*第十二日目 五月二十三日(金)
朝は目覚ましより早くに目が覚め、目覚ましが鳴るより早くにベッドを出ていた。時刻はまだ午前四時代。五時十五分前。
夕べも良く寝た。夢はいっぱい見ているのだが、寝過ぎるくらいに寝ているせいか、良く憶えていない。もっとも、夢はあまり見ない人間。
(夢は必ず見ているそうだ。要は、それを憶えているかどうからしい。夢を憶えていられなくなるのは、老化・ボケの始まりとも言うが、『もともと見ない』と思っている人もいる。そういった人間は、クヨクヨしない「スポーツマン・タイプ」に多いそうだ。逆に、夢を沢山見る・憶えているのは、「芸術家タイプ」に多いと言う。そういった点では、「スポーツマン型」なのだろう)。
まだ寝ていたい気もするが、『今日も仕事か~』といった、嫌な気分は無い。
(仕事柄、朝は早かった。現場仕事なので、遠くの客先の場合、たとえば八時始業なら、移動にかかる時間を見越して家を出なくてはならないからだ)。
準備を整え、買い置きのおにぎりを食べ、トイレ一回で部屋を出る。時刻は六時十五分。鍵は無人のフロントのカウンターに置き、先ずは駅前の自販機で飲物を仕入れる。
雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせ、今日は朝から暑くなりそうな気配。
宿のある一角を西に向かい、角を曲がって踏切を渡れば「国道55号線」。南に向いて、先ずは高架を上る。下は鉄道が通っている。
「JR牟岐線」。
この路線は、この先、「海部」の町まで。そこから、「高知県東洋町」の「甲浦」まで、わずか8・5キロの「阿佐海岸鉄道」が延びている。着かず離れず・時に左右を入れ替えながら、この国道とともに南西に走っている。できれば今日、その終点のあたりまで行くつもりだ。だから珍しく、早くに宿を出たわけだ。
(手持ちのガイド・ブックでは、このあたり、すでに「阿佐海岸鉄道」と記載されているのだが…旅後のとある日曜日。ちょうどこの項をパソコンに打ち込んでいた時だ。見れば、本日の新聞日曜版は、偶然にも「甲浦駅」特集。読めば、「阿佐海岸鉄道」について、誤った知識しかなかった事が判明。よって、さっそく訂正)。
この先は、いよいよ「高知県」。
『高知か…』
そう思うと、フト、遠い記憶が蘇る。
『高知に入ったら、「土佐犬」いるかな?』
「土佐犬」なんて、普段はあまりお目にかかる機会がないだろう…が、遠く離れた北関東。たまたま隣家のお肉屋さん。先代が生きていた頃に、「土佐犬」を飼っていた。もう四十年も前の話だが、物心がついた頃には、すでに隣りにいたのだ。ただでさえ、幼い子供の目には巨大で異様に映った。その上、「闘犬」にも参加していたのか? 時に、血が滲んで崩れた顔に、「恐怖」さえ覚えたものだ。「土佐犬」なんて、それ以来…顔を思い浮かべようとしても、「ブルドッグ」の顔しか出て来ない。
すると…「あれ?」。ちょうどそこに、たまたま「ブルドッグ」を二匹連れた散歩のおばさんがやって来る。
(小型の「ブルドッグ」。「パグ」という犬種か? そのあたりの事はくわしくない)。
朝の挨拶を交わしてスレ違うが…なんとも偶然。『土佐犬ってのは、ブルドッグとの混血かな?』などと思いながら、テクテク・テクテクと緩い上りを上る。
(そう言えば、そんな話を聞いた事があるような気もするのだが…定かではない)。
まだ早朝。国道とはいえ、走る車はほとんどいない。 本日のルート上に、立ち寄る札所は一つも無い。この先、「土佐の国―高知県」は、「修行の道場」と呼ばれる。長い道程の間に、点々とお寺が点在するからだそうだ。
また、先に言ってしまえば…「香川」・「徳島」、そしてここ「薬王寺」までは、広く「遍路」が認知されているような雰囲気があったが、ここから先はフツーの世界。少なくとも一般の人達には、「遍路」はそれほど縁が無いように思われる。
やがて、本日一発目の隧道。
(「ずいどう」あるいは「すいどう」と読む。「トンネル」の当て字に使われたもので、最近では一般的ではないようだ。パソコン等で変換しても、出て来ない場合がある)。
最初のトンネルは歩道あり。
(本日くぐったトンネルは、所によっては狭いが、ほぼ歩道あり。無い所も照明が明るく、路肩が広かった。でも、最後の最後になって、手持ちの懐中電灯が不調となる。電池切れor接触不良?)。
続いて「日和佐トンネル」ここは少し長い。少々暑くなってきたので、手前で長袖シャツを脱ぎ、Tシャツの上に白衣。明かりを灯してトンネルに入る。
(入口脇に、「お遍路さん用」反射テープ付き帯とリスト・バンドが入っている箱が設置されている。中をのぞくも、中身はカラッポ。また、峠越えのコースもあるようだが、地図も品切れ。朝一番で面倒臭いので、そのままトンネルに入る)。
左手に、正面に向けたマグライトを握り右側通行。路肩は広いので、そのまま歩いても問題無さそうだったが、車が来ると「一旦停止」。道路端に沿って通っている段差に片足を上げ、壁際に寄って通過を待つ。反響音やホコリや風圧も、気になるほどではない。
その後も、トンネル内はそんな感じで通過。今日はだいたい右側歩行。
「ふう~」
出発後一時間を過ぎた頃、緩い上り坂の途中、空地前の何の変哲も無い場所だったが、右側歩道の道端で最初の休憩。空地との境界に、低いコンクリートが打ってある。
ザックを降ろして、その上に腰掛けていると…本日一人目のお遍路さんが、追い付いて来た。
「香川」から来た、区切り打ちの男性。黒縁のメガネを掛け、見かけも態度も生真面目な「サラリーマン」or「公務員」風。若者と言うほどではないが、こちらよりは若そうだ。元々は、日焼けに弱い色白肌なのだろう、火照ったような赤い日焼けをしている。
全然気づかなかったが、昨晩、同じ宿に泊まっていたようだ。こちらより早い六時に出たそうだが、峠を越えたそうで、そこで追い越したのだろう。荷物の多い半野宿の旅で、今日はどこぞの公園まで行って寝るそうだ。
こちらが先に発ち、再びテクテクと歩き出す。しばらくの間は、見慣れてきた四国内陸部の景色。時折、道路下を流れる川面をのぞき込んでは、「あ! さかなだ!」と退屈しのぎ。
やがて上りが下りに転じ、遠くに街並が見えてきた。「牟岐」の町は近い。先ほどまで、右に左にと入れ替わっていた支流が合流。川幅が広くなり、道の左手に沿って流れているのは「牟岐川」。
そこに大きな鯉の姿を見つけると…『旅の重さ』という映画のワン・シーンを思い出す。かなり昔の映画なので、おぼろげな記憶だが…まぶしく白く反射する川石の河原。主人公のハイティーンの少女が、ひとり裸で川で遊ぶ場面。
「覆面作家」と言われた「素 九鬼子」氏の原作で、家出同然に四国の旅に出た少女の物語。
映画自体は、もう三十年も前の物。それを、たぶん二十五年ほど前、浪人時代に名画座で観たのだ。主演は「高橋洋子」さん。
(この時のオーディションで次点になったのが、その後、『妹』などの作品でブレイクする事になる「秋吉久美子」さんなのだそうだ。しかし、この映画に限って言えば、「高橋洋子」さんの方が適役だったと思える)。
随所に「吉田拓郎」氏の曲が挿入された、印象深い映画だった。
原作の文庫本も持っていたのだが、現在、所在不明となっている。この旅から帰ったら、ぜひとももう一度、読んでみたい・観てみたい作品だが…大体いつも、先ず行動を起こし、後で勉強するタイプ。
(ただし、資格取得等の時は、当然ながらまったく逆の行動を取るが)。
事前に下調べなどしても、行った事もない地名ではピンと来ないし、全然記憶に残らないもの。後で「そうそう、そうだった」などとやる方が、楽しいものだ。
『もしかして、今回この四国遍路の旅に出たのは、若かりしころ観た、あの映画が潜在意識の中にあり、何がしかのキッカケでそれが顕在化され発動し…』
まあいい。なにしろ、ずっと日が差している。まだ「射す」という表現を使うほどではないが、気温も上がってきている。
『そろそろ休憩を…』
そう思ってはいたのだが、適当な場所が見当たらない。時刻は午前十時頃。少々お腹も空いた。でも、そうこうするうちに、どんどん「牟岐」の街並深くへと入って行く。
通り沿いにあったパン屋さんで、「マヨコーン」と「フランク」と「カレー」のパン、それにサイダーを買うが…先は市街地中心部。公園でもあれば話は別だが…かえって食べる機会を逸す。
そのまま街を出始めた頃、歩いていた反対側、道路左に警察署。そこの入口脇に立てられた白テント。運動会などの時に使う物だ。そこからおばさん…と言うより、初老の女性が手招きしている。この手前に案内看板のあった「接待所」のようだ。
道路を横断して、テント下の長イスに腰を降ろす。おじいちゃん三人、おばあちゃん二人。インスタントのブラック・コーヒー片手に、紫色の羊羹のような物を頂く。
(何という物なのか・どうやって作るのか、少し説明してくれたのだが、「口に入る物なら何でもオッケー」な人種、そちら方面には知識も関心も無いので、まったく記憶に残っていない)。
その後は、お決まりの「あれやこれや」の世間話となるのだが…子供の四国訛り同様、おじいちゃん達の四国弁も聞き取り難くて…その他、山と盛られた茶菓子の中から煎餅をつまみ、お茶を濁す。
だが、手招きしてくれたおばあちゃんは色々と知識があるようで、紅茶を出してくれながら、生年月日を聞いてくる。帳面に記帳した名前を見ながら、何やらゴソゴソとやっている。なに占いか知らないが、立ち去り際、見送りに出て来てくれ、「お金に困らない。幸せな人生を送る」と言ってくれる。
まあ、薄々気づいてはいた事だが、そう言われ、改めて再確認。
(今までの自分の人生を振り返って見れば、大金には縁が無いが、本当のドン底に落ちた事も無い。お金に限った事ではないが、たとえマズイ状況に陥っても、最後はいつも首の皮一枚で難を逃れてきた。もっとも、「仙人」と「浮浪者」の違いなど、外観上では大差ない。前者に近づけるのなら、後者のような最期も悪くない…と、常々そう思っている)。
ここで、今朝出会ったお遍路さんが到着。入れ違いで出発。
(そうそう、別に盗み見したわけではないが、一つ前の記帳は、ここのところ縁のある例の女性。北海道から来たNさんという名である事を知る。五時に「薬王寺」を出て、すでにここを通過したそうだ)。
そこを出れば、すぐ先に「牟岐トンネル」。
接待所にいた、一番若くて一番元気なおじいちゃん…と言うには、ちょっと語弊があるか? まあ七十前後といったところか? この街で宿を経営しているらしい…の言によれば、番外霊場「鯖大師」までは、もう4キロほどらしい。
(ガイド・ブックの距離、全然おかしい? 4キロなら、記載よりはるかに短い。『できれば「甲浦」、ヘタをすれば「海南」か「海部」で一泊』と思っていたのに…先のおじいちゃんも、「もっと先まで行ける」と言っていた。実際そうだったので、ここで大幅な予定変更となる)。
街を抜けて間もなく、「草鞋大師」の「へんろマーク」。余裕がある事に気づき、マークに従い左に入る。
旅の安全を祈願して、草鞋をお供えする場所らしいのだが、ここでミス・コース。たぶん、左上に上がると「草鞋大師」だったのだ。でも、右下に下ってしまう。
『ハテ?』と気づいた時には、すでに海が見える所まで降りていた。今さら戻る気にはなれない。民家の脇を抜け、先に進む。出た先は、海に臨む小高い場所。
下に見えるのは、夏は海水浴場に、また、地元のサーフ・ポイントとなっている浜。
(「ロコ」とは「ローカル」の略。「地元のサーファー」を表わすサーフィン用語。今風の若者言葉で言えば「ジモティー」となる)。
その防波堤上を歩く。波も無く、穏やかな良い天気。綺麗な浜が続いている。ここ「内妻」地区は、山に囲まれた入江。為にこの区間、「国道55号」はずっと高架になっている。ビーチが終わった所で、その国道に上がる。
高架が終わってトンネルに入る手前。左側に「目あき大師」の「おへんろマーク」。
下りてみると、民宿手前に無人接待所。食堂の厨房にあるような金属製の棚に、ポットやインスタント・コーヒー。峠越えの遍路道入口もある。
すぐ先の民宿敷地の中央を抜けるように進み、磯沿いの小道を行けば、右手に小さな地蔵様。それが「目あき大師」らしい。確かに半眼を開いている。
その先にも祠かお堂があるようだが、そこまでにしておく。
(後で調べてみたのだが、ここに関する記述は見当たらない)。
登山口まで戻って、峠越えのコースに入る。ここも、人通りはあまりないようだ。『上から崩れてきたのではないか』と思えるようなガレ場の箇所があったり…峠を越えると、磯を回るコース。
(「古磯」と書いてあったような…定かではない)。
グルッと磯を回ると、浜へ出る。国道はすぐ陸側を走っているようなのだが、林で覆われ、車の音しか聞こえない。
少々不安になりながらも、先へ進めば「おへんろマーク」。林を抜けて国道に戻れば、まだトンネルのこちら側が見える距離。小さな岬を回って、トンネル一本をパス。『かかった時間と労力の割りには、先に進んでいない』と、少々ガッカリ。
でも…見落としてしまったものは仕方ないとして、マークがあると、つい行かなくてはいけないような気になってしまう。
(後でよくよく地図を見てみると、ここには「内妻トンネル」「古江トンネル」と、二本の隧道があったようだ)。
照りつける日差しの中、午前十一時、「鯖大師」入口に到着。国道左側にある、お餅屋さんの正面を右に入る。
(ここの駐車場の木陰に、先ほどのお遍路さん。今度はこちらが峠越えをしている間に、追い越されたようだ)。
すぐ近くに「鯖瀬」の駅がある鉄道の下をくぐると、右に「鯖大師」。
ここは番外霊場。「鯖大師」というのは通称で、正式には「八坂山 八坂寺」と言うらしい。
本尊は「弘法大師」。開基は「行基菩薩」。宗派は「真言宗 高野派」。
「弘法大師」が「行基菩薩」お手植えの松で一夜を過ごした際、霊夢を感得し、七日間の修法をされたと云う場所。
「弘法大師と鯖」あるいは「行基菩薩と鯖」にまつわる伝説がある。
お参りをし、併設の「へんろ会館」も軽く見学。
その後、ここの駐車場のはずれ、トイレ近くの木陰のベンチで、「牟岐」で買ったパンでお昼。時間も、かえってちょうど良い時刻。
本日も、日向・無風は暑いが、日陰は爽やか。まあ、日向が暑いとは言っても、カラッとしていてしのぎやすい。本当に良い季節だ。
でも、ユックリもしていられない。『今日中には、間違いなく高知に入ろう』と思い、歩き出す。
しばらく海沿いを歩き、やがて内陸へと入る。
本来は、「海南町 浅川」の「淺川駅」手前から、もっと海寄りの道を辿るのが遍路道なのだが…そんな事、すっかり見落としていた。「へんろマーク」にも気づかず、ガイド・ブックもよく確かめず、そのままずっと、国道を歩く。
それにしても、天気も良くて、景色も綺麗。鳥肌立ちっぱなし。
かつていつだったか、年配の人に「今の人たち(つまり若者という意味)は、感動すると鳥肌が立つんだね」みたいに言われた事があった。こちらにしてみれば「違うの?」といった感覚だったが…感動を伴う興奮をすると鳥肌が立つのは、いつ頃以降の世代からなのだろう? とにかく、『本当に良い季節に来たものだ』。
「海南町」中心部への、最後の登りの途中にあった休憩小屋。例のお遍路さんがパンを食べている。歩みを止めて、二言・三言。今晩はこの先、「海部町」の公園で泊まるそうだ。という事で、先に行く。
道路工事をやっている箇所もあったが、歩道はオーケー。午後の強い日差しの中、「海南町」へと入って行く。
「海南駅」前でコンビニに立ち寄る。手前に無人の遍路休憩所もあったが、あいにく手持ちの飲物が切れていた。ここで飲物購入。
でも、店の前では大休止しづらい。そのままコンビニ袋をブラ下げて、先へ。
役場前を過ぎると、川幅の広い「海部川」。橋の中央付近が、「海南町」と「海部町」の境界だ。
その橋の、「海部」側のたもとに、高校生と思われる男子二人と女子二人。イカレた感じでタムロッている。こういう時は…山で野生動物に出くわした時の鉄則を守る。
これには、二つのパターンがある。熊などの猛獣系は「目を逸らすな」と言う。そして、ユックリとさがるのだそうだ。一方で、猿と出会った時には「目を合わすな」と言われている。野生の猿は目が合うと、歯をひんむいて襲って来るそうだ。
その話を耳にした時、『なるほど』と思ったものだ。
『なるほど、人類がサルから進化したというのもうなずける』
修学旅行の京都・奈良。あるいは、夜の繁華街や祭りや花火大会。「ガンを飛ばした」だの「メンチを切った」だの…。そういった連中は、「サルからほとんど進化してない」という事になる。
それに高校生なんて、体力と性欲は有り余っているが、世間が狭い。世の中の事をしらないがゆえに、イイ気にもなっていられる。『地球の裏側にだって沢山の人が住み、それぞれの暮らしを送っている』と、後になって気づいたものだ。
(人間の「体内時計」は二十五時間だという説がある。なるほど、毎日少しずつズレているのだから、昼間でも眠い時があったり、夜でも眠れない時があるのだろう…と、この話で納得。それゆえ、鳥のような南北のみの「渡り」だけでなく、地球の全域に人類がはびこる事になったのだろう)。
橋を渡れば「海部」の市街地。「海部郡」というくらいだから、おそらくこのあたりでは一番大きな町なのだろう。
橋から下った窪地状の谷底部に、スーパーや銀行・商店が建ち並ぶ。人通りや、車の往来も多い。その一角に、バス待合所風(兼?)休憩小屋。そこに入って、さきほど…と言っても、ずいぶん時間が経っているが…コンビニで買ったサイダーを、吹きこぼしながら飲む。時刻は午後の一時半。
ここで、時間と距離を考えて宿の算段。「高知県東洋町生見」にある三軒の宿から、名前で選んでTEL。
(一番「海」を感じさせる名だ)。
予約が取れた。まだ10キロ以上あるが、『どうせなら生見』と思ったのは、そこが有名なサーフ・スポットだから。『どんな波か見てみたい』と、心魅かれるものがあったから…。
実は、三十も半ばを過ぎてから、サーフィンを始めた。長めのボードに初心者向きの波なら、すぐに立てるようにはなったが、そこから先の進歩が無い。
もう若くはないし、「サーフィン」は、それまで体験した空間移動系のどのスポーツとも、決定的な違いがあった。
それは…スキーにしてもバイクにしても、自分で最初の行動を起こさなくては何も始まらない。でなければ、いつまでもそこにとどまったままだ。
しかし、サーフィンは違う。「ちょっと待ってくれ」と言っても、海に入れば波は向こうから勝手にやって来て、しかも同じものは二つとない。
遠く彼方の海上で、風が立てたさざ波が、やがて大きなうねりとなり、この浜に達して波となって砕け散る。
そう思えば人間なんて、ましてや一個人なんて、ちっぽけな存在だ。
どちらにしろ、「波に挑もう」なんて大それた考えは無いし、もうそんなに若くない。
ただチョットばかり、「大自然」の懐に抱かれて、遊ばせてもらえればいいのだ。
それに…水の上にプカプカと浮かんで、遠くを眺めて波間に漂っていると、妙に哲学的な気分になってくるから不思議なものだ。
だが今回は遍路の途中。肝心の足も痛むし、『サーフィンしよう』などといった気は、もちろん無い。
そこを出ると、しばらくは上り。上り切ると左に海。そのさらに先には、島のような半島が突き出している。内海の景色が素晴らしい。
振り返れば、今通って来た道路の、左右のカーブや上下のうねりが、妙にセクシーなラインを描いている。
このあたり、「NASA」などと書かれた看板があったが、地名が「宍喰町那佐」だから。ここは「那佐湾」と言うらしい。
やがてやがて…浜に沿った道。遠くに見える、お遍路さんの後姿。
『Nさんだろうか?』
ここからでは識別できないが、歩き方が男っぽい。
そのうち、「宍喰」市街地手前の上り坂。左に「旧土佐街道」の看板。あまり寄り道したくなかったが…遠回りとは限らない。入ってみる。
ここは峠越えというわけではなく、海岸線の地形に沿った道。クネクネと山肌を歩き、ほどなく国道に合流。トンネル一本分くらいか?
下りを下って、「宍喰」の街の入口。すぐ前には、先ほどのお遍路さん。やっぱり男性だ。損をしたのか得をしたのか? とにかく、そう大きなロスとはなっていないようだ。
そして、さらにその先に、もう一人のお遍路さん。前の二人が合流し、ほどなく、男性の方が左にあったコンビニに逸れるのが見えた。
お遍路組は、右方向・少し内陸にある街中心部へは向かわず、左の海岸通りを行く。
この時間、雲が出て来た。左手の海に目をやれば、沖合いは灰色に霞んで、空と海との境界が消えている。その時だ。
「グオ~ン・ン・ン…!」
海の方角から轟音が轟く。目をやれば、始めは点。すぐに頭上に飛来する、F―15と思われる戦闘機。
「カッコイイ~!」
お遍路などをやっていても、やはりいくつになっても「男の子」。素直にシビレる。
『自衛隊? それとも米軍機? このあたりだと、どこの基地に向かうのだろう?』
二機編隊が二回来た。左右にローリングを切りながら、海から現れて、山の方角へと飛び去った。
そこで前を行くお遍路さんが、あおぎ見るついでに振り返る。
『Nさんだ』
気づいた向こうは歩を緩め、確認したこちらは歩幅を広める。間もなく追い付き、話をしながら歩む。
Nさんは今晩、左手前方に見えている半島の、国民宿舎に泊まるそうだ。そして、すぐ先右側に見えてきた「道の駅 宍喰温泉」まで、送迎に来てもらうとの事…で、そこの前で別れる。
時刻は三時少し前。左下に浜を見ながら、徐々に上り。「宍喰川」を越える大きな橋を渡れば、結構きつい登り坂。頂上の「水床トンネル」を抜けると、すぐ左に国民宿舎への道があり、頭上には…「高知県 東洋町」の看板。
いよいよ、「発心の道場」と呼ばれる「阿波の国―徳島」から、「修行の道場」と呼ばれる「土佐の国―高知」へ。
左に、入り組んだ入江の海。右に「甲浦」の漁港と街を見ながら、高架のような造りの橋の上を行く。田舎の漁港だが、けっこう大きい。イイ感じだ。
でも、「はあ~…」。本日の限界も近い。そこから下ったのだろうか?…良く憶えていない。
「甲浦」の街は、このあたりまで伸びている。民家のある交差点に出て、そこから少し行った先の左側に、小さいがリゾート・ホテルっぽい建物。そしてその先に、整備された綺麗なトイレや広い駐車場のある「白浜海水浴場」。時刻は午後三時半。
ここで最後の休憩。ここまで来れば、残りは2~3キロのはずだ。少しノンビリしようと、浜へ向かう。
海水浴場でよく見かける、ビーチへ降りる手前の、コンクリート製の緩やかな段々のついた段差。何と呼ぶのか知らないが、防波堤の役目も兼ねているのだろう。そのてっぺんに腰を降ろし、海を眺める。
ここは、小ぢんまりとした、綺麗な扇状の浜辺。小さなさざ波が、綺麗な円弧を描きながら入って来る静かな浜。
ここの販売機で買った冷たい缶のティーを飲みながら、残っていた乾パンをすべて平らげる。付近には…漁師さんだろうか? 向こうの方で数人がかたまり…一人たたずむスクーターのおじさん…近くのベンチには「アベック」がやって来て(今では「死語」なのだそうだ。「カップル」と言わなくてはならない)…赤毛の野良犬が通り過ぎる。
そして、あれこれと話かけてきたのは、筋骨隆々とした、ゴッツイおばちゃん。年齢不詳。赤いTシャツに、七分丈のGパン。サンダル履きで、深く日焼けの染み込んだ肌。バサバサの茶髪の毛は、日に焼けて色が抜けているのだろう。いったいどんな仕事をしているのか? かなりしまった身体つき。でも案外、こちらより若かったりして…。
四時を回ったところで、重くなった腰を上げる。
右回りにグルッと半島を回り、左回りに湾をやり過ごし、上りを上ってトンネルを抜ければ、下りの途中で、チラチラと海岸が見えてくる。目を凝らせば、波間に漂うサーファーの姿。
下り切った左カーブの先が、「生見」の小さな街。
このあたり一帯は、海と山に挟まれた平坦な地形。国道沿いには家が建つが、海まではそう遠くはなさそうだ。
キョロキョロしながら先に進めば、左側に宿の看板。すぐ先の浜への細い道に入れば、左に本日の宿。食堂もやっている民宿。浜辺が見える距離に建つこの宿は、遍路宿と言うより「海の家」。建物は古いが、歩き旅の垢にまみれた徒歩旅行者には、かえってこういった場所の方が落ち着ける時もある。
食堂にいたおばさんに促され部屋へ。店から奥に入って、階段を上がった二階。南に向いた畳敷きの部屋。海は、ほぼま東方向。コイン式有料エアコンが設置されているが、海風の吹くこのあたり、窓を開けていれば十分だ。
(ただし、海砂で少々ザラついた感じがする)。
到着は五時少し前。風呂は五時からだと言うので、荷物を降ろし、浜へ行ってみる。ビーチは結構広い。西の山に隠れようとしている、この日最後の太陽の残光を浴びて、波と戯れるサーファーたち。そんな光景を眺めていると…
『忘れていたよ』
『夢の老後の…』
(「老後の夢」ではない。「年を取る」という事は、そんなに悪いものじゃない…と、最近思うのだ)。
『サーキット経営』
(と言っても、そんなに大きなものじゃない。レース用ゴーカートやミニ・バイク用の、一周5~600メートルほどの小さなコースだ)。
そこで、若い連中をつかまえては講釈をたれているような「変なジジイ」になりたいのだ。
(実際、平日のローカル・コースでは、おばちゃんやおばあちゃんが店番している所もある)。
かつてよく、そんな風に語っていたものだ。ここ数年、すっかり忘れていたが、ここ「生見」の浜に来て思い出した。
こんな事をしていても、やはり一番好きな場所は「サーキット」。
(幸い、十余年ほど前、地元に国際的なコースがオープンした。その他、小さなコースもいくつかある。どういう訳か、我が故郷「栃木県」には、サーキットとゴルフ場が沢山あるのだ)。
飛行機好きの飛行場に相通じるものがあるのだろうが…興味の無い人にとっては、いたって無駄な空間・浪費の最たる物に映る事だろう。
それに、ゴルフ場やスキー場なみの自然破壊。
しかし、「数奇者」にとっては、最高に心地好い場所なのだ。
「ピーンポーン・パーンポーン」
五時の鐘が鳴った。そろそろ宿に戻る事にしよう。ここには、レンタルのボードやウエット・スーツもあるようだが、今回はやめておこう。なにしろ、足が痛い。
宿のおばちゃんは、ホント田舎のおばちゃんしてるけど…おじちゃんはすっかりfunky!
日焼けした肌にハデなTシャツ、頭にバンダナを巻いて、缶ビール片手に店の前でくつろいでいる。赤っぽい日焼けは、かなりアルコールが入っているから? 二人とも、六十前後か? まあ、『あんなオトナにはなりたくない』といった連中が増えている昨今。
(ここのおじちゃんの事ではない。むしろ「年を取るほどに、派手になった方が良い」と思っている人間だ。自分も、早く「還暦」の赤い「ちゃんちゃんこ」を着てみたいものだ)。
だいたい、「自由」を取り違えている「大人」が多過ぎる。だから、「ヘンな子供」が増えるのも、もっともな話なのだ。
『バブルの頃から、そんな勘違いしている人間が増えた』と思っているのだが…かく言う自分だって、似たり寄ったりなのかもしれない。
なにしろ、「オイル・ショック」直前、「人間ブルドーザー」と呼ばれた首相が「日本列島改造計画」なんてものをブチ上げ、「消費は美徳」と吹聴され、皆が浮かれていた時代に思春期を迎えた。中学生にして高価なスポーツ「レーシング・カート」を始められたのも、そんな時代背景があっての事だ。
その後、しばらく沈んだ時代が続くが…今度は「バブル景気」に沸いていた80年代に、人生の一番良い時期「二十代」を過ごした。そんなタイミングで青春時代を送れたなんて…まったく幸運な世代だ。
それゆえ、すっかり「イカレタ」人間に育ってしまったのだろう。「就職活動」なんてものはまったくせず、大学卒業後はアルバイトをしながらの生活。日本列島を北から南、「モトクロス」のレースを追っていた。
(あの頃はまだ、「フリーター」なんて言葉は無かった。「フリーのアルバイター」と呼ばれていた。きっとそれが詰まって「フリーター」になったのだ)。
きっとそんなせいで、未だにこんな生活を送っているのだろう。もし景気が低迷していた期間に、それらの時期を迎えていたら…無難な道を歩んでいたのか? それとも…どちらにしろ、こういった人生を選ぶ人間だったのか?
『この先、いったいどうなる事やら?』
少々不安になる事も、無くはない。でも、“in the long run”―長い目で見たら―答えはまだ出ていない。
『まあいいさ』
今さら後に戻ろうにも、もうここまで来てしまった。どうせなら「一風変わった・ちょっと場違いな雰囲気」の方が面白い。だから今回も「おへんろ・おへんろ」してないし、「般若心経」の手拭いで浜に立つ。おそまつ。
それから風呂に入って缶ビール。ホロ酔い気分でこれを書き、六時半に下の食堂に下りて「焼きそば」と「親子丼」。
そして今、「ピーンポーン・パーンポーン」…ジャスト九時のサイレンが鳴っている。というわけで、本日はこれにて終了。
本日の歩行 37・17キロ
48284歩
累 計 386・76キロ
502366歩