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*第十六日目 五月二十七日(火)

 朝は五時半に起床。カーテンを開けると…雨は降っていないが、曇り空。

 準備を整え、六時半に向かいの本館(?)へ行って朝食。昨日と同じ、二階の部屋の同じ場所。

 朝のメニューは…ワカメと豆腐の味噌汁。目玉焼きと焼魚。チクワとコンニャクの煮物。焼き海苔・お新香、そして久々の納豆。


(西日本のせいか、納豆が出る頻度は少ない)。


 ゴハンは二杯。下に下りて宿代を払う。部屋に戻ってトイレなどを済まし、七時二十分、出発。

 先ず、港付近で写真を撮る。

 いまだに放置されたままの子ネコの死骸の前で、手を合わせる。すぐ前には「住吉神社」。


(大き目の集落なら、どこにでも一つはあるような小さな神社だ)。


 入口には、特攻服姿の人物の銅像と慰霊碑が建っている。

 説明書きを読むと…ここにはかつて、太平洋戦争の頃、玉砕覚悟の体当たり船「辰洋(しんよう)」の基地があったそうだ。


(写真で見る限りでは、小型のモーター・ボートといった感じ)。


 早い話、「神風(カミカゼ)特別攻撃隊」の海洋版。本土決戦に備えた特攻隊だったが、あまり出番のないまま終戦を迎える事になる。しかし、戦争が終わったというのに、事故で多くの犠牲者が出てしまう。そのための慰霊碑だ。


(旅の後、たまたま偶然にも、歴史雑誌でこの件に関する記事を目にした。公式にも、積んであった爆薬に引火。次々と誘爆し、「本土決戦の火蓋が切られた」との誤報が流れたほどの被害だったらしい)。


 早朝の、人気(ひとけ)の無い神社前。ひとり特攻服姿の銅像を眺めていると、フトこんな考えが浮かんで来た。

『全員の合意があったかどうかはわからない。しかし、覚悟の上の集団自決が本当のところではないだろうか? きっと、そういう時代だったのだ』

 そんな風に思ってしまうのは、考え過ぎだろうか? 最後に、(たなごころ)を合わせてこう願う。

『可愛い子ネコをもらって下さい』

 合掌。


 その後、昨日折れて来たうどん屋角まで戻り、再びサイクリング・ロード。

 曇ってはいるが薄曇り。安定していて、雨は降りそうにない。

 間もなく「手結(てい)」の「サイクリング・ターミナル」入口前を通過。でもここからでは、ターミナルは見えない。その先から「夜須(やす)」の街へと下って行く。

 下り切った所に、海水浴場裏と思われる、大きな駐車場のある場所。競技用手漕ぎボートの桟橋もあるようだ。まだ歩き出して二十分。何事も無ければ通過するところだが…『む・む・む…』。「グッド・タイミング」と言えばグッドなタイミング。宿で二回も行ったのに、お尻の先に「グッ」と来た。もう少し残っているようだ。

 ここでトイレに入るが…ジョギング中などでもそうなのだが、動いているところから急に止まると、息が切れるし汗も吹き出す。トイレを出てから、ベンチに腰掛け軽く休憩。


 その敷地のすぐ先で、「夜須川」を「豊栄橋」で渡れば、まだ新しい「道の駅」(とあったと思うのだが…?)に入る。まだ店は開店前。エプロン姿のおばさん達が、準備に追われている。ここでサイクリング・ロードも終わりのようだ。

 出口から「国道55号」に出る。即、狭いが歩道のある右側へ横断。このあたり、「夜須町」の中心部は抜けているが、まだまだ家々は密集している。時おりスレ違うジョグの人達は、この先にある自衛隊基地の隊員達だろう。

 旧道らしきものがすぐ右を走っているが、狭そうだし、朝の通勤時間帯、混んでいる国道の裏道になっていそうだし…で、「赤岡(あかおか)町」に入る頃までは国道を行く。


 小さな神社先で右折。「へんろマーク」があったからか? よく憶えていないのだが、とにかく旧道に入る。地元の人影もチラホラ。

「陸上自衛隊 高知駐屯地」正門前を過ぎ、「絵金資料館」に差し掛かる。「資料館」とは言っても、外観は普通の民家。ここは(知る人ぞ知る…個人的には、まったく存じてませんが)「絵金(えきん)」の名で親しまれた幕末の絵師「弘瀬(ひろせ)金蔵(きんぞう)」さんの屏風絵が展示されてあるそうだ。

 ちょうど、おばあちゃんが自転車で乗り着けたところ。まだ開館前だ。


「明神橋」で「香宗川」を渡り、「赤岡」の中心部へと入って行く。マークや看板に従い、商店の建ち並ぶ旧市街を抜ける。「町」とは言っても、けっこう大きな街だ。

「赤岡橋」を渡った先の左側に、何かの公共の施設と思われる建物。大きくて新しそうな敷地のはずれ。今歩いている道の際に、自販機のある屋根付き休憩所。『ボチボチ休憩』と思って座ったのが「運の()き」。通り掛かった自転車の、ヘンなおっさんに声を掛けられる。

 坊主頭が伸びたような髪型。黒系の薄着で細身。年の頃は五十前後か? 色が黒くて「漁師です」といった感じだが…朝から酒臭い。パンの切れ端を食えと差し出す。仕方なくチビチビ。「お遍路さんと話をするのは初めて」なのだそうだが、「コーラをオゴッてくれ」と言う。ここで止めておけばよかったのだが、「旅は道連れ。世は情け」気分が災いして、「一刀彫りをしているおじいちゃんの所に案内してやる」などといった事になってしまう。

 自転車で先に走り出し、斜め右に()れる道に入って行く。住宅がまばらになり始め、所々で、畑仕事をしているおばさん連に声を掛けながらフラフラと走る。顔は広そうだが…1キロも行ったか? 左手にあった農家の別棟に上がり込むと…そこは七~八十と思われるおじいちゃんの、趣味の仕事部屋。和服姿の丸顔で、色が白くて頭の薄いおじいちゃんは「また来たのか」といった表情。彫師の腕は…それは本人もわかっている事だろうが、素人の趣味。場の空気を読み、おじいちゃんにお礼を述べて、早々に退散。はっき言ってこの酔っ払い、「近所のやっかい者」のようだ。帰り際、母屋の前にいた暴走族風の…たぶんおじいちゃんの孫も苦笑い。そこを出ると、酔いが覚め始めたのか、酒屋の前で立ち止まり、「ビール買うから二百円くれ」。あいにく小銭が無く、これで最後と千円札。そこから国道が見えるあたりまで一緒に行く。


 どういう訳か昔から、そんな役回りなのだ。幼稚園や小学校、付き合いを持ってみれば、みんなの「嫌われ者」や近所の「やっかい者」。自然と、そんなものを押し付けられる運命なのだ。現在でも…仕事仲間と酒を飲みに行っても、フト気が付けば、目の前に座っているのは「いつも浮いてる」奴だったり…と、そんなところがある。

『そういう星の元に生まれてきたのか?』

 そのうち、国道手前の、少し大きな病院前。「コーヒー買ってくる」と、そこに入って行く。しばらく出て来ないので、『行ってしまおうか』と思っていると、缶のコーヒーにスポーツ・ドリンクを持って出て来る。二つとも、先ほどの千円で買ったのだろうが、「二つとも持って行け」と言う。

『これもお接待と言うのだろうか?』

 そのおっさんとは、そこで別れた。この病院に行くそうだ。


(どうやらこれは本当らしい)。


 アル中・糖尿、耳が遠くて声がデカい。ろれつの回らない土佐弁(…なのか?)の、ヘンなおっさん。「写真を撮ってくれ」と言い、「送れ」と言うが、聞き書きした住所は意味を成していない。


 昔、こんな事があったのを思い出す。沖縄方面に旅した時、離島に渡ろうとフェリー乗り場。申し込み用紙に、「船名」を記入する欄があった。受付にいたおじさんに尋ねてみたのだが、訛りがすごくて聞き取れない。三度聞き直したら失礼だと思い、聞こえたままに記入した。平仮名で「ふえりかりえす」。船着場に行ってみると…「フェリーかりゆし」。あの時、あの申し込み用紙を見たおじさんは、何を思っただろう? 今でも少々気になる。


 そこから、すぐ先に見える「55号バイパス」に入る。多少の「寄り道」となったが、距離的にはそれほど遠回りはしていないようだ。

 途中、上からポツポツと来る場面もあったが…標識に従い、「野市(のいち)町」中心部へと、国道から「県道22号」に右折する頃には日が差し始めた。今日は元々ムシッと暑かったが、照ると一段と暑くなる。

 路肩の無い道端を歩いて、役場付近を通過。お寺に向かう道に右折すると、左に「龍馬記念館」。ここはあっさりパス。


 世の中に、「坂本龍馬」氏に心酔している人は多い。しかしここでも、元来・生来のひねくれ者根性が現れる。多くの反感を買う事を恐れずに言わせてもらえば…『龍馬なんて、西郷の手先』くらいにしか思っていない。たとえば現在でも、時として商社の人間などが、特に政情不安定な国などで、スパイの嫌疑をかけられ当局に引っ張られる事がある。


(たとえ本来の目的が商売であったとしても、その場所に行って、様々な関係者と接する機会があれば、「百聞は一見にしかず」。色々な情報がもたらされるものだろう)。


「亀山社中」や「海援隊」とは、今で言う「商社」。つまり、『坂本龍馬は商社マン。ついでに薩摩や長州で諜報活動をしていただけ。いま現在、多くの人が持っている龍馬像は、時代小説によって創り上げられたもの。本来、西郷隆盛あたりとは「格」が違うのだ』と思っている。


(確かに、夢も希望も無く、ただ漫然とその日その日を送っている「パンピー」…「一般大衆」をこう呼ぶそうだ…とは比べものにならないほどの偉人ではあるのだろうが、『必要以上に持ち上げられている』と納得がいかない訳だ)。


 だからここはアッサリ決心がついたのだが…その隣りと言えるくらいの距離に、「四国自動車博物館」。

『アレ!』

 入口に展示されている車に目がとまる。

『カレラ(シックス)だ!』

 往年の名レーシング・カー「ポルシェ906」。初めてその世界に興味を持った六十年代後半に活躍したマシーン。じかに・(ナマ)で目にするのは初めて?


(否、かつて小学生の頃、「東京」は「晴海」で開かれた「東京レーシングカー・ショー」で見た事があったはずだ)。


「心()かれるもの大」で、入口まで行ってみるが…『道草を食い過ぎてしまったし』と、思いとどまる。

 すぐ先の右側にあった「へんろマーク」に従い、民家の裏手を抜けると、お寺への石段の途中に出る。右に曲がって石段を登り切り、細い車道を歩いて左の山門へ。

 さらに石段を登れば、青い空をバックに本堂が見えてきた。


《第二十八番札所》

法界山(ほうかいざん) 大日寺(だいにちじ)



   本尊 大日如来(伝 行基菩薩作)

   開基 行基菩薩

   宗派 真言宗智山派


「弘法大師」により中興されたお寺。

 明治初年の「神仏分離令」により、いったん廃寺となるが、明治十七年に再興される。


 お寺自体は小さなお寺だが、この日唯一の晴れ間がのぞく。

 お参り後、少し先にある「奥之院」まで行ってみる。

 参道にはおみやげ物屋が数軒並んでいたが、休憩もせずに石段を最後まで降りる。

「へんろマーク」に従い、下の道を横断&直進。田んぼと集落を抜けて行く細い道。

 しばらく行った右側に、定休日のスーパー。そこの自販機前に座り込み、しばしの休足。飲物を買い、例のおっさんにもらったパンをかじる。時間とお金の無駄だった? 『まあこんな事もあるさ』とあきらめよう。心模様と同様に、空模様も再び曇り空。『歩くにはこちらの方が良い』と納得しよう。


 そこからは「へんろマーク」に従い…家々の垣根の間を抜ける細い路地…あふれ出しそうな水量の、用水路の左に沿う道…ずずっと進んで、左直角カーブを立ち上がると、「戸板島橋」で、けっこう幅広の「物部(ものべ)川」を渡る。渡り終えた所で、マークに従い左の農道へ。直線の多い、水田地帯を通過する広い道。「京田」というあたりの、道路左側に接待所。何かの商売をしている家の一角。奥に人の気配はするが、わざわざ立ち寄る事もない。


 集落を抜けると、またまっすぐな道。少々退屈だ。ただしこのあたり、歩道が無く、路肩を歩いていたと思うのだが、車通りはほとんど無く、見通しも良いので、変な気を(つか)う必要は無かった。

 緩く上って集落に入った所で、田んぼの直線路が終わる。民家裏手のコースから、砂利道を過ぎ、田んぼのクランク。民家の間をマークに従い抜けて、まっすぐ進む。県道っぽい道を横断。


 どんよりと曇っており、時間の感覚は無かったが…『腹減ったな~』。時計を見れば…今日の「腹時計」は正確だ。そろそろ昼が近い。

 そうこうしていると、右手にコンビニの看板。道一本向こう側だ。ここでコースを(はず)れ、そちらに向かう。出た先は、どうやら「国道195号」。道路の向こう側を、鉄道が走っている。このあたり、まあまあ民家がある。それもそのはず、コンビニ手前に「土佐長岡」の駅。通っているのは「JR土讃(どさん)線」。ちょうど列車が着いたところ。

 コンビニで食料を仕入れ、鉄道と並走している国道をしばらく進むと、踏切りのむこうに「四国のみち」の木製看板。それに従い鉄道横断。道路工事中の先で右折すると、団地のはずれに小さな公園。時刻は十二時二十分。ここの屋根付きベンチでお昼。「肉焼きそばロール」に「ハムカツ・サンド」。レシートを見ると、ここは「高知県 南国市」らしい。


 ここまで来れば、次のお寺までは2キロほどのはずなのだが…。

 その先は、学校もある集落。T字路に突き当たり左折。少し先をマークに従い右へ。正面には良い感じの神社。そこに突き当たって左。

 少し行けば、左右に走る広い道に出る。まだ新しそうだ。ここの手前角に、「四国のみち」の木製道標があったのだが…変な方向を向いている。横断しろという意味か? 左折という意味か?? 道路を作りかえた時、適当な向きに設置してしまったのだろう。横断すれば、少しズレた所に農道風の道。行けない事もなさそうだが、でも『???』。新しくなった場所は、「へんろマーク」も無いから大変だ。

 とりあえず左折し、キョロキョロしながらその先の交差点に辿(たど)り着くと…『あった!』。右先のガードレールに「遍路札」。でも、直角カーブの頂点にあったのでは、どちらに行けばいいのやら? ガイド・ブックの地図は、いたって単純な表記なのだが…解説をよく読んでみると、次のお寺は、こんもりとした森の中にあるらしい。ここを右折すれば、そんな森がいくつか見える。

『これでいいのかな?』と半信半疑のまま、右方向へ緩い足取りで進めば…『ホッ!』。「へんろマーク」有り。

 歩道が無いこの道をそのまま進めば、地図にある「国府橋」。戦前までは渡し舟を使っていたという「国分(こくぶ)川」を渡って、すぐ左折。森の中の二十九番、土佐の「国分寺」に到着。


《第二十九番札所》

摩尼山(まにざん) 国分寺(こくぶんじ)



   本尊 千手観世音菩薩

   開基 行基菩薩

   宗派 真言宗智山派


 天平十一年(739)、「聖武天皇」の勅願により、「行基菩薩」が開基。

 後に「弘法大師」が中興したお寺。


 時刻は二時近いが、今日はもう一つのお寺を通過して、「高知市」まで行くつもりだ。

 ここからまだ10キロはある。

 サッサとお参りを済ませ、「土佐国分寺跡」をのぞき、休憩も取らずにお寺をあとにする。


 このあたり、平地に広がる水田地帯。田んぼ道を抜け、小さな集落へ。軽自動車同士でもスレ違えないような道を抜けると、「国道32号線」。ここは横断。その先で県道に突き当たる。


(このへんは、「御免」という地名。「ごめん」と読むのだろうか? 「井上陽水」氏の古い曲『御免』を思い出す。七十年代の楽曲だが、その頃のミュージック・テープをまだ持っており、今でも時々聴いたりする)。


 手前右角に商店。その店先にあった自販機で、飲物を買って小休止。落ち着けるような場所でもなかったので、飲むだけ飲んだらそそくさと左折。

 少し進むと、右への分かれ道に「高知」の標識。この県道に入ってしまうが、遍路道はもう一本先だったようだ。


(最後は合流する事になるのだが、この先の峠に行き着くまで気づかなかった)。


 道は直線部分が多く、車通りも多い。ただし歩道完備なので、歩くのに問題は無い。

 最初の低いピーク付近は道路工事中。『こんなものか』と思っていたが大間違い。その先延々と、緩いが長い上り坂が続く。

 左に「高知医大」の建物を見て…途中、『傘を差そうか?』という降りに見舞われ…トボトボと登る。左からの道と合流後、やっと最後の「逢坂峠」。それほどきつい傾斜ではないので、体力的には大した事はない。それより、単調な景色・退屈な道程(みちのり)に、『精神的に疲れた』といった感じ。

 下りに入ると、左手に「一宮墓地公園」。

『ハテ?』

 思い当たるフシがある。

『もしかしてここは…』

 中に入ってみる。


(はっきり言って「墓地」というもの、嫌いではない。夜間に、面白半分の「きもだめし」などで訪れる場所ではないが、適正な時間帯なら「神聖」な空気が流れているものだ)。


 丘陵といった感じの斜面に、きれいに区画された墓所が並ぶ。

『やっぱりそうだ』

 見憶えがある。ここは、ちょうど二十二年前、ハタチの時に、夏のバイク・ツーリングの途中で休憩した場所だ。

「九州・沖縄」方面からの帰り道、たまたま立ち寄ったのだ。「高知市」方面を見下ろす、高台のベンチで撮った写真が残っている。それで良く憶えている訳だ。あの頃ここはまだ、できたてだったはずだ。

『懐かしい~!』

 その昔、写真を撮ったと思われる同じ場所で「セルフ・タイマー」。あの頃を思い出し、「パチリ」と一枚記念撮影。


 その後、そこを出ようと思うと、下に降りる階段に「遍路札」が下がっている。立ち寄っていなければ、見落としていただろう。

 そこを下ると、下り切った所に、野良猫が数匹ウロついている無人の公園。時刻は三時を少し回ったところ。ここで午後のティー・タイム。ペットのお茶に、昨日、宿で出されたお煎餅。

 そこから下の住宅地を抜け、先ほどまでの県道に戻る…と、後ろからやって来る、お遍路さんの姿。「国分寺」で見掛けた三十前後と思われる、背の高いスポーツマン・タイプの男性遍路さん。白衣(びゃくえ)に短パン、大きめのザックを背負っているが、ペースは速い。『追いつかれる』と思っているうちに、「土佐神社」&三十番のお寺に到着。時刻は三時三十分。


 先ずは右にある「高知の一の宮」、「土佐神社」へ向かう。

 ここは雰囲気があって良い感じ。荘厳な空気が漂っている。

 こういう所に来ると、『やはりお寺より神社だ』と思ってしまう。

 神社がある所は、どんなに小さな古ぼけた(ホコラ)しかないような場所でも、「聖域」という霊気がある。『神社は原始宗教の頃から、あるべき場所にある。たとえ小さな村の鎮守でも、そうあるべき場所に建てられたのだ』と思っている。

 新興宗教の建物がウソ臭かったりするのは、そういう場所ではないからだ。お寺にだって、そういう場所がある。


(「ゴータマ・シッダールタ」…「お釈迦様」だって、死後、何年・何十年・何百年と()つうちに神格化されたのだ。一方神社には、元々そこにあった土着の精霊が(まつ)られている…そんな気がするのだ)。


 神社で拝んだ後、左手にあるお寺へ入る。


《第三十番札所》

百々山(どとおさん) 善楽寺(ぜんらくじ)



   本尊 阿弥陀如来

   開基 弘法大師

   宗派 真言宗豊山派


 第三十番霊場の開創のお寺。


 木々に囲まれた神社から出て来ると、お寺は、角度のつき始めた午後の西日に照らされている。この時間の境内は、閑散としている。

 先ほど追い上げてきたお遍路さんの姿も、すでに無い。お参り後、敷地のはずれで軽く一服。でも、グズグズもしていられない。今日はまだ、宿も決まっていないのだ。


 ここからは、まっすぐ「高知駅」を目指す。本日は、高知市内泊のつもり。駅周辺なら、ビジネス・ホテルも沢山あるだろう。


(本来の遍路道は、ここからまっすぐ南へ下って次のお寺へ向かう。右方向・西方面にかなり大回りする事になるが仕方ない)。


 お寺周辺の街並は、ごみごみした感じ。道も狭くて、通行量もある。一応、ガードレールで区切られた歩道があるので我慢しよう。

 途中、銀行でお金を下ろし、すぐ近くの酒屋前、店先に置かれたベンチでチョット一休み。

 やがて歩いていた「県道249」、気が付けば道全体の幅が広くなり、歩道も広がっている。一日も後半のこの時間、少々ボ~ッとなっていたし…「久万(くま)川」を渡る「比島橋」のあたりは、いったん街並も切れ、「高知市」郊外といった感じで景色も単調。少々退屈していたし…で、記憶があやふや・定かでないのだろう。

 それに…ガイド・ブック上での計算では、本日の全行程30キロちょいのはずなのに、すでに軽くオーバーしている。足はだんだん重くなるが、街並はどんどん深くなる。都会の景色になり、やがて右手に目指す「高知駅」前。

 思っていたよりローカルっぽい駅舎を見て、隣接するバス・ターミナルのベンチに腰掛ける。公衆電話の電話帳を見ながら、宿の算段。


(借りた電話帳は、きちんと元の場所に返しましょう。ページが破られていたりすると、後の人に迷惑がかかります)。


 一軒目はいっぱいとの事。ここに到着する少し手前で、広告看板を見掛けたビジネス・ホテルも載っている。そこはオーケーで、ここに決まり。

 駅前から南に延びるメイン・ストリート。そこから左、少し東に入った所。駅近くのフツーのビジネスだが、意外に安い。このあたりの相場は、こんなものなのか?

 薄暗くなり始めた頃、宿を探し当て、先ずはチェック・イン。

 経路上には、夕飯を調達できる場所がなかった。素泊まりなので、痛む足を引きずりながら一番近くのコンビニへ。

 ホテルに戻り、ユニット・バスに浸かってから、今日は缶ビール一本。これでホッと一息だ。


 夕食は「のり弁当」にサラダ。

 ずっとMTVミュージック・テレビジョンをつけています。

 今日もたくさん歩いた。予定より10キロもオーバー。本日はふくらはぎがパンパンって感じ。まあいい、もう十時だ。今日はここまで、もう寝よう。


『でも高知って、「国民休暇県」なんて看板があるけど、チョット排他的な感じがする』


本日の歩行 41・50キロ

      53898歩

累   計 538・41キロ

      699688歩


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