8話
馬に乗った父は兵士を引き連れ、森に向かっていった。兵士たちが集まっていた空間がぽかんと口を開け、ガチャガチャと武具のぶつかる音が遠くなっていく。
「お父様、本当に戦うつもりなのね」
ようやく動き出すことができるようになった私は、門まで出ると、小さくなっていく彼らの背中を見送った。私が生まれるまでは父も実戦の場に立つことが多かったと聞く。それに指揮の執り方は誰よりも心得ているだろう。
けれど気にかかるのは私たちに向けた眼差し。父が一瞬向けた視線は私たちへの対抗心が溢れていた。
――お父様は決して私を認めたくない。
今回自ら前線に立ったのも、父の中で大きくなりすぎた私を潰したかったからなのかもしれない。けれど父が戦うのは私ではない。魔獣だ。
魔獣には人間の心境など関係ない。彼らに存在するのは生か死、食うか食われるかだ。ただひたすらに命を狙ってくる魔獣を前にして、自らの劣等感を埋めるために対峙する人間などもはや敵ではない。
もしかしたら父は勝てないかもしれない。
ぞわぞわと嫌な予感が足下からひっきりなしに這い上がってくる。
もし私が父が望んだ通りの令嬢になり、早々に辺境伯家を離れていたとしたら、こんな風にはならなかったかもしれない。
後悔とはまた違う。これは「出来損ない」にしかなれなかった私の、父への負い目だ。
私は不安を振り払おうと、背後に立つヴィートに話しかけた。
「なんだかバタバタしちゃったわね。そういえばヴィートはこれからどうする……って、あれ?」
さっきまでいたはずのヴィートがいない。きょろきょろと庭を見回すも、ぽかりと飛び出すはずの黒い頭はどこにも見当たらない。だがにわかに屋敷の裏手が騒がしくなった。屋敷の裏には厩舎が建てられている。
消えたヴィート。騒がしくなった厩舎。つなぎ合わせると考えられる答えは一つしかない。
少し待つと遠くで「馬泥棒ー!」と叫ぶ声と、こちらに向かってくる馬の足音が聞こえてくる。やがて塀の角から姿を現した黒い馬にまたがっているのは、予想通りヴィートだった。
「何しているの?!」
ひらりと飛び降りたヴィートに驚き駆け寄る。しかし彼は涼しい顔で私の手を取った。
「よし、行くか」
「えっ?」
思わず手を引こうとするも、彼は私の手を握って離さない。
「俺、近衛騎士団副団長になっちゃったからさ。魔獣討伐の援護も職務なもんで」
「なら私が行かなくても――」
「いや、行くぞ」
厳しい声にびくっと肩が跳ねる。
「ちゃんと見せつけてやろうぜ。リーフェが生きようとしている道を」
顔を上げると、ヴィートの真剣な瞳の中に戸惑う私が映っていた。
ああ、と私は気づいた。きっとヴィートには見えていた。魔獣に立ち向かう父の危うさを。そして、私が父に負い目を感じていることを。
何も言えずにいる私に、ヴィートはニィっと笑って見せた。
「俺と一緒なら大丈夫だ。なんせ俺、強ぇからさ。リーフェの事も守ってや――」
得意気な声が途中で止まる。なぜなら私がヴィートの口を塞いだからだ――もちろん空いている方の手でだが。
「誰が守ってもらう必要があると言ったの? その言葉、そのままお返しするわ」
「……っ、そうこなくちゃ!」
「っ!」
次の瞬間、視界がふわっと宙に浮き、気づけば私の身体は馬の背に横座りに乗せられていた。すぐに私を抱えるようにヴィートが跨る。
「よっしゃ! つかまってろよ」
ヴィートは思い切り馬の横腹を蹴った。
その合図にいななきながら駆け出した馬は、風を切りながら私たちを運んでいく。
勢いよく流れる空の向こうには、白い狼煙がもはや消えつつあった。
*
「――ブベギャッ!」
潰れるような声を上げ、魔獣の首がごろりと転がった。記憶よりも重い手ごたえに、肩で息をつきながらモンドは壁を背に座り込んでいる息子に声をかけた。
「っ、はぁ、はぁ……しっかりしろベルナンド」
「父上……! も、申し訳ありませんっ」
「こんなことでどうする! お前は次期辺境伯になる男なんだぞ!」
魔獣に追われたベルナンドは、こともあろうか建物を背に剣を構えていた。モンドがたどり着いた時には剣を取り落とした末に壁際に追いやられ、ただやられるのを待っている状態だった。
いくら剣術が苦手と言えど、あまりにもお粗末な有様。辺りを見回すと兵士たちも一匹の魔獣に対し二人、三人がかりで応戦している。これではいつまで経っても倒しきれない。
(くそっ、これでは埒が明かないじゃないか。ピギーグくらい一人で倒せるだろう?!)
詰所を襲ったのはピギーグという、頭に角を生やした大型の猪のような魔獣だ。鋭い牙を持ち、生き血が大好物なピギーグは飢えれば仲間でも襲う野蛮な種族だった。その性質から群れで行動することは滅多にないはずだが、目の前には何十匹ものピギーグが兵士たちに襲いかかっている。
これまでの魔獣の動向と比較すると、明らかに異常な事態が起こっている。
先日のマドヴォルフの襲撃にせよ、何かがこれまでとは違う。けれどそこまで考える余裕はモンドにはなかった。
「ピギャァァァっ!」
「ぐっ……!」
斬ったと思えば次から次へと襲いかかってくる。
しかも久しぶりの実戦のせいか、一度の斬撃では魔獣に致命的なダメージを与えられなくなっていた。何度目かの剣がようやく急所をとらえる。
腕が重い。息が苦しい。足がもつれそうになる。
(いや、そんなこと言っている暇はない。私はあいつらになどに負けるわけにはいかない)
今モンドが考えるのは魔獣のことなどではない。
――リーフェがいくら偉そうにのさばったとて、しょせんは大したことがないということを。
――ヴィートがいくら国王に取り入ったとて、最終的に必要とされるのは辺境伯として国の守護に当たる自分であることを。
自分は決して弱く、惨めな男ではないことを、認めさせなければならない。
「皆の者、私に続けぇ!」
「は、はい……っ!」
モンドの大声に何人のかの兵士が反応した。だがほとんどの兵士は目の前の魔獣に必死で、呼びかけは全く耳に入っていないようだ。
「ぐうぅ、くそぉぉぉっ!」
モンドは渾身の力を振り絞り、地面を蹴った。目の前で兵士に襲いかかろうとしているピギーグに狙いを定める。
「私は、まだやれる……っ!」
「ピギャァアッ」
ピギーグは迫りくるモンドに気づいた。涎をまき散らしながら鋭い牙をむき出しに突進してきた。
「死ねっ、魔獣めっ!」
全体重を乗せ、モンドは魔獣の頭めがけて剣を振り下ろした。ズザン……ッ、と重い音が響く。しかしその手には何も手ごたえがない。
(あ……)
その時、モンドには何もかもが止まって見えた。
空気を切り裂き、地面にめり込んだ剣先。わずかな差で剣先をすり抜けたピギーグの、真っ赤な口の中に生えた何本もの鋭い牙。
「父上ぇぇっ!」
背後から聞こえるベルナンドの叫び声。
だがもう遅い。目の前には飢えた魔獣が獲物を得た確信に目を輝かせ、涎を振り散らしている。
ああ、まさかこんなことになるとは。モンドの脳裏に後悔がよぎる。
(もしあの子――リーフェがいなければ……。愛する妻を失ったのも、剣から離れたのも、全てリーフェがいたせいだ。リーフェが全て――)
そう、リーフェが全てだった。
母を失った小さな手を守ってやらねば、と思っていたのに……。
剣を持ち、顔を輝かせる娘に「これならすぐに父を超えるな」と抱き上げて笑っていたはずなのに。
それなのに、なぜこれほどまでにリーフェを憎んでしまったのだろう。
「――お父様!」
「……っ!」
気づけば目の前に迫る白い牙。
モンドは咄嗟に身を捩った。ぐしゃりと骨が砕ける衝撃。次いで炎を押し付けられたような痛みが左肩に走る。
「……っぁぁっ!」
「――ッ、プギっ?!」
声にならない叫びをあげたモンドの横で、ピギーグの首が小さな声を上げながら宙に浮いた。残された胴体がどさっと崩れ落ち、ボロボロと形を失い始める。
「あ、ぐぅ……う、腕が――」
感覚を失った左腕を支える右手を伝い、ぼたぼたと地面に赤い血が落ちて行く。耐え切れず膝をつくモンドに影が落ちた。顔を上げれば、そこには髪をなびかせながら気づかわしげにモンドを覗き込む灰色の瞳があった。
「リーフェ……」
「……遅くなりました」
そう言って唇を噛んだ娘の表情は、今にも泣き出しそうに見えた。
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明日は9話と最終話を同日投稿します。18時、18時30分の2回です。




