*第二十二日目 六月二日(月)
今朝は六時起き。
昨晩は静かで、静か過ぎて…幼少の頃、母方の祖母の家に泊まりに行った時の事を思い出す。同じ市内ではあるが、自宅は大きな通りに面しており、あの頃からうるさかったのだろう。一方祖母の家は、今でこそ住宅密集地になっているが、近所には雑木林などが沢山残っていた「辺境の地」。「街っ子」にとっては、「人間界」と「異界」との境界という感じがしたものだ。今回の旅行でもよく目にする「道祖神」や「お地蔵様」などは、かつてそういった場所に建(立)てられたものだ。虫の音も無い冬の夜など、寝床に入ると「シーン」という音がやかましくて、なかなか寝つけなかった憶えがある。
(漫画などでも、静かさを表現する時に使われるこの「シーン」という擬音は、造語ではない。現代においてはなかなか体験しづらいが、自分の体内を流れる血流の音なのだ)。
九時半には灯りを落としたのだが…さらに、火照った足が言う事を聞かなくて、寝返りを打つにもひと苦労…といった感じ。おまけに、周りは「打ち戻り」の人達ばかりのようで(宿の関係もあり、決して楽な行程ではないようだ)、朝は早くからゴソゴソやっているし…。こちらは足が絶不調。本日は、とりあえず「足摺」のお寺までは行くとして、その近辺まで…と思いノンビリ。
七時の朝食に下に降りると、最後の一人が出て行くところ。残った一人は、独り静かに朝ゴハン。生卵・納豆・シラス干し・焼ノリ・みそ汁・ごはん二杯に、仕上げの緑茶。
「ふ~」
思い返せば、『昔から、こんなだったな~』。気に入ったユースホステルでもあれば連泊して、皆が出払った館内でボケ~ッとしていたものだ。周りがあくせくしていても、『仕事じゃないんだから、気にする必要も無い』と、ひたすらマイ・ペース。ひとり旅だからこそ、自分の主義・主張を守りたい。
『あの頃知り合った人達は、今頃どこで・どうしているだろう?』。
昨晩の夕食の席…平均年齢は上がっているが、あの頃のユースホステルのような雰囲気があった。
『なかには、止められない奴もいるんだな』
そう思う自分も、その一人。きっと、あのころ旅していた人達の幾人かは、今もこうして旅を続けているのだろう。
「さて…」
そうは言っても、いつまでもノンビリ・グズグズはしていられない。ここに連泊するわけではないのだ。女の子二人は、厨房で洗い物。宿の女将さんに、シップを数枚頂く。
(ところで昨晩からここには、女将さんと、アルバイトの女の子二人しかいないようだ。普段は一人でやっているのだろうか?)。
トイレに寄ってから、皆に見送られて出発。玄関を出ると正面に、午前七時二十五分の太陽。
「目を覚ませ。もう真昼だ!」
誰の言葉だったろう? とにかくこの季節の太陽は、すでにそんな感じ。今日も朝から良い天気。
宿を出て、目の前の「国道321号」を右方向へ。必ずしも見えているわけではないが、左側の海に沿った道。歩道は無く、平日朝のこの時間、けっこう車が通る。この先、岬の反対側には「土佐清水市」があるからだろう。
(宿の女将さんは「清水」とだけ言っていた)。
ガイド・ブックによるとこのあたり、二箇所ほど、国道をショート・カットできる遍路道があるはずなのだが…「?」。歩き出し、足の調子がイマイチで、気が散っていたので見落としたのだろうか? ナゼだかこの近辺の事、良く憶えていない。朝一番で、寝ボケていたのだろうか? 思い出せるのは、宿のすぐ先にあった自動車教習所。『何でこんな所に』と思ったからだ。
そのうち左手前方に、サーファーが浮かぶ浜「大岐海岸」が見えてくる。そこに「へんろマーク」有り。小道を左に鋭角に入り、浜に下りる道。そこを辿って下って行けば、最後に上からも見えた歩行者用の木橋。ガタガタしており少々恐い。海に注ぐ小さな流れを渡ると、そこから先は砂浜。海に目をやれば…横長の、穏やかで滞空時間の長い、ロング・ボード向きの波。実際、長い板に乗っているサーファーがいる。そんな光景を眺めつつ、砂浜をサクサクと歩く。
台風で打ち上げられた流木の中に、ちょっと細いが、手頃な長さの竹を発見。常に鈍痛のある右足首。まだ、それ程ひどくはなっていないが、予防線を張っておく事にする。本日は宿に入る直前まで、コイツを手に持ち杖代わり。
浜の中ほどに達すると、このあたりはショート・ボード向きの波。月曜の朝、おそらく出勤前に乗っているくらいだから、気合いの入ったサーファーなのか? かなり上手い。でも、「巻き波に注意」の立て看板。
『「巻き波」って、どんな波?』
初めて聞く言葉だ。「栃木の山猿」には皆目見当が付かないが、危険なものには違い無い。こんな立看のある場所では、絶対に海に入らないだろう。
そろそろ浜も終わろうとする頃、陸寄りに進路を取る。ボチボチ「へんろマーク」があるかもしれない。それにたぶん、こういった場所は…たいていの浜がそうであるように、入って来た時と同様、最後は海に流れ込む川で遮られていたりするものだ。そんな状況を想定し、浜の終点近く、「へんろマーク」は無かったが、防波堤に設けられた階段から内陸の茂みに上がる。森の中の地道は、先日の雨のせいか、水溜りなどで未だにグチャグチャ。でも、すぐ近くに車が行き来する音。茂みを横切れば、すぐに国道に出る。
(後でガイド・ブックを読めば、この先「もしかすると靴脱ぎコース」だったようだ。「もしかすると」と表現したのは、潮の引いている時間帯なら問題無いが、満ちている時なら、靴を濡らす状態になってしまうからだ)。
しかし、すぐに「へんろマーク」で左の旧道へ。下からの「靴脱ぎコース」出入口を過ぎ、小さな集落を抜ける。このあたりから「足摺」まで、挨拶してくれる人・声を掛けてくれる人…お遍路さんは認知されているようだ。
(なにしろ札所であるお寺も近い事だし、行く人・戻る人、他の場所とくらべて、「お遍路密度」が高いせいだろう)。
その後、再び国道に出る。
少し歩くと、左側に「へんろ休憩所」…と思っていたが、着いてみれば小学校前のバス待合い小屋。そこに、昨晩同宿だった若者と、確か台風の日、七子の峠で出会ったおじさんが話し込んでいる。時刻は八時四十分。宿を出てから、すでに一時間以上が経過している。このまま通り過ぎるのも何だし、ついでにここで一休み。おじさんは、もう「足摺」からの戻りらしい。一方、まだこんな所にいる若者は、お腹の調子が悪いらしい。
(少しポッチャリ目の彼は、大学生くらいか? 遍路装束ではなく、ほぼウォーカー・スタイル)。
二人が右と左に出発してから、ゆっくり腰を上げる…が、何だか降りて来た。
先ほどの若者に当てられた訳ではないだろうが…急激にやって来た。幸い、国道の左脇は藪の中。降りやすそうなスロープになっている所でガードレールを越え、下に降りる。ザックを降ろし、ズボンを下げてしゃがみ込む。一番きついハーフ・スクワット状態に、膝がプルプル。でも、こういう時は他の苦痛…今の自分は右足首…の事はすっかり忘れてしまうから不思議なものだ。
『苦痛にも、優先順位がある』
妙に納得して立ち上がる。
(実際、「脳神経外科」的見地から見ても、そうらしい)。
「ふ~」
ホッと一息。ズボンを上げ、荷物を担いで国道に上がる。
その先で、「へんろマーク」に従い左に入るが…『?』。細い道を横切る広い道。右から左に向かって、下っている。何となく、その道に左折。下りた所は「以布利」の港。「いぶり」なんて、北海道を連想させるような名前。港には、何かの研究施設。それに、「マンボウ…が、どうたらこうたら」という施設(良く見てこなかった)。この時間の漁港は、静かで良い感じ。国道も、すぐ右上まで下りて来ている。
国道に戻れば、すでにこのあたり、「以布利」の街の中。そこからは「へんろマーク」に従い…家々の裏…崖の縁を歩く細い道…急な登りを登って、さらに国道横断。すると前方を、例の若者がヨタヨタと歩いている。でも、無理は禁物。杖をコツコツ、坦々と歩く。やがて街を抜けるあたり。左への細い遍路道入口で、休んでいる彼に追いつき・追い越す。
かなり急な下りを下って、ここからは「県道27号 足摺岬公園線」。
「以布利」の街から先は、しばらくの間、海沿いの広い道。まだ新しい。断崖と言うほどではないが、左下に海を見下ろす道。天気は良いし、景色も良いし、目の前には、陽炎燃え立つ直線路。ここで…
♪ノ~ンビリ行こうよ…♪
懐かしいメロディーが口に上る。七十年代、某石油会社のコマーシャルに使われていた曲だ。何というグループ(たぶん)の、何という曲なのか? 詳しくは知らないのだが、ここのフレーズだけは忘れない。
(著作権の問題が発生するといけないので、フルには書けないが)。
♪ノ~ンビリ行こうよ…♪
陽炎が立ち昇る炎天下。長髪・Tシャツ・ベルボトムのGパン姿の若者数人。
(当時の若者の、代表的なファッションだ)。
CMの設定上、おそらくガス欠をしたクルマを押している後ろ姿。あの映像と音楽が蘇る。
♪ノ~ンビリ行こう…♪
あの頃・あの時代、子供の目には、サイケなファッションや音楽などに、イマイチ共感できない部分もあったが…今、歩き遍路のメインのオジサン連中は、あの頃の若者「団塊の世代」と呼ばれた人達だ。
(正確には、「プレ団塊の世代」と呼ばれる人達。本物の「団塊の世代」の人達が定年を迎える数年後には、「一大お遍路ブーム」が巻き起こる事だろう…と予想する)。
「クルマはガソリンで動くのです」で〆だったハズだが…などと、そんな思いに耽っていると、やがて前方に、何かの建物が見えてきた。時計を見れば、十時を少し回ったところ。
『あそこまで行ってみようか?』
そんな思いもあったが、『無理しちゃいけない』。ここで、「十時の休憩」を取る事にする。
『海でも見ながら』と、パイプのガードレールの外に出る。すぐ先からは、切り立った絶壁。でも、腰を降ろせるくらいのスペースはある。草の上に座り込もうとすると…『?』。足元に、小さな黒いプラスチック製の札。手に取って見れば、「一番 霊山寺」と書いてある。キーホルダーか何かに付いていた物だろう。丸穴には、金属製の小さなリングが一つだけ残っている。何の変哲もない、それもガードレールを越えた道路脇の草の上。たまたまここに腰を降ろしたから気づいたものの…『これも何かの縁』。腰に巻いていたウエスト・ポーチのチャックのツマミに、リングを通す。手が掛かりやすくなり、具合良し。
そこに若者登場。「ぼくも拾いました」と、木の杖を見せながら通り過ぎる。でも、すでにヘロヘロの体。息が上がっている。こちらは、二十分ほど休んでから歩き出す。先に見えた建物は、右カーブの左頂点。着いてみれば「かつおぶし」製造所。ここの角にあった自販機で飲物補充。
その右カーブを曲がると、すでに小さな漁村の街はずれ。倉庫のような物ばかりだが、右の陸側には建物が続いている。「窪津」の街だ。
道は小さな漁港の近くを通る。
漁協や商店(「食べ物はありません」と書いてある。きっと、食料を求めて立ち寄るお遍路さんも多いのだろう)、海鮮屋さん…等々。
その先で、上りに掛かる。細くて、けっこう急な坂。
おまけに、上り始めてすぐの右側は砂防工事中。元々狭い道なのに、かなり長い区間、片側交互通行になっている。
とりあえず歩行者はフリー・パス。だが歩道は無し。誘導員さんに「気を付けて行って下さい」と言われるが、プレッシャーが掛かる。『急がなくちゃ』と、痛む足でセッセと上るが…こんな田舎のこんな時間。結局、原付バイクが一台通っただけ。
反対側の停止線を過ぎた所から先には、歩道がある。
歩道は左の上り坂。ガラガラと竹を引きずりながら、ダラダラと続く坂を上る。前方に、再び若者が見えてきた。上り切ったあたりの、左の木陰のコンクリート壁。彼は、そこに腰掛け荒い息。ここで先へ。
その先で、道は極端に細くなる。車では、スレ違えないような道幅。周りは木々が迫っているので景色は見えないし、風も来ないので結構暑い。
『そろそろどこかで…』と思うのだが、適当な場所が見当たらない。
そのうち右側に遍路小屋。「小屋」とは言っても、けっこう大きい。昨日の宿で、誰かが話していた場所のようだ。時刻は昼近く。ちょうど良い。
中をのぞくと男性が二人。五十代と思しきおじさんは、近所に住む、ここを建設中の人。元々あった建物を、寝泊りもできるようにと改装中。
もう一人は同世代、何度も回っている「香川」の男性。中肉中背の遍路姿。名前は「K」さん。「時間があったら、宇和島の『鯨大師』に行ってみたら」との事。まったく知られていないが番外霊場。ただし離れ小島にあるので、訪れる人はほとんどいないのだそうだ。
三人で…と言っても、こちらは宿でもらったお弁当(鰹節をまぶしたおにぎり二個。別添えで、梅干・たくあん。それと、バナナにあめ玉数個)を頬張っていたので、たまに口を挟む程度。大体が、二人のペースで話が進む。元々こちらは「聞き上手」。本来「人間ウォッチング」を好むタイプ。二人とも話好きのようで、場がよどまず居心地は悪くない。
そのうち、先ほどの若者も到着。トータル三十分もいただろうか? 「足摺」までは、もう6~7キロ。アセる事もない。
その間、「打ち戻し」のおじいちゃん遍路さん・どこかで見掛けたおじさん遍路さんも立ち寄る。
やがて近所のおじさんが、ここの主を呼びに来る。二人が出て行ったのを機に、Kさんが立ち上がる。続いて、ヘバッている若者を残し、十二時二十分、先に出発。
自分のペースでいたいから、いつも独り旅。人に合わせたり・合わされたりするのは苦手なタイプ。オンブしたり・ダッコされたり…その反対も嫌だから、元々結婚なんて向いていなかったのだろう。
(もっとも、相手が自分より弱い子供やお年寄りなら、話は少し変わってくるだろうが…)。
それに、独りでいる事に苦痛を覚えない人種。むしろ『四六時中、誰かと面付き合わせているくらいなら、一人でいた方がマシ』と思う人間。ましてや男との旅なんて、まっぴら御免。せいぜいが、宴会目的の一泊社員旅行や慰安の旅が限界だ。何日も、野朗同士がツルんでいるなんて気色が悪い。
(出張の多い最近までの仕事。夜くらい、独りでユックリしたいものだが…個室でないなら、かえって大部屋でザコ寝の方が気が楽だ)。
しかし、人間一人の力には限界がある。組織だった動きが必要な「重登山」や「大冒険」。結局、そういった事は出来ない「器」の小さい人間なのだろう。
それは、かつていそしんでいた「モーター・スポーツ」にも言える事。「レーサー」も、リングに上がった「ボクサー」同様、サーキットを走っている間は独りだ。
でも、スタート・ラインに辿り着くまでに、どれほどの人間や資金が関わってくる事か…下級クラスを走っている頃なら、個人の力でも何とかなるだろう。でも、上のクラスに上がるにつれ、規模が拡大して行く。組織が大きくなれば人も増え、「チーム・プレー」「チーム・ワーク」が重要な要素になってくる。
(関わる人の多い自動車レースは、完全な「集団競技」。一方で、一見「集団競技」に見える「野球」。部外者の個人的意見を言わせてもらえば、「野球」は「集団でやる個人競技」。一人一人の技量がしっかりしていれば、「チーム・ワーク」なんて不要なものに思える)。
もちろん一番大切な要素は、「速く走る能力」。そして次第に重要度を増してくるのが、人をまとめ上げる「統率力」なのだ。それなくしては、大成はおぼつかない。
だから面白い事に…技術の最先端を行く「モーター・スポーツ」。ハイテク満載のレーシングカーだが、技術が進めば進むほど・洗練されればされるほど、「個人の力」が見直されてくる。
有能なデザイナーに注目が集まり、優秀なマネージャーに白羽の矢が立つ。そして不思議と成功するのは、「カリスマ性を備えたドライバー」「シンボリックなオーラを放つ監督」のいるチームだったりする。
(全体主義的な日本のチームがまったく振るわないのは、結果を見れば明らかだ)。
結局のところ、すべて人間の成せる業なのだ。
(世の中に、「機械」と「規則」信望者は多い。「機械はウソつかない」と言う人もいるが、果たしてそうだろうか? 持論は「不完全な人間の作った物、完璧であるはずがない」だ。一方で、「規則だから」と、まるで「宇宙の真理」でもあるかのように、かたくなに「きまり」を固持する人もあるが…結局のところ、どちらも人間が作った物。時代にそぐわなくなった物は、変えていかなくてはならない。キカイにしても今の時代、「効率」だけを追求すればいいものでもなくなっている。最近では、プラス「環境」も重要なテーマだ)。
機械を使ったスポーツではあるが…ゆえに、「スポーツ」として認めない人も多い。
確かに、たとえどんな天才を連れてきても、マシンが三流ではまず勝てないし、その逆も起こり得ない。
(時には一流ドライバーが実力で勝利をもぎ取る、あるいは能力の劣るドライバーが偶然の幸運に味方されて勝つ事もあるが、「勝ち続ける」ことは無理だ)。
しかしそれは「競馬」とて同じ事…「モーター・スポーツ」は、ドライバー・マシン(を造る人たち)・その他もろもろを、一番高い次元でバランスさせたものが勝者となる。
上辺だけでは見えてこないが、知れば知るほどに、かえって「ヒューマン・スポーツ」である事がわかるだろう。
それに、巨額な資金と、巨大なマン・パワーの関わる「モーター・スポーツ」。他の分野の人達でも、ここから学ぶ事・学べる事は余りあるほどにあるはずだが…「他人に干渉されたくない」。そんな・その程度の人間では、「先は見えていた」のだ。
ポツポツと民家のあるあたりを抜け、道は海沿い、歩道のある、直線の多い道になる。
Kさんは、そう遠くへは行っていない。まだ見えるあたりを歩いている。
良いペースで上りを行くと、道が細くなった所で、先ほどの遍路小屋を先発したおじさんが休憩中。先に行くが、すぐに追い付いて来る。昨晩は、「下ノ加江」の宿に泊まったそうだ。白装束に身を包み、小柄で身軽そうな六十代。菅笠を目深にかぶり、腰のあたりに杖を抱えてスタスタ歩く姿は、時代劇に見る「侍」のようだ。「侍おじさん」はサッサと先に行く。
そこからは、道は狭いまま。つづら折れの車道を直線的にカットする、下り遍路道の入口で小休止。場所は岬の手前2キロほど。時は一時二十五分。
その後、薮に囲まれた細い地道を下り始めると…『?』。道の右脇の草の上に、寝転ぶ人影。良く見ると、「門司のおじさん」だ。こちらを認めて半身を起こす。もうすでに、「足摺」からの戻りだと言う。「愛媛」から打ち始めた「門司のおじさん」。いよいよ旅も大詰めだが、お腹に来たそうだ。正露丸を飲んでいるというが、ここで体力切れ。休んでいるところを邪魔してはいけないので、二言・三言で立ち去る。こちらも、マメ・足首と来て、そろそろ疲れも溜まっている頃だ。次は内臓か? 気を付けなくては。
やがて、「天狗の鼻」の看板。そこは素通り。「足摺岬」の看板には、あと数百メーターとある。
『もう少しだ』
森を抜けると、先ず目に飛び込んで来たのは「ジョン万次郎」先人の銅像。
(ホント、「高知」は銅像が好きだ)。
その横にあるのが「ジョン万ハウス」らしい。観光案内所とトイレがある。時刻は、まだ午後二時を回ったところだが…本日は足の調子もあるので、このあたりまで。
この付近は宿の数も多いので、『何とかなるだろう』と、宿探しは後回し。時間はあるので『岬近辺を散策して時間を潰そう』と、先ずは展望台方面の遊歩道へ。
ここも「室戸」と同様、遍路より一般観光客の方が多い。展望台まではわずかな距離。手前の売店で、おじさんからアイスクリン。これがあると、必ず食べてしまう今日この頃。
その後、展望台へ。
「ふ~」
天気は良いが、海しか見えない場所。ここは、「紀州の那智」・「室戸」と並ぶ「鼎の三足」。
(「鼎」とは、三脚の付いた釜の事だ)。
「補陀落信仰」の地。
「補陀落」とは、南の海の彼方にあるとされる「極楽浄土」。その地に向かって祈りを捧げるのが「補陀落信仰」。その究極の形として、「補陀落渡海」がある。かつては幾人もの僧が、何も持たずに、「極楽浄土」を目指して船出して行ったそうだ。もちろん、帰らぬ覚悟で…。
「補陀落渡海」については、南紀出身の作家「中上健二」氏の作品に触れた事もあり、学生の頃から知っていた。南紀の地を訪れた事もある。
だがしかし、「補陀落渡海」に「即身仏」。
(「即身仏」とは、衆生済度…迷える子羊を救うため、食を断って穴にこもり、死ぬまでお経を唱え続ける。早い話が「ミイラ」だ)。
しかし、どちらも体の良い「自殺」としか思えない。中途半端な人間が、中途半端に「悟り」を開いた状態で、急ぎ「極楽浄土」を求める。現実に絶望し、自ら命を絶つ行為と、何ら変わる事がない…と、思えるのだが…。
(「パンドラの箱」の話ではないが、人間は完璧な絶望状態に陥ると、その場で生命活動を止める事ができるという)。
きっと「悟り」とは、並の人間には手にあまる精神状態なのだ。
(「悟り」にも、浅いものから深いものまで、段階があるという)。
「無念無想」
「無我の境地」
そこでは、『人のためになりたい・誰かの役に立ちたい』という思いですら「欲求」。「無欲の境地」からは外れたものとなる。だから簡単には開けない・開いてはいけないものなのだ。
(安易で手軽な「アルコール中毒」や「麻薬中毒」。擬似「開眼」に近いものがあるのだろう。だからハマってしまい、抜け出せなくなるのだ。これについては「コリン・ウィルソン」先生という英国の伝奇作家も、とある小説の中で書いている。頭が良く・感受性豊かな人間の方が、酒や薬物などの依存症に陥りやすいと)。
もっとも「悟り」というものは、ごく個人的な体験で、人に理解させたり・他人に分け与えたりできるようなものではないのだろう。
「悟りを開く」という事は…たとえば、この地球は、「限りはあるが終わりは無い」と言う。どんどん進めば、また元の場所に戻ってしまい、大昔の人が考えたような「果て」は無い。しかし大きさは有限だ。だが、いったん視線を上に向ければ…宇宙空間に出た人は、荘厳で宗教的な心持ちになると言う。
(実際、アポロ宇宙飛行士の中には、その後、宗教家に転身した人もいる)。
「悟り」とは、そんな「境地」に近いのではないだろうか? きっと同じ平面ばかりを眺めていても、いっこうに「悟りは開けない」のだろう。そして、それができるかどうかは、「知能指数」などの良し悪しより、その人の持つ「感性」や「品性」によるところが大きいような気がするのだが…。
人間という存在について、前々から思っていた事がある。『人間の優劣とは、いったい何だ?』という点。「馬鹿と利口は紙一重」とはよく言ったものだ。「天才」と呼ばれる人達に、いわゆる「障害者」と呼ばれる子が誕生する場合がある。割合にすれば、かなりの高確率だろう。「天才」の向こう側にあるものは…「大天才」ではない。「悟り」を開けるような偉人でもない。きっと人間とは、四国巡礼が「円」を描くように、地球が球であるように、循環した存在。それぞれ違う存在だが、みな同じ人間。大した違いはない。「棒グラフ」のようなもので「高低」を比較できるようなものではないはずだ。
(だからもし、「精子バンク」で種を買うなら、「天才」の物はやめておいた方が無難だ。せいぜい「秀才」程度にとどめておくべきだろう)。
言葉が足りない部分も多々あるだろうが、言いたい事の幾分かでも伝わっただろうか?
『自分はいったい、その「円」のどのあたりに位置するのだろう?』
(おそらく、大多数の人間が属する域で、埋もれているのだ)。
それにしても時々思う事は…もしたった今、何かの不可抗力で命を落としてしまったら…やり残した事が山ほどありそうで、悔やんでも悔やみきれないだろう。なにしろ、何一つとして「真実」「真理」と言えるものをつかんでいないのだから…そう思うと、胸が詰まる思いだ。
しかし「禅」では、たとえば竹の切り口を見ただけでも、一瞬にして「悟り」に至ると説く。だからできれば「最期」は…「あきらめ」ではない。「納得」とも違う。上手い言葉が見つからないが、あえて言えば「肯定」…『そんな境地で迎えたいものだ』と思っている。
「さて…」
展望台の後は灯台に回る。
そこから先へは行かず、右方向へと向かうと…「ジョン万ハウス」の少し先。おみやげ物屋街のはずれに戻る。
お寺はほぼ正面。「室戸」と同様の山寺を想像していたのだが…たった今、眼下に海を眺めたほどの海抜の、県道沿いに建っている。
《第三十八番札所》
「蹉蛇山 金剛福寺」
本尊 三面千手観世音菩薩
開基 弘法大師
宗派 真言宗豊山派
[注:この日撮った写真。ナゼかお寺で撮った数枚だけ、露出オーバーで境内の写真は一枚もありません。あしからず]
弘仁十三年(822)、「嵯峨天皇」の勅願を奉じた「弘法大師」により建立。
源氏一門の尊崇を受けて栄える。
「亀呼び場と不動岩」の伝説。
「ゆるぎ石」の遍路道。
境内に入ると、ちょうどあの若者が納経しているところだった。
他には、外人のおねえさんが二人いるくらい。強い日差しにあふれてはいるが、閑散としている。
お参り後、「ジョン万ハウス」方面に戻る。
建物の前には、見知らぬ遍路のおじさん、Kさん、若い男性遍路さん。三人は顔見知りなのか? とにかく「へんろへんろ」している人達とは、あまり交わりたくない気分。
少し離れたベンチに座って、本日の宿の手配。ここから、「足摺」の街を少し先に行った宿を取る。この近くだと、遍路さんが集まりそうだったので敬遠したわけだ。
遍路に出ていながら遍路嫌い…何ともヘンな話だが…。
(バイクに乗っていながらバイカー嫌い…でもあります)。
「さて」
宿も決まった事だし、まだ時間もある。先ほど出て来たおみやげ物屋脇の道に再び入り、遊歩道を先へ。七不思議の岩々を見ながら海辺の方に下りる。
このあたり、海底にまで巨岩が達しているという。最近話題となっている「沖縄県 与那国島」の海底遺跡ほどではないが、「ここにも太古、巨石文明があったのではないか?」との説を唱える人もある。
あまり着目されないが、「氷河期」の地形とは、どのようなものだったのだろう?
一番最近のものは二十万年前とされ、「原始日本人」や「ナウマン象」は、大陸と陸続きだった頃に渡って来たというが…陸地が多く、渡れる氷河・氷山だって多かった事だろう。離れ小島に棲息する動植物にしても、「海を渡った」などといった説は、どうにも腑に落ちないものが多い。ひどいものになると、「流木に乗って、偶然流れ着いた」などといったお粗末な学説もある。
生物の「誕生」や「進化」に関しても時々引用される「偶然」とは、それほどまでに「必然」なのだろうか?
人類にしても、たとえば「ポリネシア」から「アイヌ」・「イヌイット」・「アメリカ・インディアン」・「インディオ」と広がる『環太平洋民族』。「海を渡った」とする説より、陸地や氷河を「歩いて渡った」とした方が、よほど「ありえそう」な事だと思うのだが…。
『思っていたより最近まで「氷河期」だった』
(1万5千年くらい前までは、そうだったという)。
あるいは『思っていたより前から、人類は進化していた』のではないだろうか。
たとえば日本の反対側、中・南米では、縄文式にそっくりな土器が出土するという。かつてそのあたりで栄えた『インカ帝国』。長大な「インカの道」を持ちながら、「車輪を持たない文化」だという。また、「文字を持たない文明」とも言われている。あるのは、ヒモの結び目を使っての表現・伝達方法。ただこの網目模様、その名の通り縄の文様を施した「縄文式土器」と対比され、縄文の文様には意味がある…とする説もある。
どちらにしろ、何のアテも無く、大海原に乗り出す気になるだろうか?
(「補陀落渡海」や罪人ならともかく…案外、そういった人たちが流れ着いた?)。
「鳥が渡って来るから、陸地があると思った」説は理にかなっている。が、何も海の上を渡っていかなくとも、人類はすでにはびこっていたのだろうし、後世になって、前世の記憶を頼りに…かつてそこに陸地があり、人が住んでいた事を知っていたからこそ、海に出て行ったのではないだろうか?
(鳥の「渡り」と同様、人類の「航海術」も太陽と北極星を頼りに、割りと簡単・正確に、「南北」の位置は計測していただろうと云う。しかし「東西」のズレの測定は、なかなか難しいそうだ)。
…と思いが飛躍しつつ、「白山洞門」前で一息。
目の前の海には、数十メーターはあろうかという、切り立つ巨岩。正面には、大きな縦長の裂け目が開いて、向こうの海が見えている。波の浸食によるものだろうが、なかなか絶景。
(案外、前世の「巨石文明」のモノリスと門?)。
岸側には、コンクリート建屋の大きな休憩所もあるのだが、ほぼ廃墟。他に五~六人連れの観光客。
その後、道は上に上がって、出た先は「足摺」のホテル街。
県道右側には、広い駐車場。ここで、その敷地内にある観光案内所で飲物等を仕入れる。ここのおばさんの話では…本日の宿、バスの運転手さんとガイドさんばかりで、一般の人はあまり泊めない宿だという。
飲物を持って、その先で左に入った公園へ。そこで、しばしの時間調整。ベンチに腰を降ろす。
「ふ~」
みな「暑い、暑い」と言うけれど、それほどには感じない。
ただ、日の一番長いこの季節、時間がもったいない気もするが…前にも書いた通り、「距離と疲れは比例する」ので、無理は禁物。
でも本日は、夕方近くなったこの時間なのに…ずっと竹竿を突いていたせいか? 昨日・今日と距離を減らしたせいか? はたまた、疲れもピークを越したのか? 足の痛みも、さほどでもなくなってきた。「足摺を過ぎたら良くなる」のジンクス通りなのか? とにかく、四時になるのを待って、腰を上げる。今日一日お世話になった竹杖には、ここで自然に帰って頂く。
その先は急な坂…と思っていたが、遍路道は平坦な左へ。本日の宿も、こちら方面。
細い道に入り、何軒か民宿を過ぎた右側に本日のお宿。時刻は四時十五分過ぎ。造りは良い。手入れも行き届いた、清潔な感じの宿。
玄関に出て来た、年の頃は同じくらいの女将さん。
「七千円ですけど大丈夫ですか?」
もちろんオーケー。そんなに貧乏遍路じゃない。
二階建ての建物の二階。一番奥の和室に通される。
先ずは…時間も早い事だし…着ていた物まで脱いで洗濯へ。自分でやろうと思っていたのだが…女将さんが、「明日の朝までには」といった感じで、かえって恐縮。
部屋の冷房をつけに来てくれた御主人と少々会話。その後、お茶と宿帳を持って来た女将さんとも少し話す。最初はうさん臭そうに思われていたようなので、前金で支払う。こちらもその方が安心だし、朝の手間も省ける。
五時頃、風呂が沸いたとインターフォン。時間も早いせいか、まだ他の宿泊客は皆無。
一番風呂から出たついでに、ビールを一本。料金引き換え。
やがて、本日の記録をつけているうちに六時半。独り1Fの食堂へ。
食卓のお膳の茶碗は、青が男性・赤が女性用。案内所のおばさんの言葉通り、他の三組はすべて男女のペアー…つまり運転手さんとバス・ガイドさん…なのだろう。
お膳の内容は…ハンバーグ・刺身・タレ漬けのカツオの切り身・そうめん入りのお吸い物、その他。部屋の建て付けも良いし、これで七千円なら安いものだ。
食後は部屋に戻り、こちら西日本方面でしかやっていないトーク番組を見ながら、コレを書く。そして今、十時過ぎ。そろそろ本日の分も終わりに近づいている。
さて明日は…戻るのも遍路なのだろうが…今日は幾人か、見知った顔ともスレ違うが…なるべく、そういうコースは取りたくない。このまま先に進むルートに決定。
その後は…「土佐清水市」を過ぎてから「山越え」のコースもあるが、宿の都合・足の具合もあるし…地図を頼りに、ガイド・ブックにも無い、海沿いのルートを行く事にする。
「天気は晴れでも、足腫らすな」
足首はまだ腫れているが、調子は上向き加減。酔いも覚めたし、今朝、宿でもらったシップを貼って、そろそろ寝る事にしよう。
本日の歩行 25・79キロ
33503歩
累 計 756・85キロ
983428歩




