6話
執務室に着くと父は執務机に向かっていた。
幼い頃は呼ばれずとも勝手に忍び込んで叱られていた父の仕事部屋。今は近づくだけで憂鬱な気分になる。重い気持ちで扉を叩くと、「入れ」と声が聞こえた。
「……失礼いたします」
「うむ。実はお前に伝えたいことがあってな――」
リーフェが扉を開けるなり、珍しく父は自ら話を切り出した。
「男爵家へは正式に断りの連絡を入れた。先ほど先方からも返事が来た」
残念だったな、と机の上にぱさりと取り出した一通の書簡には、男爵位専用の色が使われた封蝋が残っていた。格上の辺境伯からの要求を男爵であるヴィートの父が蹴れるわけがない。当たり前のことを得意気に語る父への苛立ちを抑えながら、私は父に尋ねた。
「なぜですか。嫁ぎ先を見繕えない方が恥だったのでは?」
「そんなこともわからんのか? お前が令嬢としては出来損ないだからだ。そんな人間を外に出しては辺境伯家の恥をさらすようなものだろう? とにかくこの話は終わりだ」
「先日も申し上げましたが、これまでと言っていることが正反対です。それでは私はもう令嬢らしく振舞う必要はないのですね」
「そう言うことをいっているのではない!」
煽るような私の言葉に父の語気が強まる。
「出来損ないのお前を外に出すことで我が家の格が下がると言っているのだ!」
「我が家の格がどうとか言うのなら、私が嫁がずとももうすでに下がり始めていると思いますが」
「なんだと?」
父の顔色が変わった。
「守備兵は壊滅だったそうですね。お父様が直々に選んだ兵士たちが、マドヴォルフに手も足も出ずにやられたそうではないですか」
「今すぐその口を閉じろ、リーフェ」
「いいえ、閉じません。お父様は彼らの何を評価して守備にあたらせたのですか。力だけでは魔獣と戦うのが難しいことは、お父様が一番ご存知なのでは? 彼らの適性を見誤った結果、死なずに済んだ者たちが命を落としたのではないですか」
「黙れっ!」
とうとう父は机を叩きながら怒声と共に立ち上がった。
怒りに満ちた父と目の高さが揃う。唇をわななかせた父が低く唸った。
「それ以上私を愚弄してみろ。娘だとて許さぬぞ」
「そうね、お父様は許せないだけよ。私がお父様よりも強くなったことが」
「――っ」
私の返答に父の動きがぴたりと止まった。
自分が剣術に興味を持たなければ、私の体になじまなければ――そう思ったこともある。ある日の手合わせで、私の手加減に気づいた父の顔色が変わったことも良く覚えている。しかしそれでも私は父を見損なうことはなかった。
――だって、私のただ一人の父親なのだから。
生まれてすぐに母を亡くした末娘を、父はとてもかわいがってくれた。一方で、魔獣が現れたとあれば厳しい表情で采配を振る姿は誰よりも頼もしかった。
けれど、もう幼い娘の憧れだった父はいない。
ここにいるのは強すぎる劣等感から、自らの目を塞いでしまった一人の人間だ。もしかしたら選抜した兵士たちも自らの脅威となることを無意識に恐れ、自分に敵わない者を選んでいたのかもしれない。
私の言葉に父の口元がぶるぶると震えだした。顔は赤を通り越してどす黒く見える。
「……っ、おまえは――」
「旦那様! 失礼いたします!」
震える父の唇が開きかけた瞬間、執務室の扉が慌ただしく叩かれた。きっと執事だ。しかし普段なら誰かが父と話していることを知りながら扉を叩くことはない。
まさかまた魔獣が?
焦った私の予想は見事に裏切られた。
「客人が――」
「お取込み中失礼しますよ」
その声に私の心臓が大きく跳ねた。
聞き馴染みのない声なのに、もうずっと昔から知っているような気がする。私はずっとその声が聞きたかったのだから。
「おっと、こちらにいらっしゃったのですね」
視線の集まる扉から姿を現したのは、濃紺のジャケットに深紅のサッシュが映える長身の青年。だが記憶の中の彼の姿とは違う。分厚い眼鏡はどこにも見当たらない。長い前髪は横に流され、分けられた髪の隙間から端正な顔立ちが覗いている。
「ヴィート、様……?」
思わず名を呼ぶと、青年はにぃっといたずらそうに笑った。そしてリーフェにだけ聞こえる声で呟いたのだ。
「リーフェ様のためにさっそく出世してきたぜ」
その笑顔は間違いなく私が待っていたヴィートのものだった。
しかしすぐに表情を消したヴィートは、父の前に進み出ると姿勢を正した。
「先日は大変お世話になりました。何度も手紙を送ったのですが、お返事がありませんので直接話した方が早いかと思いましてね」
皮肉たっぷりに告げる姿には、以前の頼りないヴィートの面影は皆無だ。上背があるヴィートに自然と見下ろされる形となった父は、信じられないという顔でヴィートを見つめている。
「お、お前、本当にあの出来損ないのヴィート・タブルなのか?」
「確かに、自分が『あの出来損ないの』ヴィート・タブルです」
「その姿は……」
「ああ、これは手紙でも報告しましたが、先日陛下から近衛騎士団副団長に任命されましたもので」
「近衛騎士団だと!?」
その名に父の目が見開かれる。
ヴィートは深紅のサッシュを指先でつまみ、ひらひらと揺らして見せた。
近衛騎士団と言えばこれまでヴィートが所属していた王国騎士団と異なり、特に優れた騎士が選抜されるという国王直属、少数精鋭の騎士団だ。まさかついこの間まで「出来損ないの騎士」として邪魔者扱いされていたヴィートが、近衛騎士団の――しかも副団長に任命されるなんて。
たしかにヴィートの実力を知っている私には納得の人事だった。しかしヴィートの腕前を知らない人間にとっては信じられないだろう。案の定、父が騒ぎ出した。
「いったいどんな手を使った! 国王陛下に取り入るなど、決して許されるものではないぞ!」
「どんな手って……騎士団長たちを全員倒しただけです。あれ、お手紙に――」
「そんなの信じられるか!」
あまりに荒唐無稽な状況だ。もちろん父が受け入れるわけがない。激しく机を叩く父は、怒りのあまり肩で息をついている。
「まあ、結果的に将来は約束されたわけです。なので改めてお嬢様との結婚を認めていただきたく――」
「今回の縁談は断ると伝えたはずだ! お前は私の命が聞けないのか!」
「それは残念です。しかし今回は王命です」
終始冷静に話を進めるヴィートの口から飛び出した単語に父の動きが止まる。
「なんだと……」
「今回はお手紙を送っても間に合いませんので直接持って参りましたよ。ああ、読みたくないかもしれないので、僭越ながら僕が読み上げます」
そう言ったヴィートはごそごそとジャケットの内ポケットをさぐると、一通の封筒を取り出した。そのままべりべりと乱暴に剥がした封蝋に使われていたのは、王家のみに認められた白色だ。
「えーっと簡単にまとめると『近衛騎士団副団長ヴィート・タブルとジャビネット辺境伯家三女リーフェ・ジャビネットの婚姻を認める』とのことです 俺の昇進についても書いてありますよ。読みます?」
「そ、そんな。陛下が……?」
ヴィートが差し出した書簡を奪い取った父は、忙しく目を動かすと「信じられん」と言ってガタンと椅子に座りこんでしまった。
「お父様……」
このわずかな間に一気に老けたような父に私は声をかけた。しかしその呼びかけに父が反応を示すことはなく、私の声は宙に溶けて消えた。
お読みいただきありがとうございます。
次話は明日18時に更新します。