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N氏の犬

 あの犬の名前はチェロというらしい。


 N氏の飼っている犬で、なんとも悟ったような顔つきでおり、澄ましている。N氏と散歩する姿をよく見る。だから何だというわけでもないが、ある日こちらに向けた視線が忘れられないのだ。


 あの視線はわたしに向けられたものだったかすら判然としない。すれ違いざま、N氏にリード線でつながれて歩く一瞬、チェロがこちらを覗いてきた。雲にいたずらされている夕陽を背景に見たから錯覚を起こしたのかもしれない。逆光の暗がりにおいて刺すような瞳を見せつけ、チェロはわたしの視界から去っていった。何かが芽吹くのを感じた。


 外出中だろうとネットサーフィン中だろうと、チェロに似た犬を発見するようになったのはそれからである。はじめは世界にはたくさんのチェロがいるんだなと呑気に思ったものだが、暇ができるとチェロを探している自分に気づいてからはそうもいってられなくなった。自分が知らぬうちに別人になりつつあるようだった。


 自分の中で育つ“芽”があるが、その正体は何なのか。きっと遠回りしているだけで答えは至極単純なのだと考えていると突然行動が流れ作業のごとく進んで、気が付けばチェロと似たような犬を飼っていた。名前はチェリーにした。


 この犬からわたしは何を得ればいいのか我に返ったが、わからない。とりあえず可愛がってやると曲がりになりに応じてくれる。なかなか見どころがある。それこそ一日中遊びそうな勢いで互いに主従関係を忘れてじゃれあいたくなった。


 夕方のN氏の散歩に出かける時間になって突然現実に呼び戻された。ベランダからチェロを眺めるためにわたしの身体は動き出した。わたしの関心第一位は依然として変わらないらしい。だがここでチェロを鼻であしらうことができればすべては片付いたとしていいだろう。

 

 少し待って現前した輪郭は期待通りN氏とチェロだった。一目見てよし部屋に戻ろうと上辺では決意したのだが、肝心の身体がそこから離れようとしない。別にいいじゃないか他人のことなんかと自分にはっぱをかけるのだが効果はない。N氏を見てチェロを見た。二つの姿が点になっても満足することなく見続けた。最後にはため息をついた。


 チェリーでは足りないのではないか。いやそんなことを信じたくはない。チェリーの元に戻り、抱き上げた。チェリーの全身を必死になって見回した。チェリーはきょとんとしてされるがままだった。物足りない。疑心が着々と認めがたい確信へ近づいていくようで辛かった。


 別の解決方法を模索し始めた。どうも扱いが惰性由来になったためかぞんざいだったのだろう、チェリーの方は抗議の手段を考えたようで、わたしがベランダに出ようとするたびにけたたましく吠えた。近所に変な噂がたっても困るのでどうにかしないとなあ、と思いつつも関心はやはりベランダの向こうにあったが、どこで化学反応が起きたのだろう、チェロの散歩する時間に合わせてこちらも散歩すればなにかつかめるのではないかという画期的アイデアが浮かび上がった。だがこれは混ぜるな危険の予感がした。


 予感はわたしの意に反して追及を始めた。おい、チェロの散歩を眺めるのも大概だが、それを超える欲求のエスカレートは歯止めが利かなくなる。最終的にチェロをわが物としたいと思うだろう。そのためにお前はN氏に譲ってもらうか強引に奪うか真面目に考えるだろう。いいか、こういうのはほどほどがいいんだ。わたしは反論した。いくらなんでも極端な話になってないか?バカバカしい。犬一匹にそこまではしない。


散歩中のN氏を見つけるのは容易だった。いつも眺めていた道を素直に辿っていくと向こうからやってきた。N氏とチェロと出会う状況があっさり完成した。


 すれ違いざまわたしは適当にあいさつした。他になにも準備していなかったため、あいさつしか打つ手がなかったのだ。ところがそんな場面で一役買ってくれたのがチェリーだった。チェロに向かって優しく吠えてそれにチェロが応じ、散歩は中断された。どうも気が合うようでとN氏は微笑ましさを露わにした。同意見だった。願ってもないチェロへの接近が実現した。


 わたしとN氏は都合が合うたびに散歩中に出くわし、話すようになった。正当な理由からチェロを近くで見ることができるようになった。さらにN氏は飼育のことをはじめとしていろんなことを親切に教えてくれる。だがわたしの中で搔き立てる存在が消えたわけではなかった。むしろ変異して隆盛を迎え出したという方が正しいのかもしれない。チェロを見ていると周りを忘れてむしゃくしゃに触ってやりたいという欲求に駆られるのだ。N氏の言葉やチェリーの大暴れという邪魔により、理性が息を吹きかえすので欲求は実行には至っていないが、邪魔が邪魔でなくなればと思うと安堵もできまい。どこかでブレーキを用意しなければとうっすら考えはするのだが、対策する前に紙が風に飛ばされるかのようにして忘れてしまうのだった。



 N氏が旅行のためチェロをしばらく預かってほしいと頼んできた。チェロが家に来る!これは大事件だった。N氏がわたしを頼ることが信じられなかった。散歩以上の関係はない。チェロとチェリーの良好な関係に期待したとしか想像がつかない。そのときのわたしといったら浮かれすぎて明日世界が滅ぶんじゃないかなんて真面目に考えていた。


 何はともあれチェロを手中に収めることができた。チェロに接して人の言葉を話さないということを確認したあとはそれはもう欲望のままに貪りまくった。途中からチェリーも巻き込んだ。このときだけは何からも解放され、無邪気であれたような気がする。長くは続かなかったが。


 わたしの熱が冷めると今度は脱力と罪悪感が待ち受けていた。二匹からはなんだか距離を置きたい雰囲気が漂い始めた。対するわたしは身体が融け、床いっぱいに染みわたりそうな、あるいは地球の自転に従ってに身体が振り回されているような気分だった。しばらく何もする気が起こらないし、実際二匹をするがままにさせておくしかなかった。何かが自分の中で枯れかけたのだろうか、わからない。


 散歩を重ねるにつれてチェロに違和感を見出すようになった。散歩途中でN氏に連れられていた姿と今とでズレがあって、別の犬を見ている気分なのだ。責任は明らかにわたしにあり、N氏に申し訳なくなった。せめてもの償いにチェロを洗おうということになった。


 結果、違和感は薄れるどころか一つの到達点に達した。洗い終えて、チェロとチェリーの区別がつかなくなってしまった。もともとチェリーはチェロを求めて買ったのだから、当然の結果かもしれない。流石にしぐさを観察していれば別に名前を呼ばなくても躾の度合いでどちらがチェロかはわかる。問題はわたしの次の行動である。チェロ自身ににわたしを満たす要素を先天的に内包していないとなると、N氏にそれがあるのだろうか。あるいは単にわたしの不器用さゆえにと犬の輝きを穢してしまったのか。


 とにかくN氏は変わり果てたチェロに幻滅し、諸悪の根源たるわたしを軽蔑するだろう。でも構わない。肝心のチェロがわたしの求めるものを失ったのだから。わたしはまた新しい「チェロ」を見つけるしかない。


 チェロを返した時のことを話そう。N氏がチェロを抱きあげたことで、ただそれだけのことで失われていた「チェロ」らしさがN氏によって補充され始めているように見えた。N氏の顔を覗くと、依然と変わらぬ穏やかさがあった。信じられず試しにチェリーをそそのかしてN氏の足元へ行かせた。チェリーはこちらに戻りたがってN氏の半径三十センチ以上は近づかなかったが、それでもN氏のオーラを浴びて美しさが付与されだした。チェリーがこれほど愛らしいのは初めてのことだった。わたしによって植え付けられた穢れがN氏の力によって浄化され、輝きを得ていく神秘的光景がそこにあった。進展のなかった“つぼみ”が充実の“花びら”を広げたのを感じた。


 次の旅行はいつだろう。近いほど眩しい普通の光と違い、遠ざかり、その都度輝きを増すN氏とチェロという光を眺めながらそう思うのだった。

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