*第十五日目 五月二十六日(月)
今朝は…とりあえず、五時十分起床。カーテンを開けても、今日は一段と薄暗い。もう少し、寝ていたい気分だ。
三階の窓から眺める空は、一面濃い灰色。見下ろせば、路面はビッショリ濡れている…だけだと思っていたのだが、よくよく見ると、ポツポツと水溜りに雨の花が咲いている。ガッカリだ。
朝からどんよりとした天気。二日続けて雨粒が落ちているなんて…。まあそのくらいだから、それほど強い降りではないが、向こうに見える「国道55号」を走る車も、白い水飛沫を上げている。
TVをつけるが、天気予報も雨を報じている。九州の方がひどいようなので、これからますます強くなる?
眠たい目をこすりながら、ダラダラと準備開始。七時からの朝食はオーダーしていないので、準備ができしだい出発だ。
なにしろ今日は、少し半端な位置にいる。次のお寺まではさほどの距離ではないが、その先の「安芸市」では近過ぎる。かと言って、その先の宿となると、全行程40キロ弱。なのに、朝からこの雨。ツイてない。
でも、『誰もが選ぶルート・行程からはずれた方が、面白い旅ができる』が持論。腹は決まっていた。それで今日も、早起きしたのだ。しかし…時間指定の無い朝食無しの方が、かえってダラダラと時間を食ってしまうもの。
それに、あいにくの天気に気分も乗らず、ついノロノロ・スローペース。結局、起床から一時間以上が経過した六時二十五分、ブーツ・カバーに傘を差して宿を出る。
降りはそれほど強くない。まだ閑散とした雨降り・月曜の「奈半利」の街を抜け、「奈半利川」で分かれてはいるが「続き」といった感じの「田野町」でコンビニに入る。
ここで、朝食用のおにぎり購入。早くからやっている弁当屋や、二十四時間営業のコンビニがある事は、昨晩ホテルのフロントで確認済み。昨日朝の教訓もあるし…宿で朝食を食べてからだと、直後に「大」が訪れる確率が高い造りの身体だ。
(出張先でも、水が変わったせいだろうか、時たま似たような事がある)。
それに寝起きに食べるより、早朝ジョギングの時のように、ひと汗かいてからの方が食欲が湧くタイプの人間でもある。
(「食欲」と「体力」というものは、密接に関係しているらしい。「夏バテ」や「運動後」に「食欲」が減退するのは、「体力不足」が原因らしい)。
このあたり、雨も降っていて面倒なので、旧道遍路道には入らず、「国道55号」を歩く。でも、今日は休日明けの月曜日。時間も、そろそろ通勤時間帯の七時近い。国道は、すでにかなりの通行量。歩道はずっとあったが、大型トラックが行き交い、狭い場所では風圧で傘があおられる。でも、通勤車両の行き交う狭い旧道を、傘差し歩行で行くよりはマシだろう。
やがて5キロも歩けば、次のお寺のある「安田」の町。ここで「へんろマーク」発見。国道の脇を、水飛沫を浴びながらの歩行に辟易し始めていたところ。
(人間なんて、勝手なものだ。先ほどは「国道の利点」を語っていたのに…立場が変われば、言う事も180度変わってしまう。たとえば…かつて一緒に仕事をしていた、父母と同年代のおじいちゃん。朝の通勤渋滞中、自分が入れてもらう時は「交互に入ればスムースに流れるんだ」と語るが、逆の立場に立つと「こちとら急いでるんだ」と幅寄せする。『何とも身勝手』と思った次第)。
マークに従い、国道を右に逸れる。「安田川」を渡れば、街の中心部。そこを通り過ぎ、街並が寂しくなる頃、標識が現れる。
右手に見える山々のどこかに、お寺があるはずだ。もし頂上にでもあるならば、かなりの高度。それに、片道3・5キロの一本道。麓からお寺まで、往復しなくてはならない。
「ふう!」
雨も相変わらず降り続いている。でもまあ仕方ない。歩くしかない。
田んぼの中の道を、通学途中の小学生達とスレ違いながら…鉄道の高架をくぐり…左に、鳥居と石碑のある場所を過ぎると…ここがお寺の入口なのだろう…登りが始まる。
狭いが、舗装されたつづら折れ。時おり、お遍路さんを乗せたワンボックスのマイクロ・バスや乗用車が登って行く。こちらはテクテクと自分の足。路肩の無いような道幅だが、それゆえ大型バスは入って来ない。途中、歩き遍路のおばさんと行き交う。
やがて、左右にうねっている車道を、直線的に突っ切っている地道の遍路道。最短距離で上を目指せるが、かなりの勾配。ここは、「真っ縦」と呼ばれる1・3キロの急坂。最大傾斜45度。
(たとえば、自動車テスト・コースなどにあるバンク。傾斜が30度を越えると、まともに歩いて登る事は不可能となる。もし全体が45度ともなれば、壁に見える事だろう)。
傘を差したままでは大変だ。森の中だし、大した降りではなかったので、傘をたたんで上へ上へ。ここで、歩き遍路のおじいちゃんとスレ違う。
そして・そして…雨と汗ですっかりグッショリになった頃、お寺下の駐車場に到着。高度が上がったせいだろうか? それとも、たんに降りが激しくなっただけ? 開けた場所に出てみると、意外と強い降り。あたりを見回せば、駐車場の入口近くに、戸の閉まった売店。広い軒先に、販売機もある。
『ホッ!』
時刻は八時二十五分。やっと朝食にありつける。雨の日には、休憩など、場所探しにもひと苦労…と言うより、適当な場所が現れるまで“おあずけ”となるわけだ。
ここで、客待ちしていたマイクロ・バスの運転手さんとあれやこれや。そのうち、お客であるおじいちゃん数名・おばあちゃん数名の一群が降りて来る。毎度の事で、「どこから来たんだ?」等の話になる。こういう人たちに、若い歩き遍路は一目置かれる。
(たとえ六十だろうと、八十の人からすれば十分若い。息子・娘とそう変わらない年なのだから)。
ちやほやされれば悪い気はしないし、励みにもなる。雨はいっそう激しさを増してきたが…食べる物も食べたし、元気を取り戻してお寺まで、最後の数百メーターの登り。
《第二十七番札所》
「竹林山 神峰寺」
本尊 十一面観世音菩薩(伝 行基菩薩作)
開基 行基菩薩
宗派 真言宗豊山派
勅命により、諸神を祀る神社として創建される。
後に「行基菩薩」が本尊を安置。
大同四年(809)、「聖武天皇」の勅命により、「弘法大師」が伽藍を建立。神仏を合祀する。
明治初年、「神仏分離令」により廃寺となるが、明治二十年に再興される。
またここは、土佐の関所寺。江戸期の書によれば「魔境」とされ、「申の刻」(午後四時)以降の入山はすべきでないと言われていたそうだ。
『やはり、お寺は山寺の方が良い』
ここもなかなかイイ感じ。
納経所前から、さらに階段を登って本堂。少し下って大師堂とひと回り。
本日この先の行程はまだまだ長いが、しかしこの上に、神社があるはず。さらに上へ。神社へと続く石段は、一個一個が大きめ。段差がきついので登り難い。表面の削りが粗いうえ濡れているので、下りも降りづらそうだ。そこを登り切って、人気の無い神社へ。
拝殿前には、忘れ物だろうか? 金剛杖が一本。雰囲気的に、本日の忘れ物。先ほどまでにスレ違った誰かの物だろう。
右上を見上げたあたりには、先の大戦や、大地震の前には白く輝いたと言われる巨石。この先に展望台もあるようだが、この天気。勘弁願おう。
神社からは別のルートで下り、再び売店前で小休止。あれやこれやで、時刻は九時二十五分。ちょうど一時間、ここにいた事になる。
雨足が強まったので、ここからはポンチョも着用。
同じ道を辿るのも何だし、この雨だ。『濡れた急斜面では、尻もち一回くらいでは済まないだろう』と思い、下りはずっと車道で降りる。
下り出して間もなく、先日、「東洋大師」と「室戸」のお寺で出会った女性とスレ違う。どこかに荷物を預けてきたのか、納経帳と思われる物だけを手に持ち、傘を差していた。
そこからさらに下り、畑のあるあたりまで下った所。向こうから登って来るお遍路さん。Nさんだ。今朝は、ホテルで朝食を取ってから出て来ると言っていた。「また会いましたね」と言われる。そして、「これあげます」と、プチ・トマトの詰まった透明ビニールの小袋。「重いんで」だそう。どこかで買ったのか? それとも、お接待でもらったのか? こちらとしても、空腹感は無かったし、この雨の中、カサばるし…でも、お接待は断れない。体よく押し付けられてしまっただけ…そんな気がしないでもないが、とにかく「お気をつけて」で上と下へ。
直後に、歩きながら数個、立て続けに頬張る。袋一杯に詰まっていたのでは持ち難い。持ちやすいサイズにまで量を減らして、口元を握る。もう片方の手には傘。雨は相変わらず降り続いている。
テクテクと下って、やっと鳥居のある分岐点。「へんろマーク」に従い、右斜め方向の、ビニール・ハウスが建ち並ぶ細い農道へ。
少し行けば、旧道らしきものの先に「55号」と思しき道路が見える。ここで旧道には入らず、先の国道へ。出てみると、道の向こう側・進行方向すぐ前方に、コンクリート製の休憩所風の建物が見える。
行ってみれば、そこは無人の野菜販売所。共同の物らしく、この手の施設にしては大きく、品数も豊富。特に用があるわけではないが、公衆トイレもあるし、入口付近のベンチに座って小休止。その間、おばさんと若い女性がナスなどを買っていく。
こういった販売所、農家の人にとっては割りが良いそうだ。日銭も入るし、だいたい野菜や魚などの生もの、売れ残ったら捨てるしかない。それを見越して値段がついているわけだから、卸値なんて何円・何十銭の世界? ペット・ボトルのフタなどの原価同様、帳簿の上では存在しても、何個・何十個と揃わなければ、現実的な値段「円」にはならないのかもしれない。
(機械やその部品なども、商社を通っただけで何十パーセントも値段がハネ上がったりするものだ。ただし、野菜などとは単価が桁違い。事故や倒産などがあった場合、中間業者が多いほど被害が少なくて済む場合もある)。
ところでこの二人、親子には見えない。食堂の経営者と、その従業員? まあ買う方にしても、フツーに買うよりは安いのだろう。
「さてと…」
休憩がこんでいる。何だか気分が乗らないが、『歩かない事には目的地に到達しないんだ』。再び雨の中へと歩き出す。
その少し先。旧道と合流したあたりから、時おり強い風が吹き抜け、傘があおられる。
『このうえ風まで出てきたら、もう泣きっ面にハチだ』
でもその風を最後に、雨足は急激に弱まってくる。
3キロほど行けば「大山岬」。「へんろマーク」は、左手の岬突端を回る方向へと向いている。岬とは言っても、国道から少し張り出している程度。
ここは無視すると、「道の駅 大山」の看板。600メートル先とある。まだ大して歩いていないが、ここに立ち寄る。トイレに入ってから缶コーヒー。時刻は十一時十分。
二十分ほどの休憩中に、宿の手配を済ませる。まだ20キロ近く先だが、ダラダラ気分を払拭するためにも予約を取る。宿を決めてしまった以上、行かなくてはならない。
雨もずいぶんと小降りになった。この先で、「へんろマーク」に従い左に入る。民家の庭先を通って、防波堤の上に出る。左下に見える海には、サーファー二人。海岸線を辿ってずっと先を見れば、「安芸」の街らしき大きな街並が見える。足元はコンクリート。水溜りはあるが、雨は小雨。海岸沿いだが風も無い。防波堤上は、車はもちろんの事だが、こんな天気では人も通らない。気を付けなくてはいけないのは「水溜り」。いくらビショビショだからといって、これ以上濡らす事もない。靴ズレの原因にもなる。『できれば昼前に「安芸」通過』と思っていたのだが、ここでお昼のサイレンを聞く。
「安芸」の郊外で、再び「55号」に合流。
朝食は遅かったし、途中でトマトは食べつくした。空腹感は無かったが、最初に目についたコンビニでお昼用のパン購入。わずかに雨粒が落ちていたが、傘をたたんで歩き出す。
「伊尾木川」を渡れば、グッと家々が密集する。街が近づくと、場所によっては路肩が無かったり、あっても極端に狭かったり…ここは「市」なので、交通量も多い。
「安芸川」を渡った先で、「へんろマーク」に従い左折。市街地に入る。
(ここで、軽自動車に乗ったおじさんに「ご苦労さん」と声を掛けられる)。
マークに従い右左。「安芸」の街中を行く。歩道は無いが、かえって車通りは少ない。昨日通った「吉良川」よりも、「古い街並」といった感じの場所もある。
商業地帯を抜け、住宅地に入った所。左手に、新しくて綺麗な公園。トイレに屋根付き休憩所もある。時計を見れば十二時四十五分。周りは住宅で囲まれているが、こんな天気だ。人気は無い。ここでお昼にする。そこに約三十分ほど。雨も上がったので、ポンチョはザックに。でもまだ曇り空。いつ再び降り出すかわからないような色をしている。そこで、たたんだ傘を手に持ち出発。
そこから少し行けば、右からやって来た「55号」に合流。そのまま左側を歩く。歩道は無いが、路肩は広い。ただ外側付近は…路面が中央から大きく下がっているので傾斜がついているし…まだ民家や商店があるあたり。駐車している車も多く、少々歩き難い。
左に並ぶ古い民家の合間から、チラチラ見えるすぐ先は港のようだが…この先左側には、かつて鉄道が通っていた場所が、延々とサイクリング・ロードになっているらしい。そこに入るつもりだ。左側をキョロキョロしながら歩く。
『そろそろかな?』
そう思って左に入ってみるが…『まだか』。少し先の路地を、国道の方に戻っていると…『あった』。ネコが佇む民家と民家の間の先に、それらしき道が見えた。再び左・左と曲がる。あのまま進んでもよさそうだったが…「ネコが東向きゃ、尾は西」。手前の路地で、正面で向かい合ったネコ。今度は後ろを通過しているこちらに気づき、振り返って「ニャア~」。
先ずは、街の入口で通ったような防波堤の上の道。でも、外壁が高くて海は見えない。この頃になると、雲が薄くなり…明るくなって…白い雲を通して、太陽の熱気が伝わって来る。
『あ・暑い!』
海はすぐそこだというのに、風が抜けないのでなおさらだ。それに、地面を濡らしていた雨が蒸発して、ムシムシし始めた。濡れていたズボンやシャツの袖は、急激に乾きだす。でも、靴の中はグポン・グポン。
『気持ちワリ~』
見通しの良い一本道。あたりを見渡しても、人影はまったく見えない。
『天気も回復してきたようだし…』
そこで、無造作に地べたに座り込み、靴下を履き替える事にする。靴の中の靴下はビッショリ。靴下の中のテーピングはベロベロ。これなら無い方がマシだろう。道のドまん中に座り込み、足先を抱え込んでテープ剥がしをやっている、坊主頭のオッサンがひとり。そんなところを、自転車に乗った高校生の女の子がひとり、郊外に向かって走り去る。ナゼかほのぼの…。
「さてと」
まだ宿までは10キロ以上ある。雨も上がった事だし、がんばらねば…と、ここからはセッセと歩く。かつて電車が通っていた道なので、普通のサイクリング・ロードとは比べ物にならないほど幅が広い。
(ロードレーサーなどでカッ飛ぶなら、このくらいの道幅が欲しいところだ)。
車も通らないので、余計な気を遣う必要もない。防波堤・防風林、右手の陸側には『こんな近くに』と思う距離に民家があったり…しかし、元鉄道用地。直線部分が多くて、歩く身には少々退屈。それに、雲の切れ間から青空が顔を出し、日が照りだして気温が上がってくるし…すぐそばに海があるのに、風の抜けは悪いし…ダラダラと上っていたり…ドライブインが見えても、右上を走る国道側に上がらなくてはいけないのでパス。
そのうち、午後三時近く。上りが終わり、国道と接している所に「赤野休憩所」。これから通る「琴ガ浜」を見下ろす高台。岬というか、峠というか…そのような場所なので、風の通りも良い。トイレとベンチもある。
靴下を履き替えてからここまで、5キロ近くをノン・ストップ。休憩にはちょうど良いと、一人掛けの石のベンチに腰を降ろすが…落ち着けない。ここは国道に面したパーキング。トラックの運ちゃんなどが、トイレに行き来する。人の出入りは多いし、背後を飛び交うハチに追い立てられるように立ち上がる。二十分ほどで休憩終了。どちらにしろ、残6~7キロ。ユックリもしていられないのだ。
そこからは国道に沿って、左側を一気に下るのだが…『ん~』。足の調子が、イマイチ良くない。高さ違いのベンチ。その高い方に足を載せて休んでいたのだが、かえってそれがいけなかったのだろうか? 歩き始め、足の血流の分布が不均一な感じで、気持ちが悪い。最初はユックリ、徐々にペース・アップ。どちらにしろ一日のこの時間になれば、足もそろそろ「本日の限界」に近いのだ。
下り切ったあたりで、国道を左の海側に逸れて松林の中の道。右上をほぼ平行に、「土佐くろしお鉄道」の高架が走っている。左手は、林の先に防波堤。
しかし一部の区間、防波堤の外の浜辺のコースに…このあたりは良かった。暖かいが北海道の浜を連想させる。黄色い花が咲き、砂浜に置かれた木造舟があり、淡い水色の海と波。遥か沖合いは濃い灰色で、見通しは利かないが、この先には何も無い太平洋の大海原。
そんな途中に、プールや野外公会堂の施設のある場所。
『ここが「琴ガ浜松原」なのか?』
とにかく、先ほどの休憩から約四十分。残りは3~4キロ。ここで、本日最後の休足。建物から浜辺側に突き出した木造ステージ上で横座り。木が蓄えた熱気が、ほんのり伝わって来る。木を使っているのは、潮風なら、錆びる鉄よりも耐久性があるからだろうか? 浜風を浴びながら、しばし曇った海を眺めて過ごす。
その後コースは、「和食川」を渡って防波堤の内側へ。
このあたり、民家が密集している場所もあり、けっこう散歩をしている人もいるが、挨拶を返してくれるのは三~四人に一人くらい。むしろ避けられている感じがしたのだが、『それも仕方ないか…』。少し進めば、ずっと続いている鉄道の高架下、野宿遍路と思しきおじいちゃんに、どう見ても乞食遍路のオッサン。特に、かなりイイ年のオッサンの方は、薄茶色になった白衣は着ているものの、手押し車にテント。薄気味悪い笑みを浮かべ、半ばここに住みついている感じ。
そこで思い出されたのは…「インド」には「サドゥ」と呼ばれる修行者が、十万人もいるそうだ。何十年も、片手を上げ続ける・立ち続ける…等を称して「修行」と言うのだが、『だからなに?』。そのような様を見ても、『こんなものは、ただの現実逃避』としか思えない。人からの施しだけで生きている、先進国で言うところの「ホーム・レス」、乞食さん達だ。そこでしっかりとした生活基盤を築いている人達にとっては、疎ましい存在でしかないだろう。
『こんな奴等もいるんだな』
それが率直な感想。
(人の事を言えた義理ではないが…)。
どちらにしろ、確固たる信念あっての修行だとしても、即座にそれを見分けるのは難しい。実際ここ四国にも、修行中の「弘法大師―空海」を邪険に扱ったため祟りにあった、などという云い伝えがいくつもある。
それでも、乳母車を押したおばさんとは、しばらく立ち話をする機会を得た。「白浜」で会ったゴツイおばさんを思い出す、年齢不詳の…この赤ちゃんは、お孫さん? それともお子さん? 茶褐色に染み付いた日焼けは、もう抜ける事はない?
(でも、日本在住の黒人タレントさんが、「日本に来て、少し色が落ちた」と語っているのをテレビで見た事がある)。
それにしてもこのあたり、決して豊かとは言い難い。『こんな所に人が住んでいるの?』といった建物の軒先に、洗濯物が干してあったり、自転車が置いてあったり…。
(まあこちらも、家に帰れば似たり寄ったり。築四十数年。自分の年齢とほぼ同じ年数のボロ屋に暮らしているのだ。ただこちらの方が、気候が良い分、いっそう無頓着なのだろう)。
でも、かえってこういう人達の方が、「よそ者」に親しく接してくれるのかもしれない。例えば…すべての冒険譚・英雄伝説には、共通するモチーフがあると言う。
(「アーサー王伝説」や、近いところでは「スター・ウォーズ」だ)。
陰謀などによって国を追われた血筋確かな主人公が、「放浪」(これが必要不可欠な要素らしい)の旅に出る。「流れ者」になった「英雄」は、「放浪」を通して人間的成長を遂げ、しいたげられた民と出会い、共に圧政に立ち向かう。そして悪の為政者を打倒して、「ジ・エンド」となるわけだが…しかし、立場が変われば見方も変わる。
地位・財産・利権などが付いてくれば、それだけ「守るもの」が増えていくという事。家族ができれば、それを守らなくてはならないのと同様。それが、身内・近隣・地域社会と、世界が広がっていくのだ。取られるものが何もない人達とは、同じ次元でものを考えられなくなって当然。そういった人達の視点から見れば…「後からやって来た野蛮人が、歴史を変える」と思えなくもない。
「シーザー」、「ナポレオン」、「源平」や「信長」。
きれい事だけでは時代が動かないのも事実だが…ローマ時代以前、「クレオパトラ」で有名な「アレキサンドリア」の大図書館。当時、世界最大規模を誇っていたのだが、「ローマ帝国」の侵略に遭い、蔵書のほとんどが散逸してしまったと云う。もしそのまま残っていれば、「エジプト」の歴史や「ピラミッド」の秘密など、ここまで頭を悩ませる必要もなかったかもしれない。ヨーロッパの侵略を受けた南米の「マヤ」・「アステカ」・「インカ」の文明・遺跡にしても、最近では「ヒトラー」の焚書にしてもしかり。
そして…「歴史を動かす」とまではいかなくとも、最近の実生活、特に仕事の場面で、そういったものに気づく機会が多くなった。年齢的にも、ちょうど中間の立場。『昔はあんな風だったな?』と若手を見ては思い、『やがてこうなるのかな?』とベテランを見ては思う。「温故知新」…旧きを訪ね、新しきを知る。もっとも、自分の事すら省みない人達に、こんな話をしても無駄な事か。
(そういった人種に限って、「図書館」や「美術館」の存在には否定的だ)。
『せめて自分だけはでも、そうありたい…』
一方で、『そこで暮らすとなったらどうだろう?』。自分達より、後からやって来た・立場的に低いものに出会った場合、人間の取る行動は…施しを与えるか、自分たちの持ちものを奪われないように排斥するか…かつては、移民の国「アメリカ」が良い例だった。先に移住した民族から迫害を受けていた民族は、新たな波が流れ込むと…自分達は上の階級に組みし、後からやって来たものを攻撃する。それがアメリカの歴史。「リトル・トーキョー」や「チャイナ・タウン」、「○○人街」等々…意味があってそうなっている。「だから無闇にその秩序を乱すべきではない」そうだ。
そうでなくとも…「虐待されて育った人間が、自分の子供にも同様の扱いをしてしまう」。あるいは、もっと身近なところでは、「体育会系の先輩・後輩」。自分が先輩にされた『しごき』を、後輩に対してもしてしまう…等々。よく聞く話・例だ。
たとえ英雄が造り上げた国家だとしても、『永遠に続く理想の王国など有り得ない』。人類の歴史を振り返ればわかる事だ。幸いこちらは、ただの「通りすがり」。利害関係は生まれないから施しを受けられる。
(理想を抱いて始めた「田舎暮らし」。いざ住んでみると、排他的な「田舎の体質」に気づかされる…といった話も、よく耳にする)。
「ふ~!」
少々考え過ぎだ。しかし、今日は疲れている割りには、頭が冴えている。「疲れ魔羅」ってやつか?
それに、ずっと続いているサイクリング・ロード。余計な事に気を遣わず、ジックリ・ユックリ考えていられる時間や“ゆとり”があるから?
(車やバイクの運転中では、考え事は危険行為だ!)。
「香川」・「徳島」・「高知」、山間部・内陸部・沿岸部と変化もあり、色々な暮らしがある。まだ二週間だが…『もうずい分と、時間が経ったような気がする』。さて、そろそろ白日夢から目を覚まそう。
ずっと続いている鉄道の高架はまだ新しく、無人駅だがマスコットの人形が立っているのが見える。
漁港のある集落に入ると、道路右側に今晩の宿。右に向かって延びている細い道の、手前右側が食堂。その向かい、左・海側が宿舎。時は四時五十分。
宿泊所の二階、海側の部屋に通される。灰色の曇りガラスの入った、引き戸が入口の和室。建物はそう新しくはないが、清潔な感じ。窓を開ければ、直接は見えないが、波の音と潮の香りが届く。
先ずは洗濯場に向かう。いったん建物を出た、隣接する半透明のプラスチック製波板張りの場所。有料だが、乾燥機もある。ビショ濡れになった一日の後には有り難い。
洗濯機を回している間にお風呂を頂き、六時半から、向かいの食堂二階で夕食。本日の宿泊客は一人だけのようだ。
献立は…焼魚・刺身・クリームコロッケ・サラダ・小さなサザエ(?)のつぼ焼・すまし汁・ゴハン二杯半にオシンコ等。今日もたくさん食べました。
料理は、ほぼ同世代と思われる御主人の手作り? 高校生らしき娘さんのいる女将さんは、こちらより少し若そうだ。
食堂を出て、部屋に戻る前に洗濯場へ。乾燥機が終了するまでもう少し。その間、日暮れ間近の近所を散策。まだ雲は多いが、雨の気配は無い。
それにしても、ここは良い所だ。雰囲気が良い。すぐ近くに神社と公衆トイレ。海水浴場もあるようだ。
(でも、トイレ前で、子ネコが轢かれて死んでいる。ただただ合掌)。
部屋に戻って、少しテレビ。BSなのか? ケーブルではないだろうが、今ではかえって田舎の方が、衛星放送が入っていたりするものだ。
かつて、二十年以上も前の話。「沖縄」に旅した時は、とりあえず「石垣島」まで行っても、NHKはリアル・タイムで流れていた。でも、昼時の食堂で見ていた民放番組。画面の端に写し出されている、時刻の大幅なズレに気づき…『沖縄には時差がある?』。
『まさか』
そこで思った。
『たぶんこれは有線だ』。
(でも実際、多少の時差があっても良いと思った。大きく西にズレている沖縄地方。関東と比べると、日の出・日の入りが遅く感じたからだ)。
しかし、「東京都」である「小笠原村」を訪れた時の事。NHKどころか、メイン・ランドである「父島」から船で三時間。もう一つの人が住む島「母島」では…テレビや電話どころの騒ぎではなかった。民宿のおじさん曰く「漁協に無線があるだけ」との事。なんと言っても、出した手紙より、自分の方が先に帰り着いてしまうような場所。
(それも、もっともな話。なにしろ、手紙と同じ船で帰って来ているのだから)。
『今では小笠原だって、リアル・タイムでNHKくらい見られるんだろうな』
本日の記録をつけ終わる頃、画面に映っているのは映画番組。「トム・クルーズ」氏主演のカー・レースもの。でも…『見ない。消す。最後まで見てしまったら、遅くなる』。
さて明日は…天気はどうだろう? お寺を回ると、「高知市」まで三十キロはある。そうそう、クツ、どうしよう? カカトの部分が剥がれてきたし、穴も開きそうだ。買うとなると、一万円ほどの出費。でも仕方ないか? もう、地下足袋も同然だ。
すぐ先の、小さな漁港の防波堤で砕ける波の音。今日は少し、海が荒れているようだ。
本日の歩行 39・81キロ
51710歩
累 計 496・91キロ
645790歩