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*第四日目 五月十五日(木)

 お寺の背後には、「五剣山(ごけんざん)」の断崖が(そび)え立っているはずなのだが…昨日の雨が残っている。


 そうそう、昨晩のニュース番組で熊の話。

 四国にも、ツキノワグマがいるらしい。保護などの関係で、調査すると報じていた。

 クマが泳いだり、わざわざ船で運び入れたりしないだろうから、大昔は陸続きだったのだろう。


(旅先では、調べようもないが)。


注∶後日、知った事ですが…かつて熊のいなかった北海道の利尻(りしり)島。現在は生息しているそう。なんでも、クマは泳げるんだそうな。


 たとえば、高原の清流にしか棲息していない岩魚(イワナ)


(日本の淡水魚中、最も上流に()む)。


 他の河川に暮らす同族と、まったく交流も無く、個別に独立して棲息している。

 ならば、いかにして各地に散らばっていったのか? 一説に「氷河期説」がある。


 かつて、地球がもっと寒かった頃、極地方の氷や氷河は、もっと多かった。水位もずっと低く、陸地も多かった。その頃は、今では高地にしか棲めない魚も、もっとずっと下の、支流や本流と交わる地点まで棲息していた。

 しかしその後、地球の気温が上がり、水位も上昇。それにともない、それぞれ各地に分断されてしまったのだろうという。


(同胞と生き別れなんて、なんともかわいそうな話である)。


 実際、こんな例もある。

 日本最北の島、北海道の礼文(れぶん)島は、その北に位置する緯度と土質の関係で、高度が低いにもかかわらず、高山植物が咲き乱れるのだ。

 一方で、標高の高い長野県などで貝塚が発見されるのは、かつて地球がもっと暑かった頃、海岸線がそのあたりまで達していた事の証拠らしい。


(ヒマラヤの高地などで発見される貝の化石は、造山運動によるもの。貝塚とは、人間の生活の跡だ)。


 また、現在では冬期、雪に埋もれてしまうような雪国にも、大規模な遺跡が発見・発掘されたりしている。

『こんな北国なのに』と、普通は思うだろう。しかし、その当時、地球はもっと温暖で、そのくらいの緯度の方が暮らしやすかったのだろう…とされている。


 地球は、そんな歴史を繰り返してきたのだ。

 実のところ、最近大問題となっている「地球温暖化」。その原因を「二酸化炭素」だと断定できる人はいないのだそうだ。

『案外一番の原因は、太陽自身にあるのではないだろうか?』と、常々そう思っている。

 日本にしたって、夏と冬の温度差は四十度前後。太陽がちょっとクシャミをしたり、熱を出せば、そのくらいの温度差は造作もないはず。


(全地球が凍っていた「全球凍結」の時代があったとも言われているくらいだ。いったん白く凍ってしまうと、太陽光線を反射し、熱を吸収しにくくなるそうだ)。


「いつも変わらぬ太陽」なんて、過去の歴史を振り返れば…ただし、人類誕生以前からのものだが…幻想である事に気づくはず。

 特に西暦2000年前後は、「太陽の黒点活動が活発になり、オーロラなどの現象が増える」とは、前々から言われていた事。


(ちなみに、南極大陸の氷が全部溶けると、海面は70メーターほど上昇するという。水位の上昇には、氷山など海に浮かぶ物はほとんど影響しないそうだ。主な要因は、氷河など陸上にある氷の溶解と、水温上昇による海水自体の膨張にあるらしい)。


 もし太陽に原因があるのだとしたら、ちっぽけな人類が、どうあがいたところで、どうなるものでもない。

 むやみに不安がるより、想像してみよう…「今の住居の眼前に、大海原が広がり、南国の香りが漂う」。あるいは、「近所の川をイワナが泳ぎ、高山植物が咲きほこる」。そんな光景も悪くない。


「さてと…」

 朝食を済ませ、八時前、下だけ雨具で出立(しゅったつ)


(ビショ濡れになっていた靴には新聞紙を詰め、傘やポンチョも乾かしてくれてあった。後で、宿を出るとき手渡されたご祝儀袋を開けてみると千円札が入っていたり…いくらお寺の門前で、お遍路相手の仕事とはいえ、きっと信心深くなくてはここまで出来ないだろう。感謝感激!)。


 雨はポツリポツリ。傘を差すほどでもない。

 ガイド・ブックと傘を手に持ち、鳥居をくぐって朝(もや)の境内に入る。

 ケーブル駅方面に向かい、駅の手前で左折。道は下りに。天気が良ければ、良い眺めなのだろうが…雲っており、遠望は利かない。残念!

 しばらくは下り坂。小さな公園が併設された溜池が見えてくると、下りも終わり。浄化設備を備えた溜池のようだ。

 そういえば昨日、宿への登り坂、脇を流れる下水(?)に泡が混じっているのを見て、『いま宿で、風呂を洗ってくれている』などと、想像をめぐらせていたのだが…

 お遍路宿の良いところは、たとえ一人でも泊めてくれる事。

 シーズン・オフの観光地などでは、「満員御礼攻撃」を受ける事もしばしば。


(つまり、「本日は満室です」と、丁重に断られる事だ)。


 でも、それも仕方ない。わざわざ一人のために、風呂を沸かしたり、食事の用意をしたりなど、できない相談なのだ。

 バイクでなら、ビジネス・ホテルを探して近くの街まで…などといった事も可能だが、歩きでは無理。そういった点では安心だ。


 下界へ降りるとそこでは、通勤の車や、通学の自転車が行き交っている。市街地というほどではないが、家々の多い住宅街。

 雨も少し強くなったので、手にしていた傘を開く。


 下の道に出て間もなく。

 少し高台のようになった場所で、『天気がよければ海が見えるのだろう』と、前方の景色を眺めていると…横に白い車が停まる。車内にはおばさんが一人。


(五十代くらい? 通勤途中なのだろうか? 普通の家庭の兼業主婦といった感じの人)。


 助手席の窓を半開きにして、缶ココアを差し出してくれる。お接待だ。

 たぶん、道に迷っている風情に見えたのだろう。あれこれと道順を説明してくれるが…昨日のうどん屋のおじいちゃん同様、はっきり言って、ほとんど頭に入らない。


 この旅を通して痛感した事。

 道順に限らず、まったく予備知識の無い人に何事かを伝える時、いかに要領良く・効率良く伝えるか…意外と難しいものだ。

 良く知っている事は、ついつい細かくなりがち。相手方からすると、情報量が多過ぎて、処理しきれなくなる。

 でもまあ慣れない事。逆の立場になっても、同じ事をしてしまうだろう。

 とにかく、ここを左折したほうが良い事だけはわかった。 

 最後にココアを受け取り、お礼を言う。おばさんは、ここを右。


 その後、上って下るとT字路に突き当たる。ここを右折。水田の広がる一帯に出る。

 山道→住宅地と過ぎて、急に見通しが効く場所に出たせいか、見た目よりは距離のある道だった。

 その先、集落の入口で、孫を幼稚園に送るおばあちゃんと挨拶を交わし、踏切を渡って集落の中。道が細くなった先で、「国道11号」に合流。左折する。方角的には西方向。

『そろそろ休憩を』と思っていたのだが、雨はポツポツ、路面は湿っている。雨宿りできそうな場所も無い。少し足が痛み出してきたが、歩き続ける。

 それに、こんな中途半端な天気では、下半身に履いた合羽が蒸れて、非常に不快。


(ここは「牟礼(むれ)町」、仕方ない?)。


 しばらく「11号」沿いを歩き、道標に従って、旧道と思われる狭い道に左折。

 踏切を越えると、少々古い街並が始まる。


(前の集落とここと、右に左にと跨いだ鉄道は同じ路線。「琴平(ことひら)電鉄 志度線」だ。この先、お寺のある「志度(しど)」の町まで続いている)。


 天気が良ければ、すぐ左先に瀬戸内海が広がっているのだろうが…どちらにしろ天気は悪いし、足は痛み出すし…その痛みにばかり気を取られてしまう。

 幸い、車の通りは少ない。こういった旧遍路道。今ではすっかり裏街道。市街地でも交通量の少ない所が多い。

 そのかわり、今ではどこにでもあると思っていたコンビニ、遭遇する機会はほとんど無い。


「ふう~」

 淡々と、両側を家々で挟まれた細い通りを行くと、左に「八十六番 奥之院」と書かれた、番外霊場「如意山(にょいざん) 地蔵寺(じぞうじ)」。

 中に入ってみると…「大和武尊(ヤマトタケル)」の子供が、海に()む怪魚を退治した…という説明書きがある。

 お賽銭を入れて拝む…が、しかし、腰を降ろしてユックリ休めるような場所は無い。


(入れ違いに、荷物を積んだ手押し車のお遍路おじさん…六十代くらいか? この後、二つ先のお寺のあたりまで、追い着け・追い越せの展開となる)。


 そこを出て、すぐ先の右側には、「エレキテル」で有名なマッド・サイエンティスト(?)「平賀(ひらが) 源内(げんない)」先生旧邸。

 でも、まだ開館前。外観を一枚、写真に納めただけで、しぶしぶ先へ。

『もう限界』というほどではなかったが、足にテープも巻きたいし、適当な場所があれば休憩したかったが…そうこうするうちに、どんどん「志度」の街中へ。

 空模様は、まだ一面灰色の雲に覆われてはいるものの、雨粒が時おりポツポツ程度。もう傘はいらない。

 やがて…『着いちゃった』。

 宿を出てからノン・ストップで8キロ弱、約一時間半後の午前九時過ぎ。正面に見えるのは、目指すお寺。


《第八十六番札所》

補陀落山(ふだらくさん) 志度寺(しどじ)

   本尊 十一面観世音菩薩

   開基 藤原不比等

   宗派 真言宗善通寺派


「天武天皇」の御代に、大臣「藤原不比等」が建立したと伝えられる古刹。


 五重塔もあり、隣接する診療所や幼稚園を(あわ)せれば、敷地はかなり広そうだ。

が、ここでのお参りは簡単に済ませ、座れる場所を探す。

 足は痛いし、合羽の中は蒸れ蒸れ。とにかく早く、ゆっくり腰を降ろしたかった。


 本堂の裏手、奥の方に、元は売店か何かの建物。張り出した(ひさし)の下には古いベンチ。

 座り込んで、下だけ履いていた安物の合羽を脱ぐ。昨日のようなドシャ降りでは気づかなかったが、本日は雨ではなく、湿気でムレムレ。

 合羽の下のジョギング・タイツと靴下は、すでに「グッショリ」だ。

 雨など、外からの影響で濡れたものなら「ビッショリ」だが、内側からなので「グッショリ」といった感じ。寒い時期ならともかく、これでは雨で濡れたのと大差ない。


 そこで思った事。今までは『靴だけは良い物を』と思っていたが…


本日の教訓「靴と合羽は良い物を」。


 そして、歩き遍路の必需品は…「折りたたみ傘」は正解だった。

 このあと役に立った小型懐中電灯「マグライト」もマル。

 それに、テーピング用テープは当然として、この時・この時点ではまだ気づかなかったが、「爪切り」だ。


(これについては、後述する機会があるだろう)。


「ふ~」

 雨は小康状態。

 トレッキング・パンツに履き替え、足指のテーピングを巻き直していると…屋根から、黒猫が飛び降りて来た。若いオス猫。


(かなりのネコ好きである。生後六ヶ月以降…つまり成猫を直接目視すれば、オスかメスかの区別くらいはつく)。


 目の前をノソリ・ノソリ。尻尾を立てているところを見ると、彼の縄張りなのだろう。


(ネコにとって「尻尾を立てる」という行為は、「自分の縄張り(テリトリー)である」という事を主張しているらしい)。


 声を掛けたが、チラ~ッとこちらに一瞥(いちべつ)をくれただけで、歩いて去る。


(本日はこの後も、降ったり止んだりの空模様。投宿した宿のおばさんの使った表現…ズブ濡れ状態を指して「濡れネコ」なんだそうな。やはり、ネコとネズミは切っても切れない縁? 「濡れネズミ」が当たり前の表現だと思っていたが、「所かわれば品かわる」。これには、同宿の九州のおじさん達も感心していた)。


 靴下も乾いた物に履き替えて、ホッと一息。奥まった場所なので、ネコ以外、誰も来ない。

 こういった場所では、ついつい長居しがちだが…やがて有り難くない客、蚊が集まり始めた。そろそろ潮時のようだ。準備を整え、追われるように出発。


 次のお寺までは、7キロほど。

 お寺を左に出て、「11号」を横断。南に向いて、ひたすら直進。道は緩い上り勾配になり、「志度」の街を出る。

 遍路道は、この県道を右に左にと蛇行している…と言うより、遍路道として使われていた旧道の上に、新しい県道が直線的に敷かれたのだろう。


畦道(あぜみち)程度の部分は、その旧道よりさらに古い「旧旧道」なのかもしれない)。


 ぽつりぽつりと建つ家の前や、田んぼの中を抜ける。

 やがて上り勾配が終わり、景色が開けた頃、「広瀬橋」で「鴨部川」に当たる。橋は渡らず、手前で県道を右にそれ、川岸の小路を歩く。

「ザブン」という音に、左下の川面(かわも)をのぞけば…「でっけ~」(コイ)(?)。まさか(フナ)ではないだろう、大きいのが二尾。川幅は狭いから、下に降りれば手が届くのでは…といった感じ。


 そこから数百メーターほど行けば「遍路橋」。ここで川を渡る。

 手前には、まだ ま新しい「お遍路さん休憩所」。木製クリアー塗りの屋根の下に、ベンチも完備。

 次のお寺まで、あと1キロ強のこのあたりは、「さぬき市」の一部。


(平仮名で「さぬき」。最近流行りの「市町村合併」があったのだろう。今回ここに来るまで、その存在を知らなかった)。


「さぬき」に入ると、道標や立て看板などの数が増える。まだ新しい物も多く、「お遍路」に力を入れているようだ。

 このあたりは、すっかり平地。田園地帯を過ぎ、徐々に家の数が増え、段々密になり、やがて街中に入る。きちんとした道標が完備され、間違う事はない。


 元気な女の子が乗った乳母車を押すおじいちゃんとスレ違い…軒先で植木鉢の手入れをしているおばさんと挨拶を交わし…広めの通りを右に曲がれば、すぐ右手に目指すお寺。


《第八十七番札所》

補陀落山(ふだらくさん) 長尾寺(ながおじ)

   本尊 聖観世音菩薩

   開基 行基菩薩

   宗派 天台宗


  ここは、天平十一年(739)、「行基菩薩」が一宇を建て、本尊を安置。

 その後、「弘法大師」が供養塔を建立したとされるお寺。


 境内には余計な物が無く、すっきりとした感じ。

 時刻も正午少し前。そのせいか、人影もまばら。

 ただ、普通車用駐車場も兼ねた敷地内は、砂利すら敷かれていない。雨上がりの境内は、石畳の参道以外はビチャビチャになっている。

 足元に気を付けながらお参りを済ませ、寺内にある小綺麗な「お休み処」でお昼にする。

「きつねうどん」に「おにぎり」二つ。意外に量があり、少々食べ過ぎ。軽く食休み後、お寺を後にする。


 ここ「長尾」の街は、思っていたより大きな街だ。お寺の前には、お遍路宿もある。

 わずかに戻って、先ほど来た道をさらに先へ。

 交差する広い県道を横断するため、信号待ちをしていると…ちょうどあちこちから、お昼のサイレンが響いてくる。

 その先は、通行量はさほどでもないが、狭い路肩があるだけの道。市街地を出るまで、歩道は無かった。


(どこでもそんなものだ。街中にこそ歩道が欲しいのに、土地の問題で作れない。歩いたり、自転車に乗ってみるとわかる。何だかんだと言っても、日本の道路は車優先だ)。


 傾斜は再び上り勾配だが…昼食後の午後の時間。ボ~ッとしていて、このあたりの記憶は定かではない。

 とにかく…地図上で5キロほど歩けば、「前山ダム」が見えてくる。

 右上に向かう県道から左に()れ、いったん旧道へ。集落を抜け、ダムの真下に到着。

「女体山越え」のコースを取るなら、このまま進めばいいのだが…そちらには、四つん這いにならなくては登れない箇所もあるという。

 痛む足で、濡れた岩場。ちょっと不安だ。

 それにこの天気では絶景も期待できないし、雨も心配だ。

『無難な道を』と、右上に続く階段を登って県道に戻る。


 道路左側にあるダム管理事務所を過ぎた先。「旧へんろ道」と表示のある道が、右手の山に向かって登っている。手持ちのガイド・ブックには無い道だ。

 そのすぐ先に見えるのが…右「道の駅 ながお」、左「へんろ資料館」。

 まずは、ダム湖を見下ろす、資料館脇の屋根付き休憩小屋へ。

 休憩がてら、ケータイで宿の予約を試みるが…アンテナは一本も立たず。呼び出すが、つながる前に切れてしまう。

 とりあえず資料館へ。ここは無料。一通り見て回り、ここで「納札(おさめふだ)」の束を手に入れる。


(「納札」とは、本堂・大師堂の納札箱に納める紙製の札。たいていは賽銭箱の脇などに置いてある。お接待時のお礼や、お遍路さん同士の名刺交換的な使い方もされるので、たとえニセ遍路と言えども必需品)。


 館内は、なかなか充実した内容。だが、ユックリもしていられない。時刻は一時を回っている。

 道路を横断し、向かいの「道の駅」へ。

 公衆電話で宿に予約。次のお寺の近くだ。


 毎日だいたいこの時刻になれば、残りの行程が見えてくる。それに歩き旅。このくらいの時間に宿を決めておかないと、後が不安だ。

 宿を確保し、ホッとしたのも(つか)の間、ポツリポツリと雨粒が落ちて来た。あわててザックを(かつ)ぎ、先ほど通り過ぎた「旧へんろ道」入口まで戻る。

 このまま県道を進んでもよいのだが、それでは能が無い。ガイド・ブックにも載っていないルートだが、即席で変更。距離は多少大回りとなるようだが、そこはきつい登りを避けた分、これで帳消しとしよう。


(山越えのコースが8キロ弱。こちら回りだと10キロ強だ)。


「旧へんろ道」とは言っても、舗装されているようだ。細い道だが、車両の通行も可。

 先ずはつづら折れの登り。休憩を取った後だし元気良く・再びパラつき出した雨に少々アセッて、踏み入れたのだが…

 間も無くすぐに、左足・薬指の左サイドが「ニュルッ」ときた。

「イッテー!」

 登り坂という事もあり、気合を入れて路面を踏みしめていたのがまずかった。

 道端に座り込み、靴を脱いでみると…

 中指と接している部分にできたマメがつぶれ、皮がズルむけになっている。血こそ出ていないが、吹き出した体液でニュルニュル。

 ヒリヒリする傷口にバンドエイドを巻き、立ち上がってみる。イマイチしっくり来ないが、仕方無い。ヒョコ・ヒョコと、ビッコを引きながら歩き出すと…

『ん?』

 ちょうど左の道端に、泥だらけではあるが、身の丈ほどの竹が落ちている。

『金剛杖の意味が分かったよ』

 左足の補助なので左手に、ソイツを杖代わりにコツコツと歩く。

 雨は霧雨程度。身体を濡らすのは、かく汗の方が多いくらい。

 霧に煙って遠望はまったく利かないが、こんな状態では、雨粒に打たれるよりはマシ。


(経験から言うと、「霧中の土砂降り」という事は、まず無い。雨が降り出せば霧が晴れ、霧が出ている時は、せいぜい小雨程度なものだ)。


 道は狭いが、ずっと舗装。

 退屈しのぎに、時おりガードレール越しに、道路脇の崖下をのぞいて見ると…

 こんな場所なのに、粗大ゴミが散乱している。こういう所だから捨てに来て、こういった場所だから、そのまま放置されてしまうのだろう。


 途中、中年女性の乗る営業車とスレ違っただけで、やがて峠。石地蔵がある。その先右側に民家が一軒、ひっそりと建っている。

 その下の溜池を通り過ぎる時、「バシャッ!」と大きな音。

 フト見れば…本人は隠れているつもりなのだろうが、大きなカエルがジッとしている。

 思い浮かんだのは、「ため池や (かわず)飛び込む水の音」…おそまつ。


(日本人は、音の中に「静けさ」を感じるというが…海外に、「無音」のレコードがあるという話を聞いた事がある。わざわざお金を払って、「無音」を楽しむのだ。そういった人の耳には、日本人が風流と感じる虫の()は、ただの雑音としか響かないそうだ。そんな状態では、俳句の「()び・()び」の心など、本当には理解できない事だろう。一方で、日本人には聴こえない…あるいは感じ取る事ができない…音があるという。そんな理由から、日本人には「クラシック音楽」の真髄は理解できないのだという…真の音が知覚できないのだから当然だろう)。


 峠の後は一気に下り、下から上がって来た先ほどの県道に合流。そちらをたどるよりは、少々近道となったはずだ。

 角の空地で小休止。県道向かいには、簡素なお堂に入ったお地蔵様と、墓石が一基。

 腐りかけた太い倒木に腰掛け、水分補給と、昨晩の夕食の残りのバナナを食す。

 竹杖は、ここで山に帰っていただく。足の調子は、おかげさまでまあまあ。お世話になりました、ありがとう。


 ここから先は県道。交通量は結構あるが、歩道は無く、右の路肩を歩く。

 時おり行き交う、お遍路さんを乗せたマイクロや小型バス。そういった遍路を否定する気は無い。

 暇ができた時には身体が言う事をきかない。発心(ほっしん)した頃は、もうそんな年。

 でも、個人で来ている人達など、運転しているのもおじいちゃんだったりするから、気を付けないと…

と、そうこうするうちに、次の分岐。「国道377号」に左折。

 ここまで来ると、高度が下がったせいか霧は完全に晴れる。しかし、相変わらずの曇り空。


 国道に曲がってすぐ。道路沿い右側に、小学校に隣接する「農村公園」。

 何の事はない、ただの広場なのだが、ま新しい屋根付き休憩所にトイレもある。

 この先5キロ、本日最後のお寺までは上りが続く事が予想されたし、時刻も三時近く。ここで最後の休憩を取る。


 ここからは、国道とは言え、先ほどまでの県道より細い道。路肩も狭く、おおむね上りのアップ・ダウンが続く。

 途中の右側にあった、高級そうな宿。

 そこの入口付近。中途半端な場所に道標あり。のぞけば、小川に沿って遊歩道。『ここか?』と思って入って行くが、果樹園で行き止まり。痛む足で無駄足を踏む。


 その後、道が大きく左に曲がる角。直進する細い道もある。

 頭上に並ぶ道路標識を眺めていると…角の酒屋前に停めた、「山口」ナンバーの軽のミニバン。ちょうど店から出て来たのは、頭にバンダナを巻いた初老のおじさん。

「お寺はこっちだよ」と、左を示す。たった今、八十八番・最後のお寺から戻って来たそうだ。全行程、車で十日(とおか)。何だか気が抜けた…と言っていた。


 このあたりから、山深くなり始め、勾配もきつくなってくる。

 山間部にしては遅い時刻。高度が上がるにつれ、再び霧が濃くなり、あたりは急激に薄暗さを増してきた。

 そんな中、最後の登りをテクテク。

 やがて…霧に煙るお寺の大駐車場前を過ぎ、少し下った左先に、うっすらと、山門らしきものが見えてきた…着いた。


《第八十八番札所》

医王山(いおうさん) 大窪寺(おおくぼじ)

   本尊 薬師如来(伝 弘法大師作)

   開基 行基菩薩

   宗派 真言宗大覚寺派


「元正天皇」勅願の寺。

「弘法大師」が唐より帰国後、この地に堂宇を建て、本尊を刻んで安置。


 本来なら、八十八ヶ所最後のお寺。「満願(まんがん)」の地だ。ゆえに、沢山の杖が奉納されている。


(ここからさらに一番に「お礼参り」。四国に円を記すのが「結願(けちがん)」なのだそうだ)。


 時刻は四時を過ぎている。

 本堂・大師堂と回るが、霧の降りた境内に、人気(ひとけ)は少ない。

 奥之院は、ここから880メートルとある。『八十八番で880メートル。語呂が良すぎる。作為を感じる数字だ』と、ここでもいらぬ詮索。どちらにしろ、往復1・7キロ。とても行く気にはなれない。

 一番から回って来た人にとっては、感動もひとしおなのだろうが…もう五時の閉山時間も近い。さっさと宿に向かう事にする。


 正面山門を出ると、ここまで上って来た道が左右に走っている。右からやって来て、これから左へ向かうのだ。


(下の分岐から入った「国道377号」。先にも書いたが、相変わらず『これでも国道?』といった道。途中通過して来た小さな峠など、頂上付近にかかると、いっそう道幅が狭くなる。クネクネと見通しも悪く、車が来ると恐いくらいだった)。


 付近には、数軒のおみやげ物屋さん。

 入口のガラス戸から、こちらを見ている男の子(二才くらいか?)。ニコッとすると、ケラケラッと笑って引っ込む。こういう場合、必ずもう一度顔を出すので、そこで手を振って『バイバイ』。

 左に見えた宿に向かう。「民宿○○」。「民宿」とは(うた)っているものの、ちゃんとした宿。


「旅館」とは言っても、ほとんど普通の民家の所もあれば、こういう場所もある。詳しくは知らないが、経営上の戦略で、「民宿」を名乗った方が得な場合もあるようだ。


 おばちゃんに案内されて、二階の畳敷きの個室へ。

 先ずは風呂を頂く。本日一番ひどかった左足薬指のテーピングは、洗い場でふやかしながら、そ~っと()がす。

 洗濯機を回しながら部屋に戻り、座卓に向かって夕のお勤め。


「記録より、記憶に残るようなもの」とは言うが…プロのスポーツ選手なら、そういったものを目指すべきだろう。

 趣味で観てきたモーター・スポーツ。もう三十年来のファンだ。そして最近思う事。

『たとえ世界チャンピオンだって、二十年も経てば忘れられてしまう』

 誰が勝ったかなんて、一部の熱狂的な信望者や“おたく”以外、どうでもよい事なのだ。

 それよりも「こんなヤツがいた」「あんなヤツがいた」と語り継がれる方が、「選手冥利(みょうり)につきる」のではないだろうか?

 モーター・スポーツに限らず、スポーツ全般、「(この世界)結果がすべて」などと言われるが…『長いこと見続けてごらん』。

 何十年も()った今でも、「無冠の帝王」や「万年二位」で登場する人物がいる。

 一方で、「やっとの思いで悲願のチャンピオン獲得」あるいは「偶然も味方して幸運な一勝」を()げた選手。

 記録には残るだろうが、かえって話題に上らなくなった人もいる。

 もしあのまま終わっていれば「第二の○○」くらいには、語り継がれたかもしれないのに…

『結果がすべて?』

 案外そうではないから、『世の中、まんざらでもない』と、楽しく思えてくるのだ。


 夕方六時。下の食堂で、早めの夕食。

 先客二人。九州からのおじさんコンビ。五十代の現役サラリーマン。

 頭の薄い丸顔のおじさんは話好き。東京にいたこともあり、我が郷里にも、ゴルフや「関八州 坂東三十三箇所巡り」などで訪れた事があると言う。ローカルな地名が飛び出す。

 無精ヒゲの相方は、細身でちょっと神経質っぽい。銀行の支店長だと聞かされ納得。

 酒が回るにつれ、あれやこれや…遍路のきっかけや、二人の関係(小学校以来の馴染みだとか)。区切り打ちだが、今日で満願成就。舌も軽くなるが、前歯が無いし、九州訛りで良く聞き取れない。

 ひと段落したところで、洗濯物を口実に(実際そうなのだが)席を立つ。

 今夜の一品、お祝いの「赤飯」は、まだまだ関係無い物だ。


(もちろん食べた。その他、鍋・刺身・そうめん入りお吸い物…等々)。


 洗濯物を部屋に干し、時計を見ると十時近い。テレビをチラッと見ただけで、床に()く。


 さて、明日のコースはどうしよう? 広域地図がないので、イメージが湧かない。天気と足の具合も気になるところだ。


本日の歩行 35・19キロ

      45703歩

累   計 117・43キロ

      152525歩 




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