第十日目 五月二十一日(水)
「男らしさ」が無くなった…などと言われる今日この頃。確かにそうだが仕方ない。男が「男らしさ」を見せる場・機会が無くなってしまったのだから。
(「女が強い」というのは、それだけ世の中が平和だという事。まあ、喜ばしい事なのだろう)。
戦争でもなければ、男が持ち上げられ・必要とされる機会など無いのだ。
(最近では、女性兵士も増えていようだが…)。
「一人殺せば犯罪者だが、百万人殺せば英雄になれる」。「ナポレオン」の言葉だったか?
(少し調べてみたのだが、出典は不明)。
かつて英雄と讃えられた人達だって、今の時代に生まれていれば、平凡な一生を送るか、犯罪者として人生を終えているやもしれぬ。
しかし、「男らしさ」が無くなった一方で、「女のたしなみ」も無くなった…と思う今日この頃。
向かいの部屋の女の子は、バス・ガイドさんのようだ。朝、洗面所で歯を磨いていた娘だろう。まだ二十代も前半といった感じ。夕べは可愛いクシャミをしてました。でも…吸殻の詰まった灰皿。タバコを吸う事に文句は無いが、戸を開けっ放しで出て行かなくてもいいのでは…。
『まあいいか』
それより…『夕べあの娘がここに寝てたんだ』などと、こんな場所なのに、そんな妄想をしてしまう「生臭坊主・ハゲ坊主」。
(べつに、煩悩を捨てたり・断ち切るために旅に出た訳ではない。「瀬戸内寂聴」さんの言葉。「簡単に煩悩を捨てられるくらいなら、出家などしない」に、『なるほど納得』した記憶がある。簡単に「悟り」が開けるくらいなら、仏門に入る必要はない。そういった事…愛憎に限らず…悩み、もがき苦しむからこそ神や仏に救いを求め、修行に励むのだ。ちなみに、かつては情熱的な作家として知られた「瀬戸内晴美」さんは、ここ徳島の出身だ)。
朝は…六時半から朝食なので、五時半に目覚ましをセットしておいたのだが…周りはゴソゴソし始めるし、トイレに行きたくなり…結局、五時十五分頃、部屋の明かりをつける。
(窓が無い部屋だということは、昨日分で書いた通り)。
トイレに行くついでに、そこで洗顔。洗面所は、団体のおばさん連に占拠されていたからだ。
その後、買っておいた缶コーヒーを飲みながら、足指にテープを巻く。
窓の無い部屋なので、外の様子は皆目わからない。
時間通りに、昨日の食堂にて、同じ布陣で朝食。隣りの壮年御夫婦とは、本日も同宿となる模様。
いったん部屋に戻って七時過ぎ、宿坊を出るが…境内・山門近くのベンチで、本日二本目のモーニング缶コーヒー。『何をグズグズと』と思われるかもしれないが、そのうち…『来た!』。本日三度目の予感。境内のトイレに向かいスッキリしたところで、改めて出発。
(そうそう、本日は朝から良い天気。それに、先ほどの缶コーヒー。開栓前にベンチから転がり落ちてしまったのだが、見事に上を向いて立っていた。朝食の席で、向かいに座るおばさん二人が、茶柱が立ったの立たないのとやっていた事を思い出す。今日は何か良い事があるのだろうか? まあ迷信じみたものでも、それが「吉」と出れば、悪い気はしないものだ)。
「立江川」を渡る橋まで、昨日来た道を戻る。次のお寺までは13キロほど。本日は二つのお寺を通過し、全行程30キロ弱。距離的には短めだが、しかしどちらも山の上にあるお寺。宿泊予定地までは、二つの山を登り降りしなくてはならない。
橋のたもとで、先ほど境内で見掛けた同年代の男性遍路さんと少し立ち話。橋を渡り、その先のT字路突き当りを左折。「立江」の街を出る。
しばらくは、平地の中の田園風景。がしかし、「県道28号」に路肩はほとんど無い。街並を出たとはいえ、朝の通勤時間帯。行き交う車の数も多いし、郊外に出たぶん、かえってスピードを上げている車が多い。そんな中、前後左右に気を配り、景色を楽しんでいる余裕はあまりない。
「ふう~」
狭い道なのに歩いている。車の側からすれば「迷惑千万」。邪魔な障害物この上ない事だろう。四国の人にしてみれば、昔から見慣れたお遍路さん。少しは大目にみてくれているのだろうが…「お遍路さんを轢いたりしたら大変だ」という意識を持っていてくれるらしい。
でも、『中には遍路に偏見を持っている人もいるのではないだろうか?』。宗教色が強くなればなるほど、それに反感を覚える人だっているはずだ。
「弘法大師」の四国巡礼の折の逸話の中にも、そんなものがある。「キリスト迫害」にしても、外の人間から見れば、当然の帰結と思えなくもない。そんな事を考えながら歩いていたさなか、スレ違った車の、坊主頭の壮年男性運転手。こちらの姿を認めると、通り過ぎざま、片手を構えて拝むポーズ。
『カッコイ~』
お坊さんなのだろうか? 動作がキマッテいる。とにかく、そのさりげない仕草は、特別こちらに気づかせようとした訳ではないのだ。そこで改めて自分自身の身なりを意識し、『なるほど』と納得。頭には「般若心経」の書かれた白い手拭い。Tシャツの上には、背に「南無大師遍照金剛」と印された薄手の袖無し白衣。
(ザックで文字は見えないだろうが)。
完全ではないが、今日からは遍路白装束。
(以後、昨日までのウサン臭そうな表情とは違い、一般の人にもお辞儀をされたり、「ごくろうさま」と声を掛けられる回数が増えた…ような気がする)。
素の腕が寒いくらいだが、午後には暑くなるだろう。
「萱原」の手前で朝食隣席の御夫婦を追い越し、「県道22号」に突き当たって右へ。小さな峠を越えた先。左に分かれた旧道沿いに「沼江大師」。
小さなお寺。朝の太陽はまだ、お寺の背後の林の向こう。境内は朝露で湿った感じ。人気も無い。
ここは本尊に「薬師如来」を祀り、厄除けに霊験ありとされる所。
ここまで一時間。6キロほど。門前を出たあたりに、消防団の建物。その脇に、腰掛けるにはもってこいの高さのコンクリート壁。ここで最初の休憩。
正面には、閉鎖された保育所の建物。何だか物悲しい。それほど古いものではなさそうだが…『かつてここでは、はしゃぎ回るカワイイ声が響いてたんだろうな』…などと思いをめぐらしてしまう。
『他人事ではないのだ』
市役所のすぐ裏手にあった通っていた幼稚園は、都会化の波か、今では郊外に移り、かつての面影の残る建物は公共の機関となり、市役所すら別の場所に移転されている。小学校も、新幹線が敷地のすぐ脇をかすめる事になったせいか別の場所に移動し、名前は昔のままだが、もう我が母校といった思いはまったく無い。大いなる喪失感。まったく見ず知らずの場所なのに、ちょっぴりセンチな気分にさせられた。
(ここで、先ほどの御夫婦に追い越される。六十前後と思われる二人だが、けっこう速い。この後の登りで一気に突き放す事になるのだが、平地では抜きつ・抜かれつの展開。その昔、レーシング・カートをやっていた知人の言葉を思い出す。初心者と競争した場合、パワーの少ない下のクラスの方が、技量の差が出にくい…という話だ。上級クラスのマシンになり、難しくなればなるほど、腕の差が現れて、タイムに開きが出る…というものだ。確かにそうだろう)。
そこを出て少し行くと、正面に「勝浦川」を見て、左右に走る「県道16号」に突き当たる。ここを左折だが、ちょうど左角にコンビニ。食料を仕入れる。
その先に、意外に大きな「生比」の集落。もう「勝浦町」のはずれなのだろう。でも街中ほど、道路に家々が迫っているので歩き難い。
しばらく歩き、途中の標識に従い、県道を左に逸れて「生名」地区へ。ここに、お寺への登山道入口がある。と言っても、まだまだ民家がある地域。
ほどなく、左の路地が目指す道…の付近は、ひっそりとしているが宿もあり、食堂や商店もある。その向かい。通って来た道の右側には、たぶん用水路も兼ねた小川が道に沿って流れている。
そこを見下ろす場所に、消防団の建物と何かの碑にベンチ。こちらの並びのすぐ横に商店。店先の販売機で飲物を買い、この後すぐに始まるであろう登りに備え、軽く休憩。
前述の御夫婦と入れ違いに、そこを発つ。路地の右沿いを流れる小さな川には、渡した小さな鯉のぼり。すぐに民家は途切れ、道の傾斜が角度を増す。目指すお寺までは約3キロ。ずっと登りだ。
まずは、狭いがコンクリート舗装された道。しかし、かなりの急坂。おまけに先の見通せる直線部分が多く、『あそこまで行くのか』と思うと、気も重くなる。あえて良い点を挙げるなら、風の通りが良い事。時おり上から、はたまた下から、涼しい風がやって来る。幸い北斜面。日当たりが良過ぎる場所はあまりないが、時刻は十時過ぎ。晴れ渡った空に、気温も上がってきた。
「ふう~、アツ~」
温暖化が叫ばれる昨今だが、「子供の頃の方が暑かった」と言う人も多い。確かにそうだろう。身長の低い子供の方が、より気温の高い地面に近いのだから…それに、子供の時の方が、諸々の器官が敏感だったのだろう。この年になると、色々な面で「感覚の衰え」を感じる。「暑さ・寒さ」にしてもそうだ。「子供は風の子」なんて表現には、子供の時分から疑問を感じていた。まだエアコンなどが普及していなかった当時。夏には扇風機を抱きかかえ、冬には首までコタツにもぐり込んでいたものだ。それが、今ではどうだ。特に疲れて座り込んでいたりすると、気づいた時には…身体がチンチンに火照っていたり、キンキンに冷え切っていたり…。また子供の頃は、『マッサージなんて、ひとつも気持ち良くない』と思っていたのに、最近では、ただ触れられているだけで…ふう~。「癒し」を感じるようになってきた。
(他方、「大人のスキンシップ」に伴った感覚の方も、ずいぶんと鈍ってきている。それに近い一例として、「くすぐったい感覚」がある。若い頃・幼い頃、特に苦手な場所は喉や足の裏。かつては、そこに触れられるマネをされただけで大笑いが止まらなかったものなのに、今ではまったく何ともない。「くすぐったい場所と性感帯は一致する」との持論の持ち主。かすかに脇の下と脇腹に、かつての感覚が残っている程度だ)。
他人の気持ちなんて、特に老後のあれこれなど、若いうちにはまったく理解できないものなのだろう…と思えるようになってきた今日この頃。
『確かに、覚えがある』
そんな事を考えながら、とにかく登る。途中、ほぼ中間地点に「水呑大師」。湧水が流れ出ている場所。ここで手と顔を洗うが、うつむいた額からポタポタと汗が落ちる。
でもとにかく、登る・登る。地道を、階段を、登る・登る・登る。やがて、まっすぐなゴツゴツした敷石の道を登り…最後はどんなだったろう? 疲労困憊。よく憶えていないが、山門下の階段脇に出る。
ここを登り切れば、お寺の境内。もう汗だくだ。
《第二十番札所》
「霊鷲山 鶴林寺」
本尊 地蔵菩薩(伝 弘法大師作、国宝)
開基 弘法大師
宗派 真言宗高野派
延暦十七年(798)、「桓武天皇」の勅願寺として建立される。
境内に入ると、団体さんなどでかなりの人出。先ほどから、山頂が近づくにつれ、車道を走る車の音が頻繁に聞こえていたし、登るバスの姿も見えていた。山道を登り、疲れているのに…あたりを見回しても、ユックリできるような場所は見当たらない。
『仕方ない』
とりあえず、「お手洗い」の横。日当たりの良いベンチにザックを降ろす。
登っている間は暑かったが、たっぷりかいた汗で冷えてきたし、高度が上がったせいか少々寒いくらい。日当たりの良いベンチは、かえって好都合。それに、人通りは多いが、こんな所で足を止める人はいない。
ここで、昨日使用済みだが、乾いているTシャツに着替える。休んでいる間、白衣は広げてザックに掛けておいた。薄手なので、天気が良ければすぐ乾く。
体力回復したところで、先ずは近くの大師堂へ。その後、階段を登り本堂。さらに本日は時間に余裕があるので、奥の階段を登って、少し上にあるお堂へと行ってみる。
しかし下ってから、塔に行くのを忘れていた事に気づく。時間に余裕はあっても、体力は…この後、もうひと山越えなくてはならないのだ。それに、いったん下りてしまうと、再び登る気にはなれなかった。下から眺めて終わりにする。
時刻は十一時。昼には少し早いが、お腹が空いた。ここで、先ほどコンビニで買ったパンを食べようと思ったのだが…『ん~』。考えてしまう。あたりは、どこもかしこも人・人・人。
『少し先に行ってみよう』と思い、先ほど休憩したベンチへ。その近くに、歩き遍路道の入口がある。
地道の下りはつづら折れ。森の中を、延々と続いている。どんどん降りて、舗装路を横切る。道案内の道標によれば、この先に「大井休憩所」があるはずだ。
高く伸びた竹同士がこすれあい、ギシギシと音をたてる竹薮の底を抜け、砂防ダムの近くまで来ると…前方に鈴を鳴らし、片手に金剛杖、もう片方の手には木の枝を杖代わりに、下って行くお遍路さん。追い付いてみれば、二日前、十二番「焼山寺」からの下りの途中、「一本杉」で出会った「大分のおばちゃん」だ。少し話をしながら歩いていると、左側に小さな神社がある。鳥居の横に屋根付き休憩所。ちょうど木陰。おばちゃんには先に行ってもらい、ここでお昼にする。
コンビニで買ったサンドイッチと調理パン。
最初は暑かったが、ここは風が良く抜ける。食後も、しばらくユックリ食休み。でも、そのうち少々肌寒くなってきた。十分休んだところで、正午ピッタリに出発。
民家のすぐ脇を抜け、小さな集落下の舗装路に出る。県道のようだが狭い道。時刻も昼時なので、車はまったく通らない。人気も…畑仕事をしているおばさんに会釈したのみ。時間が止まっているようで、何ともイイ感じ。
ここの道路左側に、「大井休憩所」と思われる所がある。ついさっき休憩したばかりなので素通り。
そこのすぐ先。左からの道が突き当たっているT字路に「へんろマーク」。向きは左方向。
そのT字路突き当り正面に、赤いCokeCoKeの販売機。こんなイナカでは、この先、店や販売機があるかあやしいものだ。そこで、ティーの500mlペットを一本仕入れて、瓶入り炭酸飲料をグビッと一気飲み。
進行方向に目をやれば、間もなくの所に橋が見える。
そこそこ長いコンクリート橋。「水井橋」とある。川は「那賀川」。
青空の下、濃い緑の山々・淡い緑色の流れ・川面につながれている木舟。
絶景とは違うが、良い眺めだ。趣き深い…とでも言ったら良いのだろうか。何気ない場所だが、案外、一生記憶に残るような場面かもしれない。
橋を渡り切ると右カーブ。その外側に、何かの碑と「大分のおばちゃん」。「写真を撮ってくれ」と使い捨てカメラ。ここでお昼を食べながら、通り掛かるのを待っていたそうだ。東西に流れる川の、こちらは南側。向こうは山なので、ちょうど良い日陰になっている。“Take A Picture”後、先に行く。
四国山間部にありがちな、狭い舗装路。ここも県道? それに、いきなりキツイ登り。次のお寺までは、あと4キロほど。
コンクリート舗装の狭い林道に入り、勾配がどんどん増していき…階段もあっただろうか? 一日に二回も登ると…『どっちがどっちだったか?』。記憶も混乱し…『どんなだったろう?』。曖昧になる。
最後は舗装路に出て、そこを右上に。ちょうどすぐ前を、十番で出会い・十二番手前でスレ違った、「大きなザックのおじさん」。間もなく追い付き挨拶。「どこかで…」といった感じだったので、少し説明していると、ほどなく山門が見えてきた。
しかし、そこをくぐっても、さらに先がある。それも、けっこう長い。やがて、納経所のある木造の建物。
ここが大師堂かと思っていたが…この先にまた門があり、さらに階段が上へと続いているのが見える。
納経所正面に並んだベンチには、添乗員風の男性二人。
(団体さんやツアー客の場合、当人たちがお参りしている間、まとめて納経を済ませておくのも添乗員さんの仕事のようだ)。
それに、歩き遍路らしき女の子。
ここでトイレに行ったり、一息入れる。前の「鶴林寺」への登りほどではなかったが、汗で濡れたTシャツを着替える。
先ほどのおじさんは、はずれのベンチに大きなザックを置いて、上に上がったまま。
納経所に水をもらいに行っていた女の子。そのうち、こちらにやって来て…大学生くらいの年齢だろうか? 細いが結構背が高い。少し長めの髪を後ろで束ね、歩いている割りには色が白い…次のお寺の近くにある「善根宿」の所在地を知らないかと言う。
『なんとか宿…何それ?』
はっきり言って、この時点で「善根宿」などといった言葉自体、まったく知らなかった。
(「善根宿」とは、無料で宿泊場所を提供している個人の家などの事だ)。
こんな所で水を汲んでいるくらいだから、お金も無いのだろう。
こちらもそんな調子だから、期待に応えられる返事ができるはずもない。
「ダメだったら野宿か…」と旅立って行った。時間はまだ午後の早い時間だが、ここから次のお寺までは12キロほどある。
『今晩どうしているのだろう、あの娘…???』
荷物の量からすれば、野宿の装備などなさそうだったが…。
そんなこんなのやり取りの後、上に上がる。
《第二十一番札所》
「舎心山 太龍寺」
本尊 虚空蔵菩薩(伝 弘法大師作)
開基 弘法大師
宗派 真言宗高野派
延暦十二年(793)、「桓武天皇」の勅願寺として建立された寺。
ここは「西の高野」と言われ、「弘法大師―空海」が「求聞持法」を会得したとされる所。
(今風に言えば「速読術」のようなものか?)。
かつては深山だったのだろうが、今ではロープウェイのおかげで、ここもかなりの人出。
(ただし、そういった場所の多くは、その経路のみが混雑し、本来正面だった山門側は閑散としていたりするもの。ここのお寺もそうだった)。
本堂・大師堂と回り、すぐ下のロープウェイ駅へ。ここで缶コーヒー。
ここまで来れば、宿までは下りの4キロ。時間も早いし、『ここで暇潰し』と、フト見れば「舎心ケ嶽」と記された石柱。大師が修行した場所らしい。片道680M。行ってみる事にする。
祠や石仏が並ぶ急な登り坂。途中、お寺関係と思われる若者とスレ違っただけ。境内のにぎわいとはうってかわり、静かだ。ただ…「ヒュン・ヒュン・ヒュン・ヒュン」…頭上をロープウェイが通過している。向こうに見える山を越え、姿を現す銀色のゴンドラは…それはそれで勇壮ではあるが、この場の雰囲気にはそぐわない? 何だか興ざめ。
そして着いてみれば、たぶん向こうは断崖なのだろう…こちらに背を向けた「空海」像が、遥か遠くを見つめて(後姿しか見えないので「たぶん」だが)座っている。
ここは聖地だそうで、これ以上は立ち入り禁止。手前には、「ここからは、お大師様が迎えに来て下さいます」といった事が書かれた門柱のような物があるが…信心浅い人間には、無縁の事だ。それに、『ちょっと、もったいつけ過ぎ』などと思ってしまう。
ここで、「柳田國男」の「遠野物語」にいくつかある、御神体と子供の話を思い出す。神社や祠の御神体を引っ張り出して遊ぶ子供達。それを見咎める大人達。しかし必ず、天罰が下るのは大人の方。夢枕に立った神様曰く、「せっかく楽しく遊んでいたのに邪魔をした」との由。そんな話を思い出しながら、帰路の途中で振り返ると…お大師様の後姿も、心なしか寂しそうに見えるが…「孤高の人」には無縁な事か?
その後、いったんロープウェイ駅まで。一通り回ったし、まだ早いが宿方面に向かう事にする。
ロープウェイ側の喧騒とはうってかわって、人気の無い参道を山門まで取って返す。良い雰囲気だ。登りの後の下りなので、疲れてはいるが充実感もある。きっとこれが、昔ながらの遍路の匂い。急いではいるが、バス遍路のような「急ぎ足」の巡礼ではない。こういったものを味わえるのが、歩き遍路の特権なのかもしれない。
山門をくぐると、ちょうど「大分のおばちゃん」が到着。
『これも何かの「ご縁」なのだろう』
ホントに良いタイミングで現われて、ここでもシャッターを頼まれる。付近を掃き掃除していたおじちゃんと三人、少々立ち話をしてから下り始める。
急な坂を少し降りると、それほど大きくない駐車場が二つ続く。このあたり、上りと下りの車道は別々の道になっているようだ。どちらにしろ、道幅は狭いし、大型バスなんて入って来られない。それで、山を越えた向こう側からロープウェイがやって来るのだろう。
途中、マウンテン・バイクの若者と話をしていた「大きなザックのおじさん」に追い付く。これから登る彼に、二人で少々アドバイス。
先に出るが、「イテテテテ…」。そこからは、ついついピッチが上がってしまうほど急な…負担を荷け過ぎないよう気を付けていたのだが、それでもつま先が痛くなるほど急な…それも、飽きるほど長い下りだった。
途中には、つづら折れの車道をまっすぐカットするような遍路道が数箇所。やがて勾配が緩くなる頃、ガイド・ブックにある段々畑が見え、このあたりに二軒ある最初の宿前を過ぎる。
見通しの悪い右カーブを通過すると、県道との合流地点右側に本日の宿。「民宿」とあるが、れっきとした旅館。時刻はまだ三時半だが、行くアテも無い。『今日はもういいや』と、一番で宿に入る。
「なんてこったい! ビールがうまい」
部屋に入って先ず洗濯。その間に一番風呂。風呂上り、厨房に立ち寄って瓶ビールを一本。
部屋は、東西に長い建物の、一番西奥の二階。西からの日が差し込む西側の窓際にちゃぶ台を移動し、ビールをやりながら本日の記録。とても良い気分だ。
乾燥機が終わる頃、ちょうど夕食。昨晩の宿坊ほどではないが、結構な人数。
昨日同宿だった御夫婦に、茶柱のおばさんコンビ。
手前の下りでスレ違ったマウンテン・バイクの若者に、「大分のおばちゃん」。
それに…十二番「焼山寺」で地図をもらった女性。決して「もののけ」などの類いではなく、ごく普通の女性だ。見た感じでは、予想通り同年代。そして、すべての歩き遍路さんに共通するであろう、無造作な日焼け。
(たぶん、自分もそうなっているはずだ)。
見知った顔が増えてきたけれど…「乱れ打ち」だった頃の方が面白かった? 宿の関係で、大体のパターンができてしまう。
そうそう夕食の席、隣りは「大きなザックのおじさん」。話題は明日のコース。歩道の無いトンネルがあるそうだ。ここまで無かったので忘れていたが…マグライト(小型懐中電灯)、持ってきて正解だった。
(コイツとスイス・アーミーナイフは、非常用に、ちょっとしたハイキングの時にも必ずザックに忍ばせてある)。
こんな使い方をするとは思わなかったが、非常事態と言えば非常事態だ。
食後は少しテレビを見てしまったが、そろそろ今日の分も書き終える。
明日は五時起床の六時朝食。明日も宿の関係で30キロ弱の予定。宿はいくつかある街なので、予約はしていない。さて、まだ九時を過ぎたばかり。もう少しテレビでも見るか。
今日も周りはとっても静か。
その昔、まだ若かった頃、ユースホステルを使って旅をしていた。あの時と雰囲気は違うが、いろいろな人と出会えて・顔見知りになって…。この年になって、こんな思いができるなんて…こんな世界・こんな場所が残っていたなんて、思ってもみなかった。日本のオジサン・オバサンは、まだまだ元気。四国おへんろは、そんな感じ。
そうそう、四国の宿にはスリッパが無い(所が多い)。ここもそうだ。
本日の歩行 28・99キロ
37662歩
累 計 317・09キロ
411864歩