくらいだから、話好きで暇もある人達。
「どこから来たのか?」…最近では、「宇都宮」と言えば「餃子」と来るのだが、こちらでは、地理的に離れているからそんな情報が伝わっていないのか? それとも世代が違うのか?
(お遍路関係の人達は、比較的高齢だ)。
「栃木」と言えば、必ず「日光」と返って来る。
「年はいくつか?」…四十二なら「まだまだ若い」と言われる。
その他、あれやこれやと、お茶に干し柿。
『このあたりで宿のアテでも』と思っていたのに、「まだまだ行ける」と言われて…わかった、わかりました。行きますよ、行きますとも、行きゃ~いいんでしょ…と、その言葉で踏ん切りがついた。
お礼に納札を残して、お寺に向かう。
納経所や、手前右側の大きな池は工事中。
(人出のあるゴールデン・ウィーク過ぎのせいか、この後も、改修工事をしているお寺が数ヵ所)。
すっかり水の抜かれた池に、ポツンと立つ中の島。何だか格好悪い。
お接待を受けた門から歩くこと数分。境内に到着。
第八番札所》
「普明山 熊谷寺」
本尊 千手観世音菩薩
開基 弘法大師
宗派 真言宗高野派
入口には塔があり…石段を登った所に本堂。
ここは…
弘仁六年(815)、ここで「弘法大師」が「紀州熊野権現」を感得。堂宇を建立し、「千手観音」像を刻んで安置。
昭和二年の火災で本堂・本尊ともに焼失してしまうが、昭和四十六年に再建される。
寺前の「弁天様」は安産に霊験があると云う。
仁王門は「長意上人」が貞享四年(1678)に建立した物
…だそうだ。
「歩いてるんですか?」
本堂前で、カジュアルな服装の、短髪の若者に声を掛けられる。
歩き遍路に感心されてしまったが、そらでお経を唱えていたくらいだから、こちらよりよっぽど心得はあるようだ。
本堂・大師堂と巡って、そそくさと立ち去る。
山門までは行かず、手前の広い道に左折し、エッチラ・オッチラ東に進む。先のお寺までは4キロあまり。
やがて、「徳島自動車道 土成インターチェンジ」が右に見える、大きな十字路。交差点・手前右角に、トイレやベンチもある緑地。
フト見れば、元首相「三木武夫」氏の銅像が立っている。ここが出身地?
とにかくここで一休み。時刻は、大きく日が傾いた午後の四時。
残りの乾パンをボリボリかじりつつ、宿の算段。この先、お寺を二つ越えた所に宿がある。距離にして、あと5キロほど。幸い足の方も、九番「法輪寺」以降順調だし、ここまで来れば大丈夫だ。電話をしてみると、宿泊オーケーとの事。「ホッ」とひと安心。
スピーカーから連呼する、知事選の街宣車が通り過ぎたと同時に立ち上がる。
右に見えるインター下で自動車道をくぐり、その先で旧遍路道に左折。すごく細い道。クネクネと、旧市街といった感じの街中を抜ける。
ちょうど小学生の下校時間。「さいならー」と交わしながら「御成大橋」を渡ると、先ほどまでの広い道に合流してしまう。
わかりにくい看板に道を間違え、近くにいた農家のおじいちゃん・おばあちゃんに道を聞く。一本はずしただけで、すぐに戻る事ができた。
(道を尋ねる事にも慣れてきた。もともと人見知りする質。それに、機動力のあるバイクで、ろくに地図も見ないで走り回る性格。いま流行りのカーナビなんて物には、興味も関心も湧かないタイプ。でも歩き旅では、手間や労力を考えると、そうも言ってはいられない。素直で謙虚な気持ちが肝要だ)。
そこから程なく…
《第七番札所》
「光明山 十楽寺」
本尊 阿弥陀如来(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗高野派
時刻は四時四十五分。人気は少ない。
ここは…
「弘法大師」が「十楽寺谷堂ヶ原」に堂宇を建立。「阿弥陀如来」を刻んで本尊とされた。
天正年間の兵火で堂塔を焼失したが、本尊は難を逃れ、寛永年間、現在の場所に再建される。盲目に霊験のある寺として知られる
…そうだ。
最近、目の衰えを感じ始めたお年頃。でも、時間も時間、やる事やったら次だ。
しかし、あわてて左折したお寺の前の道は、どうやら違う道。
見当を付けて路地に入れば、遍路道に復帰。
1キロの道程を十五分。
五時ちょうどくらいに、本日最後のお寺に到着。
《第六番札所》
「温泉山 安楽寺」
本尊 薬師如来(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗高野派
赤など、色遣いが少々派手なお寺。
ここは…弘仁二年(811)、「弘法大師」が「安楽寺谷」に堂宇を建立。「薬師如来」を刻んで本尊とされた。
天正年間に、「長宗我部」の兵火に遭い焼失。
天保年間に、現在の場所に再建される。
本堂は昭和三十年に火災に遭ったが、四十年に再建された物。
こんな時間なのに団体さん。あわててお参りを済ます。
ここには豪華な宿坊があり、そこの宿泊客なのだろう。その存在は知っていたが…お経も上げず、納経の朱印も頂いていないニセ遍路。お寺に宿するのは気が退ける。それで宿坊は、リストから除外してあった。
境内を出た所にあったベンチで小休止後、本日最後のもうひと歩き。西日もずいぶん傾いてきた。
山門正面の狭い道に狙いをつけ、入って行けば案の定、目指す「県道12号」に出る。
そこを進めば、突き当たるように細い道。でもここが、宿方面への道だ。
どんどん入って行けば「上板町」中心部(と言っても、小さな街だ)。
まだか? まだか? まだか?
街並を抜けた所で、先ほどの県道に合流。距離的には、大幅なショートカット。
遍路コースは、再び右の旧道に入るのだが…進行方向に見える、大きな左カーブ。その先に…『たぶん』それらしき看板。
行ってみれば、『やっぱり』正解。食堂で経営する民宿。昔ながらのドライブインといった風情。道路に面して、広い駐車場がある。
食堂から出て来た女将さん(こちらと同世代)に、左に並び建つ宿舎の二階の部屋に案内される。
(食堂と併設されたこちら側は、まだ新しい建物)。
時刻は六時少し前。最後の西日が差し込んで、少々暑い西向きの部屋。
先ずは、「夕のお勤め」テープ剥がし。その後、お風呂を頂く。
夕食は、下の食堂で「キムチ鍋」。
本日同宿は…神奈川から来たと言う、今日で二日目、六十代と思われる男性遍路さん。
「アル中気味」との事だが、酒も飲まずにあれやこれや。準備万端整えて…靴も「山用・一般道用二足持参した」と得意気だ。
でもたぶん、大きな荷物に、途中で宅配便か何かのお世話になる事だろう。
(やり遂げたとすれば、それはそれで良い修行だ)。
その後洗濯。ここには乾燥機もあり、すっかり綺麗になりました。
「ふ~」
一時はどうなる事かと思った今日の行程…宿も見つかり、良かった・良かった。
明日の朝食は、ゆっくり目の七時。少しテレビでも見て、ノンビリしよう。
「妖怪天国 お四国」
毎日不思議な縁に導かれ、歩いています。
最後は「大団円」を迎える予感?
本日の歩行 38・95キロ
50589歩
累 計 156・38キロ
203114歩