*第十四日目 五月二十五日(日)
本日朝は五時起床。『六時半からの朝食を食べたら即出発』と予定していたので、トイレまで済ませておいたのだが…でも、これが間違いだった。
六時半ピッタリに下に下りるが、少々待つ。出て来たメニューは…目玉焼きと焼魚。そこに、トマトとキャベツのサラダが添えられてある。味噌汁の具は、豆腐とワカメ。その他数品。
「来年は閏年。閏年に逆回りをすると、今でも遍路を続けていると言われるお大師様や、会いたい御先祖様に会えるという云い伝えがある」と朝食の席で、宿のおばさんが言っていた。
食後に支払いを済ませ、部屋から荷物を担ぎ出し、午前七時、宿を出る。
表に出ると、一面の曇り空。低く垂れ込めているが、まだ雨粒は落ちていない。
先ずは、目の前の「国道55号」を右「室戸市」方面へ。このあたり、海沿いなので風も強い。
市街地手前はバイパス風の造りで民家も無く、街への入口は高架。そこを過ぎる頃、パラパラと来た。街並近くで横風が弱まっていたので、傘だけで十分。
やがて旧道と合流し、家々が密集してきた頃…『大丈夫かな?』。嫌な汗が滲んできた。お寺までは、そんなにないはずだ。でも…誰にだって、何度か経験があるだろう。家々は建ち並ぶが、日曜日の早朝、まだどの家も戸を閉ざし、そんな場所だから、天然のトイレも見当たらない。車でなら、数キロの距離など何て事はない。チョイと走って、コンビニに飛び込む事だって可能だ。しかし、そこまで出掛かった状態では…それに、歩いたり・走ったりしていると、腸の活動も活発になるのだろう、数百メーターだってキツイものだ。
『修行の旅に出ていながら、食べ過ぎているのがいけないのだ』
こんな時には、いつもそう思う。そして思い出す。特に早朝スタートのマラソン大会で、何度か見掛けた光景。たった今まで快調に走っていた人が、突然コース脇に寄って歩き出す。たいていの場合、そういう人はお尻に力が入っているように見えるのは気のせいだろうか?
『きっとヤバイんだ』
そんな人を目撃するたびに、いつもそう思っていた。幸い、マラソン大会でそんな辛い思いをした事はないが…旧道を少し進むが、『やっぱり無理だ! 持ちそうにない』。
このまま先へ行っても、何かのアテがあるわけでは無い。あわてて引き返す。たった今、「室戸警察署」の前を通過してきたばかりだ。
ここで再び回想…学生の頃、屋上防水工事のアルバイトをしていた時。そこに土日だけバイトに来ていた大工さんがいた。三十代後半くらいだったろうか? 家を買ったばかりで、ローン支払いのためのアルバイト。カブで通勤していたのだが、ある朝、急に催した。そこで消防署でトイレを借りたとの事。何でもないような話だが、ナゼかいまだに憶えている。
『あそこまで戻れば…』
大粒の雨が落ちて来た。でも、それどころじゃない。警察署に駆け込む…といきたいところだが、正面玄関の自動扉は開かない。すぐ横の通用口から中へ。玄関先でウロウロしていたのに気づき、当直のおまわりさんが出て来てくれる。ザックを投げ出し、トイレを拝借。
「ホッ!」
間に合った。お礼を述べて署を出ると、雨は上がっている。
『ただの通り雨?』
空を仰ぎ見る。相変わらずの曇り空。
「ふう~」
前々から思っていた事だが…「ハードボイルドの条件」とは、先ず第一に「胃腸が丈夫な事」。下痢でトイレに駆け込み、ウンウン唸っている「ゴルゴ・サーティーン」(おそらく日本男児なら誰でもが知っているであろう、漫画の主人公)や「フィリップ・マーロウ」(「レイモンド・チャンドラー」氏のハードボイルド小説の主要登場人物)なんて、想像もつかない。そしてできる事なら…「ゴルゴ」が“あそこ”の「立ち具合」を操れるように…「排泄」を自分の意思でコントロールできる事だ。でなけりゃカッコ悪い。
「さて」
ザックを担ぎ直し、歩き出す。
旧道合流地点まで戻ると、ちょうど「ジャン・レノおじさん」が通り掛かる。一部始終を話しながら、一緒に人気の無い「室戸」の街を行く。今日は日曜。それに先ほどの雨は上がったとはいえ、どんよりと立ち込めた曇り空。まだ街は目覚めていない。
ここでおじさんは、合羽を脱ぐため道端へ。以前、確か「高松」の項で述べたと思うが、高価そうな合羽持参のこのおじさんも、傘は持っていないようだ。
そこで先に行く…と、その少し先で、道は一瞬「国道55号」に接する。ちょうどそこに、小型犬を連れて散歩をしていたおばさん。
ここで国道には入らず、左に逸れるのがお寺への道だと教えてくれる。看板があるので、良く見ていれば間違いはないが、次の次のお寺への、右折「55号」道なりの標識もある。そちらに行ってしまい、戻って来る人もあるそうだ。
入って行く左側にコンビニ。サンドイッチとフィルムを買う。その間、おじさんに追い越される。旧市街をクネクネと、でもメインと思われる道に沿って歩けば、やがて右手に…
《第二十五番札所》
「宝珠山 津照寺」
本尊 地蔵菩薩(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗豊山派
路地を右手に入った所に山門。朱が使われた、ちょっと派手なお寺。街中で敷地は広くないが、けっこう急で長い階段がある。
ここは…大同二年(807)、「弘法大師」が本尊「延命地蔵」を刻み、伽藍を建立。「楫取地蔵」と呼ばれる海上安全の守護仏…とされるお寺。
先ずは、階段下の大師堂へお参り。本堂への長い階段を登っているところで、下って来たおじさんとスレ違う。「朝のいい運動だ」と言っていたおじさんは、納経所へ。こちらは本堂でお参りを済ませ、階段を下り、そのまま休まず先を目指す。
「室戸」の街の、今となっては裏通り。日曜朝のせいもあるのだろうが、シャッターの下りた閑散とした街並を歩く。
旧市街を抜け、「55号」と交わる所で再び激しい雨。『すぐに止むだろう』と、交差点の左角にあった酒屋前。軒下に入り、ついでに缶コーヒーで一休み。お店の方は、たぶん定休日だ。
予想通り、間もなく雨は上がる。そこで国道を横断。本当は、そのまま旧道まっすぐだったようなのだが…通り雨でビッショリ濡れた、「55号」右側の歩道に左折してしまう。
(このあたり、改修されたのだと思う。ガイド・ブックと違っているし、実際、造りも新しい感じだ)。
少し行った先で、看板に従い右に。すぐに旧道に出て左へ。見れば若干後方におじさんの姿。小休止と回り道でだいぶロスしたようで、また追い付かれてしまった。
ほどなく、道路左側に「女人結界碑」が建っている。平地のこの先に見える山々。そのどこかにある次のお寺は、かつて「女人禁制」であったそうだ。貞享二年(1685)の銘は、四国最古のものらしい。
碑を眺めているところへおじさんが来る。ここから再び「同行二人」。
左手にある海までは、そう距離はない。「元橋」で渡る「元川」河口付近に、数人のサーファー。「リバー・マウス」の話をしながら歩く。
(「リバー・マウス」=「河口」。川が海へ注ぐあたりには、独特の土砂が堆積し、良い波が立つのだそうだ)。
その先から、遍路道に直進。狭い舗装路は、やがて…階段あり、土や石ころ・岩盤ありの山道になる。
ここで自分のペースを守って歩いていると、徐々におじさんとの差が開いていく。そして一気に山門まで。「男坂」「女坂」「厄坂」を登って午前九時、境内へ。
《第二十六番札所》
「龍頭山 金剛頂寺」
本尊 薬師如来(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗豊山派
ここは大同二年(807)、勅願により「弘法大師」が開創。
俗に「西寺」と言う。
大師堂では団体さんがお経を上げているので、納経所横のベンチにザックを置いて、先に本堂へ。
お参り後、缶ティーを飲みながらしばし。おじさんは先に出て行く。
休憩後、さらに奥の本坊前を通過し、遍路道に入る。最後に急坂を下って「55号」に出ると、正面に「道の駅 キラメッセ室戸」がある。行ってみればおじさんが、枇杷を送るついでに、邪魔になったシュラフを送り返すとやっている。
なにかと不安で、ついつい多量の荷物を抱えて旅に出て、途中でこうなる人も多いようだ。
こちらは逆に、長旅では毎度の事なのだが、段々と荷物が増えてしまう。かつて「物持ちがいい」と言われた事があるが、旅にまつわる品々…パンフレットや名入りのマッチ。買物をしたレシートからチケットの半券。果ては、泊まった宿やメシを食った食堂の箸袋まで。旅の記念・記し・証しとなるものはすべて、キープしておかなくては気が済まない。特に今回は、写真を撮りまくっている。フィルムの量が馬鹿にならなくなってきた。元々ザックの容量もギリギリなので、いずれどこかで、一度は荷物を発送しなくてはならないだろう。
ここで缶コーヒーを買い、駐車場際の防波堤に腰掛ける。
上で休んだばかりだが…今日は歩く気がしない。天気が悪いせいもあるだろうが、何だか気乗りがしない。そんな気分。少々疲れているのだ。足ばかりではない。全体的に疲れている。
「疲れ」と「距離」は比例する。40キロといえば、ほぼフル・マラソンの距離。歩きだからといって、毎日は無理。そこまでいかなくとも、疲れだって溜まるはずだ。
そこで、早々に宿の手配。ここから20キロほど先の「奈半利」の町。『もっと先まで』という気もあったが、予約が取れて決心がつく。もっともすでに、10キロは歩いている。トータルで30キロ超なら文句は無い。昨日は40キロ近く歩いたし、今日はそれで十分だろう。
そうと決まれば…まだ午前中のこの時間。余裕ができた。そこで、『ここにもう少し』。併設されている「鯨の郷 鯨館」へ入ってみる。
子供の頃に観た映画「白鯨」。原題「モービー・ディック」は、学生の時、講義の教材でもあった。だから「鯨」に関しては、それなりに興味と関心…それにわずかばかりだが知識もある。
入館料は三百円なり。今日では世界的に規制・禁止されている捕鯨だが、かつてはこの地でも盛んに行なわれていたようで、その歴史的資料が展示されている。三十分ほども見て回っただろうか。もっとジックリ見てみたい気もしたが、そうそうユックリもしていられない。
そこを出て、仕方なく歩き出す。海側となる左を歩くが…このあたり、海はすぐ近くで波の音が聞こえたりもするが、防波堤と防風林に遮られ、姿はまったく見えない。
風の抜けも悪く、少しムシムシ。雨も時おりパラつくが、傘で対処。今のところ、それほど強い降りは無い。
次の集落「黒耳」のあたりは枇杷の産地のようで、売店などがある。途中、道沿いの食料品店で、パンとポテトチップスを買う。「東の川橋」を渡れば「吉良川」の街。
(先ほどの「道の駅 キラメッセ」は、この「吉良」にかけたものなのか?)。
ここは、「東の川」と「西の川」に挟まれた町。ここでは旧道に入らず、店の建ち並ぶ国道を歩く。
市街地の道路左側に、「街並み駐車場」というパーキング・スペース。休憩小屋がある。「道の駅」から3キロちょっと。時刻は十二時前だったが、ここで少し早いお昼。朝買ったサンドイッチと、先ほど買った菓子パンにポテトチップス。
ここにあった案内板によると、この街は古い街並を残しているという事で、食後、向かいの路地から旧道に入ってみるが…ほとんど通り過ぎてしまったようで、街並はすぐに終わってしまう。
本日のような天候の日は、狭い旧道・旧市街を歩くのが面倒で、ついつい国道・広い道をと行ってしまうものだが…少々残念。この先4~5キロは、代わり映えのしない景色。印象に残るようなものが無かったせいか、よく憶えていない。
しばらく歩き、「羽根川」を渡った所で、道は少し内陸へと向かう。「羽根」の街に入ると、歩道の無くなった「55号」。この先に横たわる山のどこかが「中山越え」のはず。一番高そうな所なら、「海抜ゼロ」に近い平地からの峠越えとなり、結構な登りになりそうだ。
市街地を出かかった、横断陸橋のある左カーブ。その右頂点にある道へ、ほぼ直進の角度で右折するのが遍路コース。家々はまだまだ続いているが、すでに静かな住宅地。山の麓にある市営団地を過ぎると、登りが始まる。
先ずは石畳の細い道。車では通れないような道。でも、まだ人家が近くにあるせいか、人が通っているような雰囲気はある。
山を登る車道を横断し、さらに上へ。でもこの道は、左右に横たわる山が左の岬の方角へ向かうに従い、かなり低くなったあたりを目指している。思ったほどの登りではなさそうだ。間もなく、すぐ左脇に墓地のある最初の峰。
『ここが峠か?』。
そんな事はなかったが、登りに掛かった頃に降り出した雨足が強くなる。ちょうど頭上を、木々がトンネル状に覆う場所。缶コーヒーで小休止。でも立ち止まると、一気に血が下がって、足首から下全体が充血する感じ。道路左脇にあった切り株に腰掛けてみたりするが、切断面が斜めで座り心地が悪い。数分後、雨がほぼ止んだところで、そこを出発。
本日は「梅雨の走り」といった感じの空模様。一面灰色の雲に覆われ、時おり通り過ぎる低くて黒い雲が、バラバラッと雨粒を落として行く。
(それで、以後、常に片手に傘を持って歩いています)。
その後、短い登りが二つ。登り切ったあたりは畑が広がり、開けた場所。『こんな所、わざわざ登らなくてもいいのに』と思うのだが、『きっとかつては、いま国道が通っている海側は断崖とかだったのだろう』と思い直す。
(確かに、明治期に海岸通りができるまで、この道は「お殿様が通った道」と呼ばれる生活道路だったらしい)。
下りは、畑の間を縫う感じで下りて行く。後半は、前のお寺「金剛頂寺」からの下りに似た雰囲気。一気に麓の「加領郷」の漁港近くに出る。
最後は綺麗な舗装路だが、普段なら絶対出入りしないような、狭い路地・民家の軒先・庭先を抜けて行く。普通なら、イイ年をした大人が、用も無いのに入って来られるような場所ではない。そんな場所を、平気で駆け抜けられた子供の頃が懐かしく思われる。しかし、ここは遍路道。こんな所を歩けるのも、遍路の醍醐味?
でも、高知の旧道「旧土佐街道」は、他人の生活圏に踏み込んでいるようで、何だか居心地が悪い。広く「遍路」が認知されている「阿波」や「讃岐」とは雰囲気も違う。あまりジロジロせずに、早々に通り過ぎる。気楽に歩くなら、国道の方が良い?…このあたり、漁港の上を高架の「55号」が走っている。
『車でなら、特別用事でもない限り、絶対に足を踏み入れなかっただろう』
その高架が終わる所で国道に合流。ここからは、集落に入った時以外、海岸沿いの道。
ずっと海側の歩道を歩くが、この区間の事は、あまり良く憶えていない。
その間、「考え事」と言うか、「思いで話」に浸っていたし…忘れもしない、小学校五年生の時。隣県の「茨城県」は「千代川村」の「筑波サーキット」に、一家で初めて自動車レースを見に行った日の午後。我が県南西部にあった、アミューズメント施設に立ち寄った時の事。波の出る屋内プールなどの設備がある場所で、家族全員のお気に入りの場所だったのだが…入口の所で、父ともめる事になる。その時に限って、「入場料の一部を、自分のこずかいから出せ」と言うのだ。そんな理不尽(?)な話には納得がいかず、頑として拒否すると、「ここで待ってなさい」という事になる。
『あったまきた!』
砂利敷きの駐車場出口に向かって歩くのに、大して時間はかからなかった。
『歩いて帰ってやる』
そう決心したのだ。損をするのがわかっていても、意地を張り通してしまう…そんなところは、今でも変わらない。
「国道50号」を東に向かい、「4号線」に出たら北上。しかし、直線距離にしても数十キロ。今にして思えば、子供の足では到底不可能。
何キロほど歩いたのだろう? すっかり陽が落ちても、分岐の町は、まだまだ先。途中、私鉄の駅があったが…まったく知らない路線。そこから伯母の家に電話をしてみるが、当時は「市外局番」もわからず、見知らぬ家にしかつながらない。やがて時間もわからず、『どうしよう?』。幸い我が家は、祖父母と同居。
『(お金は)なんとかなるさ』
日もとっぷりと暮れたところで、タクシーに乗り込み帰宅。
(「行き」に客を乗せていたタクシーが、「帰り」に拾ってくれたのだ。この件に関して父は、逆に母から意見された模様で、こちらへのお咎めは一切無し。「武勇伝」とまではいかなかったが、忘れ得ない体験の一つではある)。
そんな思い出と関連して、ある評論で、「神隠しに遭いやすい体質」という言葉を目にした事がある。そこで引き合いに出されていたのが、「遠野物語」で有名な民俗学者「柳田國男」先生。
(学者であるばかりでなく、むしろ本業は政府の高官なのだが)。
そんな氏のエピソードに、「神戸のおばさん」というものがあるそうだ。幼少の頃、架空の「おばさん」を創り上げ、会いに行こうとしたのだそうだ。
(そこまで創造力豊かでなくとも、こんな話もある。旅先で出会った「大阪」の女の子。彼女は「大阪」市内、「国道1号線」のすぐ近くで生まれ育ったそうだ。時は「三輪車に乗っていた」と言うのだから、幼稚園生ほどだろう。『この道をずっと行けば、東京に着く』と思い、三輪車で「国道1号」に乗り入れたのだそうだ。近所の交番のおまわりさんに呼び止められ、事無きを得たそうだが、彼女も「神隠しに遭いやすい体質」なのだろう)。
そんな生まれついての「気質」もあったのだろうが、柳田先生は、国内各地や「台湾」などの風俗・文化を、精力的に調査して歩いた。しかし、時代が時代だ。『単なる学術的な目的ばかりでなく、スパイ的な、何か特命を帯びていたのでは?』などと勘ぐってしまうのは、考え過ぎだろうか? 『案外「民俗学」なんて、その副産物にすぎないのかもしれない』…くらいだったら面白いのにと、想像を巡らしているのだが…
「さて…」
「中山越え」の途中で休憩して以来、しばらく経つが…この天気では、休憩小屋でもなければ止まりづらい。
「加領郷」を抜けた先に、「弘法大師霊跡」と書かれた場所があったが、道の両側に掘っ立て小屋のような古びた堂があるだけ。
ここは番外霊場。庵の中にお大師様が修行した洞があるそうだが、眺めただけで、ヨタヨタと通り過ぎる。
今日は、両の足首から下がムクんでいる感じで…足の甲側が靴に擦れて痛む。
やがて時刻は午後三時。この頃には、路面はほぼ乾いていたのだが…「須川川」を渡り、少し内陸に入ったあたり。ポツポツ来た雨が、間もなく土砂降りに変わる。傘は差していたが、後方から吹きつける風に乗った横なぐりの雨。すぐに下半身がビショビショになってしまう。
『これはマズい』
道路際にあった、本日休業の自動車修理工場。スレート張りの建屋の軒先に入って雨宿り。軒は高くて短いが、風よけになる向き。多少の巻き込みはしばしのガマン。立っているのも辛いので、ガイド・ブックをお尻に敷いて、コンクリートの上に座り込む。
傘も必要ないほどの降りに落ち着いたところで、立ち上がる。歩き出せば、そこからまだ見える距離の所に「善根休憩所」。掘っ立て小屋のような造りだが、のぞいて見れば…広さ数畳。切り株利用のベンチが数個。道路から入った奥の壁側は、竹で編まれた棚(簡易のベッドにもなる?)。そこにザックを降ろし、腰も降ろす。雨は上がっていたが、今度はここでユックリと休憩。
峠を下りた「加領郷」から、本日の宿泊地「奈半利」の町に入っていた。家々が増えだしたこのあたり。宿のある市街地まで、もうそんなにないはずだ。
残っていたチョコ・スナックを食べつくし、ガイド・ブックをザックにしまい、手にはゴミの入った袋を提げて、本日最後の歩行前進。
すぐ先のバス待合い小屋に、ゴミ用のビニール袋が下げてある。「缶」と「燃えるゴミ」を分別。感謝の手を合わせ、手ブラで歩き出す。
ほどなく、「奈半利」の街へ至る。中心部手前で、「へんろマーク」に従い旧道へと左折。
(本当は、ここをまっすぐ行けば宿はすぐだった。でもまだ四時前。足は不調だが、時間調整にはちょうど良かった)。
ひっそりとした旧市街を抜け、少し賑やかな「55号」に出る。
(「ショー・パブ」などもある。そうそう四国には、そっち系に限らず、外人さんの姿、ほとんど見掛けない)。
通り沿いにあった市街地案内板で、宿の場所を確認。ガイド・ブックには「BH(=ビジネス・ホテル)」とあったが、「ホテル」となっている。
国道をかなり戻って、街並が切れかかる頃、左手の小高い丘をバックに、数階建ての本日の宿が見えてくる。手前の自販機で飲物を仕入れてからチェック・イン。
「ふい~! 着いた」
外観はホテル。一階にはレストランと、奥には「日帰り入浴」もできる大浴場。部屋は三階。ユニットバス&トイレにシングル・ベッド。部屋の造りと料金は「BH」並。
部屋に入って荷をほどく。今日は時間も早いので、先ずは洗濯。ず・ずっと奥にある檜木風呂&露天風呂のある大浴場まで。素肌に浴衣で洗濯機を回す。
いったん部屋に戻り、本日の記録。部屋にバスも付いているが、せっかくだ。頃合いを見計らい、お風呂セットを抱え、再び大浴場へ。
洗い物を乾燥機に移し入浴。広い浴槽に浸って、手足を伸ばす。「女湯」の方からは子供の声が聞こえてくるが、「男湯」は終始貸し切り状態。
風呂上りは、そのままそこで缶ビール。乾燥が終わるまでには、まだまだ間がある。疲れた足で、部屋に戻る事もない。
『マッサージ機でマッサージでも』と思い、イスをリクライニングさせていると…すぐ横の「女湯」の戸が開き、いきなりバス・タオルを巻いただけの女性が…「!」。
一瞬、目が点に…良く見れば、北海道のNさんだ。お互いビックリ。
「ここ、女湯じゃないんですか?」
ここは男女共有の場所。目を逸らし、「そっちが男湯の入口なんです」と指を差す。ここ全部が女湯だと勘違いし、バス・タオルを巻いただけで、洗濯機の所に出て来ようとしたらしい。とんだハプニング。
その後、女湯から出て来たNさんと少し話をする。前回最後に会ったのは二日前。「高知県」に入る手前の「宍喰」の町でだ。
彼女がいったん部屋に戻っている間、マッサージ機に横になる。我が家にも、もらい物の機器がある。でも、かなりの型遅れ。最新の機械はいっそう進化しているが…やはり身長が合わない。でもまあ気持ち良い。
乾燥は四十分を二回。まだまだ終わらない。マッサージが終わり、戻って来たNさんと二人、乾燥待ち。ほど良く酔いが回って来たのと、たった今の出来事でテンションが上がったせいか、いつになく口が軽い。
「蚊に刺されないですか?」とのNさんの質問に、「O型ですか?」と問い直す。ピタリ正解。
(その理由は、前にどこかで書いたはず)。
「B型だから、そばにO型の人がいてくれると助かるんですよ」と言えば、お子さんはB型だそう。中学生になるそうだから、やはり同年代だろう。そんな話をしていると…
「B型とO型って合いますか?」との問い。
『ハテ? それはいったい、誰と誰のこと?』
勝手な推論は述べられない。「さあ~?」と曖昧な受け答え。
乾燥が終わって部屋に戻れば、もう六時半。空っ腹に500のビールなので結構酔っているし、お腹も空いた。1Fのレストランへ。
今日は日曜の晩。「お風呂のついでに夕食」風の、たぶん地元の家族連れが二組。厨房のお兄ちゃん達、ウエイトレスのお姉ちゃん達も三~四人。奥の座敷で宴会を開いている団体さんもいるので、まあまあの賑わい。
なんだか、三十年以上も前の、デパートの大食堂を思い出してしまう。子供の頃、一番好きだった場所。「百貨店」。大好きな日曜日の過ごし方は…あの頃のデパートには、どこにでも必ずあった屋上の遊園地で遊び、おもちゃ売り場でおもちゃを買ってもらい、その後、最上階のレストランでお昼ゴハン…早い話が、ちょっと時代遅れなのだが、『かつては我が街にも、こんな所があったんだろうな』と、郷愁を誘うような雰囲気。
『給料安いんだろうな』『でも、働く所があるだけマシなんだろうな』などといった勝手な憶測をしつつ…『今晩はステーキでも』と思っていたが、値段を見てやめる。
(このあたりの所得はどうなっているのだろう? はっきり言って四国は、瀬戸内側の都市部を除いて、あまり豊かではないようにお見受けするのだが…かつて以前の仕事で「北海道」に行った時、平均所得に十年分の開きがある事を聞かされた事がある。つまり、十歳年上の人が、こちらと同じ所得なのだ。そういった場所では、たとえば車など、「一部離島を除く」全国均一料金の物でも、相対的に高級品・贅沢品としての割合が高くなる。一番良いのは、「東京」や「大阪」などの大都市に本社のある企業の、地方にいる社員たち。好例を挙げれば、昔派遣されていた大企業の社員たち。東南アジアの駐在から戻った人の中には「また帰りたい」と語る人もいた。『帰りたいなんて、あんたいったい何人?』といった感じだが、よほど良い暮らしをしていたようだ)。
そこで、『やっぱり、このあたりは魚だよ、魚!』と「まぐろ定食」。それでも千円をはるかに越えている。
(鯨系もあったが、これも値段でNG)。
そして九時を過ぎた頃、就寝。
さて明日の天気と足の具合は如何?
本日の歩行 31・25キロ
40945歩
累 計 457・10キロ
594080歩