*第三十ニ日目 六月十ニ日(木)
夕べは…何だか良く眠れなかった。三十分ごとに「ボ~ン」と鳴る時計の音。蚊の羽音。腕がかゆくて…四時頃だったか、トイレに起きて…五時の目覚しを止めて、フト気が付くと十分以上が経過している。あわてて飛び起き、出発の用意。
西向きの窓を開ければ、曇ってはいるが雨粒は落ちていない。部屋の外を、パタパタと動き回るスリッパの音。
六時少し前。宿のおばさんにドアをノックされ、下に降りて朝食。北海道の女性は、すでに発ったようだ。先ほど、さかんに聞こえていた足音は、彼女のものだろう。
(名前は…名乗り合っていない。聞かれなければ答えないし、こちらから尋ねることもない。それで後悔した事も何度かあるが、昔から、そういう流儀を通している)。
向かいの部屋に宿泊していた初老の御夫婦。荷物をまとめて、朝食を食べている。お遍路さんではないし、車のようだ。旅行なのか? 私用なのか? たぶん、これからフェリーにでも乗るのだろう。
その御夫婦とは別の部屋。昨晩夕食を食べた隣室で、一人、朝御飯を頂く。
焼魚・蒲鉾・焼海苔・漬物。ゴハンニ杯に、お味噌汁一杯。
トイレで気張って六時半、おばさんに見送られて宿を出る。曇ってはいるが、すぐに降り出す事はなさそうだ。暑くもなく、寒くもなく、歩くにはちょうど良い天気。
すぐ先の「国道196号」に出て左折。
人気の少ない「堀江」の街並を抜けると、海沿いの道。左に海があり、その海側の歩道を行く。広くて歩きやすい。ただ霞んでいて、遠望は利かない。晴れていれば、綺麗な瀬戸内海の景色が広がっているのだろうが…太陽も出ていないので、方角もピンと来ない。
しばらく行けば、「北条市」に入る。
右側に「粟井坂大師堂」。ここは「お遍路」とは関係無いのか、番外霊場でもない。眺めながら通り過ぎる。
このあたりから、道は少し内陸に入り、海は見えなくなる。
徐々に家々が増え出したこのあたりは、「北条市粟井」。国道だし、「市」だけあって、店や家々が続き、通行量も多い。
(もっとも、さらに内陸側に「北条市バイパス」が走っているはず。ここを通っている車は、大半が市内への通勤と思われる乗用車ばかり)。
「JR粟井駅」近くを過ぎ、時刻は八時。もう一時間半歩いた。
途中、自販機で飲物を買い、コンビニで昼食用のおにぎりを買ったが、良い休憩場所が見当たらない。
いよいよ足がつらくなったところで、何の事はない、開店前のパチンコ屋の駐車場。そこの道路際にあった花壇のレンガに腰を降ろす。ちょうど良い高さ。通り過ぎる車を眺めて、しばしの休憩。
「ふ~」
こういった天気の日の常なのだが、今日もイマイチ頭がスッキリしない。何となく寝ボケた感じ。
そこを発った先、歩いていた左側に「風早八十八ヶ所 第四十七番 阿弥陀堂」。
道路から見下ろせる高さにある。ここも「遍路」とは無関係な場所で、眺めながら通り過ぎる。
この後、いったん家々はまばらとなるが、再び街並が始まり、やがて「北条市」の中心部へと入る。
次なる目標は「北条市役所」。「へんろマーク」は無かったが、「市役所」の標識に従い右折。市街地へと向かう。
踏切で「予讃本線」を越えた先。学校の角を左へ。時刻は八時半少し前なのだろう。遅刻スレスレの生徒たちと、「北条高校」前を通過。
正門を過ぎた先から狭い道。通勤・通学がひと段落したこの時間、「北条」の市街地は閑散としている。このまま北進。
中心部を過ぎ、右・左のクランク先で「立岩川」を渡る。ここで、汽車型幼稚園バスが、幼な児たちを乗せて走り去る。クラクションの音は、「ボ~ッ」という汽笛風。
川を越えると街並が終わり、水田地帯に出る。
ここからしばらくは、ひたすら道なり直進。実際、遠くに架かる橋以外、道自体が平地にまっすぐ伸びた直線路。1キロ以上はあろうか? これから越えるのであろう、「鴻之坂」がある「恵良山」の山並が前方に見えている。形の良い山だ。でも、高さ自体は恐るるに足らず。それ程ではない。
歩道は無いが、道幅は十分広い。通る車もほとんどない農道が終わると、上りに掛かる手前に小さな集落。新しい道を建設中。
先に進むと、右手に番外霊場「鎌大師堂」。
「弘法大師」が、里家の鎌で自分の像を刻み、病い平癒を祈って村人に遺したと云う地。
中をのぞけば人気は無し。時計を見れば、前回の休憩からちょうど一時間後の午前九時。
トイレがあったので、モタついていたお腹をスッキリさせ、十分ほど、ベンチに座ってひと休み。
見上げれば、相変わらず、一面灰色の空。でも気温が上がらず、歩くには良い。
そこを出たすぐ先で、細いT字路を左に折れ、登りに掛かる。舗装された狭い道。勾配が急な箇所もあるが、『このくらいなら、大した事はない』といった程度。
右側に養護学校がある所を右折すれば、間も無く最上部。「浅海」の街を眼下に見ながら下って行く。途中からは、左の遍路道で下る。
民家が現れ始めた頃、坂が終わる。集落に入り、踏切を渡った先に「国道196号」。ここで右折し国道に入る。
少し行った酒屋前で、自販機で飲物を買い込む。ここから左の遍路道に入る。
「浅海」の街を抜けると、海岸線沿いの国道。左の海側いっぱいにセリ出した部分には、歩道が無い。路肩が広いから良かったものの、突き出した岸壁をグルッと回る箇所は見通しが悪い。そこを回ると…「ホッ」。海側に歩道。
ここからしばらく、海沿いの道。海からの風があり、Tシャツでは少し寒いくらい。
その先にトンネル(おそらく「砥鹿山隧道」)が見えるが、そこには入らず海岸線を回るのが歩行者道。
そこを過ぎると、小さな漁港のある集落。歩道は陸側・右側へ。ここで少し雨がパラつくが、傘も出さずに歩く。この小さな集落を抜ける頃には雨も止む。
そこから1キロも進んだだろうか? 右側駐車帯に、主に果物を売っている店。自販機も数台並んでいる。まだ十時半だが…今日は涼しいせいか、妙に腹が減る。
ここで炭酸飲料を買い、店先のベンチで「早弁」。昼食用に買っておいたおにぎり三個を平らげてしまう。
三十分ほど休んで先に向かえば、左に港。大きな船も停泊している。
このあたり、道沿いの家々には瓦屋の看板を掲げた家が多い。「鬼瓦」等、瓦の産地のようだ。似たような造りの建物が並び、それぞれ屋号は違うが、「同業者の集まりの街」といった感じ。
その先・道路右側に、番外霊場「法佛山 遍照院」。
弘仁六年(815)、「弘法大師」が厄除けのために開基。
「厄除大師」の別称がある。
「聖観世音菩薩」を本尊に祀り、「真言宗 豊山派」に属する。
ここから右に入った丘一帯が、瓦にまつわる資料館や公園になっているようだ。
隣りのコンビニでおやつを仕入れ、「菊間」の街へと入って行く。けっこう大きな、港のある街。
「へんろマーク」もあったが、今日はそんな気分ではない。どうせこのあたり、旧道に入るだけの事だろう。そのまま国道を歩く。
どこにでもあるような国道の風景だが、嫌いではない。否、むしろ、バイク・ツーリングでさんざんあちこちの国道を走ったせいか、昔ながらの両側二車線、それぞれの街々を抜けて行く国道の景色は大好きだ。
(最近の、新造の国道バイパスや大型書店は、どうも好きになれない。『どこに行っても同じ』ようなものばかり。地方と都市の格差が無くなり、経済的に均一化されるのは良い事なのだろうが…風情や特色がなくなってきている…ように見えるのだ)。
ここからは、海が見える場所も少なくなり、遠巻きに見えたとしても、こんな天気、空と海との境界もわからない。
家並がまばらになり、さらに内陸に入ると緩い上り坂。左側には石油コンビナート。
ただ、「地下備蓄タンク」とあるせいか、巨大なタンクは見えない。見えるのは、精製用の施設と思われる建物と、縦横無尽に走る配管ばかり。
(最近までの仕事柄、石油コンビナートや化学工場にも出入りしていたが、こういった場所には機密保持のため、まったく使用されていない…というより、始めから使うつもりのない「捨て配管」が多数設置されているという。おそらく、見る人が見れば、「何を・どうやって」作っているのかが、わかってしまうからだろう)。
そこを上り始めると、左下にお堂が見える。
番外霊場「遍照山 霊泉院 青木地蔵堂」。
ここも「弘法大師」ゆかりの湧き水伝説の残る地。
お大師様が杖で示された所を掘ると、清水が湧き出したとされ、通称「青木杖大師」と呼ばれる。
上から眺めただけで通過する。
その後は、バイパス風の道。右側を歩いていたのだが、ライン引き工事中の片側通行の場所。そこからは左側歩行。
左に果物屋などの店がある峠から、下に下り切ったあたり。道向こうの右側に、「へんろマーク」発見。
道路を横断し、「亀岡」の小さな街並へと向かうが…『ん?』。途中から、雨粒がポツポツ。本日の雨、数は少ないが粒は大きい。
「JR伊予亀岡駅」付近に至ると、傘を出した方が良さそうな降りになるが…駅は、この道から右に「50m先」とある。右を向けば…50メーターなら見える距離。
行ってみれば、好都合な事に無人駅。誰もいない待合所には、灰皿とベンチ。「無人」とは言っても、かつてはもっと賑わっていたのだろう。構内は意外に広いし、かつての窓口の名残りもある。
時刻は昼を回ったところ。ここで、雨宿りがてらの大休止。
外では、プレハブのたこ焼き屋さんも営業しているが、「遍照院」の隣りで買ったパンを食べる。
その間、「今治行き」の列車。乗客の乗り降りは、ここからのおばさんが一人だけ。電車は「ワンマン」だが、「ディーゼル車」ではないようだ。
その後、「松山行き」に乗るために、おばさんが一人やって来る。話をしているところに、サングラスにサンダル履き、上下黒のジャージ姿の恐面のニーチャン登場。こちらにやって来て、身振り・手振りであれこれ。口がきけないようだ。「タバコをくれ」とやっている。おそらく、耳がダメなのだろう。舌をピチャピチャと鳴らす癖があるが、本人には聞こえていない模様。その後、灰皿を漁ってシケモクを吸っていた。
やがて列車の時間が近づいてきたのだろう、その他に二人やって来る。こちらは一時になったのをキッカケに、立ち上がる。
雨はポツリポツリ程度。もう傘は要らない。
まっすぐな道で集落を抜け、国道に出るのであろう左カーブも、「へんろマーク」に従い直進。線路沿いの小さな丘を越えてから、国道に戻る。
このあたり、昨夜の寝不足のせいもあるのだろうか? ボ~ッとしており、記憶が鮮明ではない。
やがて「大西町」の市街地に入る。左手・海の方角には高いクレーンが立ち並び、大きな工場などもあるようだ。造船関係だろうか?
国道を左に下り、旧市街に入る。宿も何軒かある大きな町。下校途中の小学生や中学生に声を掛けられながら、街並を抜け、再び左折で国道に合流。ここから東を向いて内陸に向かい、「今治」を目指す。
歩道がある右に渡り、平坦な水田地帯を抜けて行く、退屈な直線路をテクテクと…しばらく行けば、左手奥に密集した集落が見える道路脇。小さな川との間に挟まれた、細長い駐車スペースがある。歩道との段差に腰を降ろして小休止。時刻は二時十五分。ナゼだか今日はお腹が空く。ここで、おやつ用にと買っておいたパンをパクつく。
道はこの先で、右へ行くバイパスとの別れ道。道路を横断し、左の旧道へと入って行くと…間もなく歩道が切れ、路肩も無いような道となる。
このあたり、すでに「今治市」の一部。店やガソリン・スタンド、小学校。家々の数も増えてくる。地名は「延喜」。
『そろそろ左折のはず』だが…道が狭い割りには通行量が多く、『嫌だな~』と思っていると…左の路地への「へんろマーク」に、『ホッ』とする。
そこから、畑や民家の点在する丘陵地帯を歩いて午後三時、次のお寺に到着。
《第五十四番札所》
「近見山 延命寺」
本尊 不動明王(伝 行基菩薩作)
開基 行基菩薩
宗派 真言宗豊山派
「嵯峨天皇」の勅願で、「弘法大師」が再興。
数度の兵火に遭い焼失。享保十二年(1727)、「近見山」山頂にあったものを移して再建。
敷地は広くはないが、茶店もある。店のおばあちゃんに、お茶をお接待してもらう。
正面に本堂。左上の石段を登って大師堂。
戻って来ると、茶店との並びにある納経所で、昨日「五十三番 円明寺」にいた例の女の子が納経しているが…本日もタイミングが合わず、顔を合わせる事もなく立ち去る。
茶店のおばあちゃんにもらった地図と「へんろマーク」を頼りに、次を目指す。続くのは「寺」ではなく、八十八ヶ所中、唯一の「坊」。
(「坊」とは、辞書によれば「僧の居所」とある。一方「寺・寺院」は、「仏像を安置し、僧・尼が住み、仏道の修行や仏事を行なう建物」とある)。
緩やかなアップダウンの続く細い道。特別な用事でもなければ、車で入って来るような場所ではない。
集落や田んぼや畑を抜け、小さな丘を越えた向こう側には、広い敷地の市営霊園墓地。
そこを下って行く途中に、「白」の入っていない黒と茶の「二毛猫」。声を掛けると「ニャ~」と返事したり、立ち止まってはこちらを見たり。逃げもせず、平行して歩いていると…車で墓参りに来ていたおじいちゃん。低い位置にいるネコには気づいていないようだ。こちらがネコを相手に、立ち止まったり・しゃがみ込んだりしているのを見て勘違い。「お遍路さん! 疲れてるんだったら、乗せてってやるよ」と言われてしまう。
「いえいえ、大丈夫です」
墓地の坂を下って突き当たれば、「今治」市街地のはずれ付近。そこから左・北東方面に向かい、中心部を目指す。
街並がどんどん深くなる頃、左前方にお城のような建物。
『確か今治には、「今治城」があったはずだ』
『あれがそうなら、ついでに』と思っていたのだが…近づいてみてガッカリ。お城風のマンション。
(本物のお城は、街の反対側にあるようだ)。
がしかし、もしも本当のお金持ちになれたら、悪趣味と言われても構わない。小高い丘の上に天守閣風の家を建て、玄関の上がり口には鎧・兜。床の間には掛軸と、刃は入っていなくとも刀を飾る…が目標だ。
「さて」
次の目的地は「予讃線」の向こう側。市街地のドまん中を走る「国道317号線」沿い。
国道に右折した間もなくの所に、番外霊場 元札所「別宮 大山祗神社」がある。
祭神に「大山積大神」を祀るお社。
大宝二年(702)、「大三島」に総社を構える「日本総鎮守」の「大山祗神社」の別宮を、ここ「今治」に勤請。「文武天皇」の勅宣により、和銅五年(712)に社殿の造営が成った神社。
その「お隣り」といった感じの札所までは、あと数百メーター。だが、先ほどからポツポツ来ていた雨が、いよいよ本降りとなる。そんな中、目指す五十五番に到着。
《第五十五番札所》
「別宮山 南光坊」
本尊 大通智勝如来
開基 行基菩薩
宗派 真言宗醍醐派
元々はお隣りが札所だったが、明治初年の「神仏分離令」により、当社の本地仏である「大通智勝如来」を薬師堂に遷座し、札所となる。
時刻は四時。降り出した雨にサッサとお参りを済ませ、大師堂前、屋根付き「おへんろさん休憩所」へ駆け込む。
こんな時間の、こんな天気。街中だし、すぐ前を大きな道が走っていて、静けさとは無縁な場所だが、境内には他に誰もいない。
自販機で買ったパックのコーヒーを飲みながら、並びの電話ボックスにあった電話帳で宿探し。「今治」は大きな街だ。ビジネス・ホテルも沢山ある。
その中で、昨日同様、大そうな名前の割りには値段の安いビジネスに部屋を取る。果たして、「吉」と出るか「凶」とでるか?
先隣りには番外霊場「高野山 今治別院」。
明治十六年、「高野山総本山」より「弘法大師」の御尊像を勧請し、「高野山出張所」として開創。大正十一年、「今治別院」となる。
傘を差し、その前を通過。さらに市中心部へと向かうが、天気が悪くなったせいか、急激に暗くなってきた。
ホテルへの、最初の目印は警察署。雨の官庁街を抜けると繁華街。警察署近くのATMでお金を下ろし、大きなスーパー(デパートと呼んだ方が良いか?)横を右に入れば、本日の宿が見えてくる。
でも…『ハテ? ここでいいのか?』。着いてみれば、「ビジネス・ホテル」と言うより、れっきとした数階建ての「ホテル」。建物は少々古いが、造りは立派な「ホテル」。
『こんな値段で泊まれるのか?』
少々不安になるが、名前は合っている。とにかく、傘をたたんで中に入る。時刻は四時半…なのに、あたりはすっかり薄暗い。
『好きだな! こういうの』
本日の宿は「大当たり」。外観同様、部屋の造りも「そんな感じ」。
赤い絨毯風(のフエルト貼り?)の床。低いトーンの茶色のイスやテーブルに、冷蔵庫完備。バス・トイレの壁はタイル貼り。陶製の水洗トイレを流す取手は、真鍮っぽい鈍い光を放つ、細長・楕円の金属製。一言で言い表すならば「格調高い」といった感じ。
(元々の造りや素材が良い物は、年を重ねるごとに、かえって「渋さ」を増すものだ。それは人間だって同様だろう。しかし、こうなった今となっては…)。
きっとかつては、こんな値段で泊まれるような所ではなかったはずだ。
(領収書の旧経営者名に二重線が引かれ、新しい社名のゴム印が押されてある。かつて「壇ノ浦」で平氏が滅んだ際、同行していた女官たち、死にきれなかった者の多くが、彼の地「遊女」に身を堕したというが…)。
フロントのおじいちゃんも…昔からここで働いてきた人なのだろうか?…「ホテルマン」といった雰囲気を漂わせている。『このホテルの栄枯盛衰を見てきたのだろうか?』などと思わせる。
「老兵は死なず。ただ去り行くのみ」
有名な、ジェネラル「ダグラス・マッカーサー」の言葉が浮かぶ。
しかし、それも今となっては「今は昔」・「つわものどもが夢のあと」。今では手入れもイマイチ行き届いていないが…かつては開放されていなかったであろう洗濯場。先客があったので、本日は取り止め。とにかく、何となく落ち着ける場所だ。
「ふ~! さてと…」
今晩は素泊まりだ。外は相変わらずの雨模様だし、『フロに入る前に買出しを済ませておこう』と、ここへの入口角にあった大型店へ。久しぶりに本屋で立ち読み。
(本…とレコード・CD・テープ類…は、たとえ雑誌の類いでも捨てられない人間。旅の途中で購入すれば、荷物が増えるだけとなる)。
その後、地下食料品売り場で、今夜のゴハンを物色。
カツ丼・焼そば・マカロニサラダ。
(みっつ揃うと語呂が良い)。
それに、明日の朝食用の「いなりずし」と飲物等。
ホテルに戻って、先ずは陶器製のバスタブに浸かる。そして夕食後、これを書く。
外では雨が降り続いているが…明日の天気やいかに?
本日の歩行 38・97キロ
50621歩
累 計 1132・87キロ
1471822歩




