第七話 不機嫌の理由
仲田達が二軒目へと繰り出した頃、雪枝と善希は駅の方へと向かっていた。
雪枝は何が何だか分からないまま。善希に手を引かれて歩く。一方の善希は何も説明せず、口も開かず。雪枝の手を掴んだまま己のペースでズカズカと歩いている。
雪枝は彼の歩調に合わせてついて行くほかなかった。
「ちょ、ちょっと!善希!」
せめてこの手を放して欲しい。歩きづらくて仕方がない。
その事を伝えようとするも、善希は聞く耳を持っていない。雪枝の呼び掛けで善希の手に力がこもる。
「…痛っ。」
ぎゅっと力を入れられた事で軽く痛みが走る。雪枝の痛がる声を聞いて、善希はやっと我に返った。ハッとなり、足を止めて雪枝の手を離す。
「あ…、ごめん。」
夜風に当たって少し頭が冷えたのか、先程までのピリピリした雰囲気は少し緩和されていた。とはいえ、二人の間の空気が重い事に変わりはない。雪枝がおずおずと善希の顔を覗き込むと、善希は不機嫌な様子のまま口を開く。
「…今から俺ん家、来れるよな?」
「う、うん…。」
普段とは雰囲気の違う善希。不機嫌さを隠さず露わにする彼を見て、このまま帰るとは言えなかった。
◇◇◇◇◇
二人は善希の家へ。
善希の家までの道のりも会話はなく、気まずさは加速していた。家についてもそれは同じ。静かな部屋に沈黙が降りる。雪枝は緊張感からか、座布団の上に正座した。
何か話すべきなのだろうが、会話が見付からない。選ぶ言葉を間違えれば地雷を踏んでしまいそうだ。
雪枝が場の雰囲気に飲まれて押し黙っていると、善希が静かに口を開いた。
「…さっきのあいつ、何?」
「え?」
「一緒にいた男。」
突拍子のない質問に雪枝はきょとんとなる。善希の発言を理解するのに数秒要した。
やがて善希の示す男が後輩の仲田の事だと分かり、雪枝は普段通りのトーンで答える。
「仲田君?仲田君は会社の後輩で…ってそれはさっきあの子も言ってたとおりで…。」
「ホントにそれだけ?」
「?」
小首を傾げる雪枝。雪枝は眉根を寄せて善希の顔をじっと見つめた。善希は真っ直ぐに雪枝を見据えて自分の中の疑念を口にする。
「二人で飲みに行ってたとか、そんなんじゃなく?」
「!? 違うよ!ってか何?どうしたの?」
本当は違わないけれど。心の中で、そう呟いてしまう。
的を得た指摘に雪枝は思わずビクリとなってしまったが、変な誤解を生まない為にも毅然とした態度で返す。別にやましい事は何一つない。それをそのまま態度に表した。
それを見た善希は内にあった疑念を晴らしたのか、少し言葉を詰まらせながらも小さな声でボソリと呟く。
「…後輩があんなイケメンとか…、そもそも男だとか聞いてない。」
「・・・・は?」
雪枝は目を瞬かせる。雪枝は本気で善希が何を言おうとしているのか、今善希がどういう感情を抱いているのか分かっていなかった。それは雪枝の態度を見れば一目瞭然。そんな彼女を見て、善希は大きな溜息と共に頭をくしゃくしゃと掻く。
「あ~~~いや、・・・・ごめん。その、仲田って奴がチーム飲み会だって言ってたのも聞いたし、雪枝の性格的に浮気とかそんなんじゃないってのは分かってんだけど。その、なんつーか…。あんなカッコイイ奴と一緒に仕事してるとか、気が気じゃないっつーか・・・・。」
「?」
そこまで言われても雪枝は善希が何を言おうとしているのか分かっていない。雪枝は片眉を上げて善希をじっと見つめる。雪枝はこういう話題に人一倍鈍感だった。何故善希が怒っていたのか、仲田を睨んだのか。敏感な女子なら気付くかもしれないが、雪枝は一向に気付かないのだ。
善希は観念した様子でため息を吐く。そして頬を赤らめ、口をもごもごさせながらも小声で素直に己の気持ちを吐露した。
「…嫉妬しただけ。」
「え?」
「嫉妬しただけ!雪枝鈍いし、仲田が迫っても気付かなさそうじゃん。無防備すぎるから心配っつーか。…あいつに取られんじゃないかって…ちょっと心配になっただけ。」
「!?」
まさか善希がそんな事を考えていたとは。
善希の浮気が原因で別れたという結末を知っているだけに、想定外の発言だった。自分の知っている善希とは別人にも思えるような彼だが、雪枝は慌てて否定する。
「な、ないよ!仲田君はホントに単なる後輩だし!それに、あのルックスなら私なんかじゃなくても、他にいくらでも良い女の子いるでしょ。」
「でもさ…雪枝可愛いし、やっぱり心配だって。」
「っ!!??」
またもや全くの想定外の発言に、雪枝は頬を染め上げる。少しの間、その場に沈黙が降りた。
雪枝が固まっていると、善希は雪枝以上に顔を真っ赤にしながら、その場の沈黙を破った。
「なっ、なんか言えよ!」
「い、いや、だって…。いきなり…かっ、可愛いとか言われても…っ。」
「可愛いよ。雪枝は。勿論それだけじゃなくて。良いトコいっぱいあんじゃん。素直で、真っすぐで、何に対しても一生懸命で。仕事に対してもそうだろ?新商品開発の仕事、プレゼンにも真摯に取り組んでて…。そういうところ、一緒に仕事してれば仲田だって知ってるわけじゃん。あいつが雪枝の事、好きにならないとは言い切れないだろ。」
「…っ。」
照れ臭そうにしながらも、真っ直ぐに届けられた想い。それはその場しのぎの薄っぺらな言葉なんかじゃない。
善希の事を知っているからこそ分かる。彼の本心だ。
ここにきてそんな彼の心の内を聞く事になるなんて思いもしなかった。
素直に…嬉しい。
雪枝は嬉しいと思いながらも、どう返せば良いのかを迷ってしまう。善希は雪枝の返答を待ってはいなかったのか、その場の甘酸っぱい空気に照れたのか。雪枝が口を開く前に話題を切り替えた。
「明日、どうする?何処か行きたいとトコある?」
「え…っと・・・・。突然言われても…。」
「特にないならさ、久しぶりに水族館行かない?」
「!」
水族館は雪枝の好きな場所。
水槽という狭い空間の中でも自由に泳ぐ魚が好き。
中でも特に海月が好き。
ふわふわと水中を浮かぶ海月。水族館では海月のコーナーは暗室でライトアップされている事が多い。
その幻想的な世界には、いつも癒される。
善希と付き合う前は、疲れた時には一人で水族館に行ったりもしていた。
自由に泳ぐ魚を見ていたら何時間でもその場にいられた。
今思えば、少し病んでいたようにも思えるが。
良い歳した大人が水族館で一人、何分も同じ水槽の前で立ち止まって見ている、傍から見れば遠巻きにされそうな光景かもしれない。
そんな雪枝の好きなものを知っており、それを尊重してくれる善希に雪枝は思わず目を丸くした。
雪枝が言葉を詰まらせていると、今度は善希がきょとんとした表情で口を開く。
「あれ?水族館、好きじゃなかったっけ。」
「好き、だけど…。なんで私に合わせてくれるの?」
「何でって…言っただろ。埋め合わせするって。」
「!・・・・ありがと。」
会社の飲み会があると告げられた時に言われた言葉。あれはその場しのぎの取り繕いではなかったのだ。
最近の善希は本心から雪枝と向き合ってくれている。
その事は少なからず、雪枝の心情にも変化を与えていた。